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日記:自分の死生観について気付いたこと

IT専門学生のふじさわです。

ここ数日は記事を書くほどの時間的・体力的余裕がなかったのもあり、ひとこと投稿を続けてきました。

特に一昨日と昨日は韻を踏んでひとこと投稿をしたのですが、なんか楽しかったのでよかったです。


さて、私は普段から自身の生や死と、人間環境との関係について考えています。

先日、いつものように帰りの電車の中でそれについてぼーっと考えている時ふと発見したのですが、私の死生観は意図せずネガティブなバイアスがかかっていたようです。

例えば私自身が生きることと周囲との関係については「ちょっとした行動で他人からの評価が簡単に上下するの辛いな」みたいな人間関係の大変さのことを考えています。

反対に私の死について考える時は「私が死んだとて世の中に変化はない」みたいなことを考えています。

要するに、他人との共存という環境下においては生きるのはストレスも多く、死んだとて何があるわけでもないので、私が存在するメリットや人生の存在意義なんて皆無だと思っています。
(だから死にたいという話ではなく、メリットがない中でどう生きるかという話ですが、それは省略)

ただ、これってあまりにも悲観的すぎるし、よく考えると比較基準が変なんですよね。

「他者との関係の中で生きる大変さ」について考えている時は、身内や直接かかわる”局所的で具体的な他人”を想像しています。

反対に「死の影響性のなさ」について考えている時は、世の中の人間という”大局的で抽象的な他人”を想像しています。

今あげた生死と他人の関係を反転させると、

私が生きていてどんな失敗をしてどんな成功をしようと世の中のほとんどの人にとっては存在していないのと同じくらい影響がありません。(つまり、先述の大変さがない)

私が死んだとき、自分で言うのも変ですが、家族や友人や他の直接かかわりがある方々にはきっと大小問わずなにかしら影響を与えることになると思います。

このように、私が生きていると周囲に迷惑かけたりすることもあって大変だけど広く見れば小さな問題に過ぎず、私が死ぬことは世の中的にはアリの行き先よりどうでもいいですが周囲にとっては大問題です。

つまり死ぬことや生きることに対して、あえて楽観的視点をふさいで悲観的な見方をしていることになります。

まあ、人間はかわいそうな人であるほど人生が楽になるので、無意識にそういうバイアスがかかったのかもしれません。


思考の日記でした。

以上。

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