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新時代に踏み出せた年

2014年12月31日(火)
 年の終わりにことあらためて何かを思い返すということはあまりしないが、今年は特別だ。
 たくさんのことがあっただけでなく、僕にとっては重要な一年だった。
 まず『小説は君のためにある』の続編として『小説にできること』(ちくまプリマ―新書)を出せたことは大きい。小説を書く人間は、小説について考えていることを明示しなければならない、たとえそれがどんなに稚拙な考察であっても、という信念のもとに書いた。結果、稚拙なものにはなったが、恥ずかしいが、やれるだけのことはやった。小説については、これからも考えていくつもりだ。
 筑摩書房からは『鎌倉遊覧』という文庫も出してもらえた。アンソロジー編纂は初めてだった。まだ暑い頃に鎌倉に行って、あれこれ見て回った。そして自分にとって鎌倉とはどういう土地かを確かめることができた。これもまた、これから先につながっていく仕事だった。
 そして自力で本を出した。愛着と自信があり、思い出深く、しかし永らく品切れだった小説『世界でいちばん美しい』を作った。失敗は小さくなかったけれど、すべてが経験になった。
 私生活でも父を送り、六十一歳になった。「どう見ても若くはないが、身体は動く」という、厄介でもあり面白そうでもある時期が始まったのを感じる。この時期をできるだけ長引かせるのが私的な課題になるだろう。
 この私的な変化と私家版の出版は関係がある。密接な関係が。僕は衰えていかなければならない。小説を書いてふと目を上げたら午前三時だった、なんてことはもう起こらない。肉体を頼みにすることは、もうできない。
 そこに現われたのが、三種の救いの手であった。
 インデザインというテクノロジーの救いと、
 コミックマーケットや文学フリマのおかげで身近に、軽やかになった印刷・製本技術の救いと、
 それらの現状を僕に告げてくれただけでなく、細部に至るまで何くれとなく教示してくれた仲俣暁生さんという友情の救いが。
 この三種の救いがなかったら、僕はただただ衰えていくだけだったろう。出版社からの依頼を指をくわえて待ちながら、それが訪れないことを憂鬱な諦念と共に認め続け、少しずつダメになっていっていただろう。
 同時にこれまで僕がやってきたことは、だんだんと朽ちていく一方だったろう。小説を仕事にしてから、今年で二十一年になる。ずいぶんと働いた。けれども今も現役でいる小説は、もう数えるほどしかない。品切れになった小説をよみがえらせる力は、どこにもない。

 だが指をくわえて待つ必要はない、小説を枯死させる必要はないと、目を覚ますことができたのが今年だった。自分から動けばいい。その方途はある。三種の救いがそれを教えてくれた。
 僕は今年、再び活性化した。
 驚いたことに、それは僕一人が活性化したのではなかった。私家版の制作を『世界でいちばん美しい』から始めたのは、目論見のあったことだが、そしてその目論見は大当たりというほどのことではなかったが、その反応は明確で、形があった。僕はなじみのなかった販売や郵送のシステムを学び、封筒やガムテープを買いに走り、トラブルに対処し、買ってくれた方々のメッセージを受け取った。
 僕の小説はよみがえることができる。受け取ってもらえる。
 それは僕の生きる価値と同じことだった。

 私家版の在庫はまだ半分残っているし、宣伝も営業も手を付けていない。課題は多い。ありがたいことだ。来年は書店営業もやらなければいけない。新しい本も出さなければいけない。経費を抑える方法も考えなければいけない。
 幸福なことに、僕にはこのいずれもができる。身体は動くのだから、書店を回ることはできるし、経費についても考えはある。
 そして「本を出す」ことについては、まったく心配無用なのだ。長く書いてきたのだから。それは新しく書くこととは別に、「蘇生・復活」として小説に働きかける仕事だ。楽な仕事ではないけれど、可能である。
 僕は楽観しているのではない。楽観とは程遠い。その緊張こそ僕を活性させている。

 さらに言えば、これは僕一人の問題ではない。
 出版という事業が、文芸を支えきれないとはっきり示したのは、恐らくコロナ禍以後だろう。少なくとも僕の実感としてはそうだ。彼らが執筆依頼をしなくなった物書きだって、僕一人ではないはずだ。
 しっかりしたものを書きながら、その書かれたものも人も保護できなくなった出版社は少なくない。彼らにそれらを保護する義理もない。必要もない。
 それは実は、今に始まったことではないのだ。売れないけれどいいものを書く物書きを、これまで出版社がさまざまな手段で保護してきたのは、保護が可能だったからに過ぎない。今は保護が不可能になった。書き手は保護に甘えられなくなった。
 これだけでも新時代の到来といえる。それは書き手にとってだけではない。読み手も知らないうちに多様性を失いつつある。あるいは、読み手の求める多様性が出版ビジネスの抱えきれるものでなくなったのかもしれない。 
 いずれにしてもこれから先、多様性と保守の溝がいよいよ明瞭になるのは確かなように思われる。
 出版ビジネスにも課題は深刻だろうけれど、多様性の側も危機感がなければいけない。エントロピーじゃないけれど、多様性も行きつけばいずれ「いろいろあるけど、どうでもいい」という世界になるだろうし、どうやらすでにその予兆はあるみたいだ。
 その先に何があるか。僕には判らない。ただ新時代が来たことだけがはっきりしている。今年、つまりまだ新時代到来から何年も経っていないうちに、そっちへ一歩踏み出せたことは、もしかしたら我が人生にたまさかある、思いがけない僥倖のひとつだったかもしれない。

 皆様、今年は本当に本当に本当に、ありがとうございました。来年も、来年こそ、どうぞよろしくお願いいたします。
 よいお年をお迎えください。

                       藤谷治拝

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