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アウトプットすることがすなわち生きることなのか

みなさんのパソコンやスマホにはデータが入っています。その中の、例えば綺麗に撮れたパフェの画像データを、Twitterにアップすることもあるでしょう。そのパソコンやスマホがある日急に元に戻せないくらい破損してしまったとして、一度もネットに流れなかったデータはこの世から完全に消え去り、他のスマホやパソコンを主語に置くとすると初めからそんなデータがなかったかのように見えるはずです。ただ、パフェの画像だけを発信した事実だけが残って。

私は、人もそれと同様ではないかと思っています。

人は生活している間、ほぼ絶え間なく何かを考え続けています。頭の中で創造し、議論し、回顧し、予想し、さまざまな要素から構成されたその人自身の「考え(先の例で言うデータ)」を生成しては忘れていきます。そして頭の中にだけあったそれを言葉や動きなどで表現することで他者との繋がりを持っています。もっと言えば、他者から見たあなたや私という存在は、アウトプットされ表現されたものがすべてです。

反対に、あなたが思ったこと、感じたことを全然アウトプットせずすべてを心の中にしまったまま死んだりした場合、それらが完全に消え存在に至らず、他者から見ればあなたの人生で蓄積したものなどまったくなかったのと同じになるのではないでしょうか。

結論ですが、どんな些細なことでも誰かに伝えたりどこかに記録して残したりといったアウトプットをすることでようやくその人自身が存在し、「生きている」ということになるのではないか、という話です。少なくとも私は、誰かのためでなく自分が生きるために表現していこうと思います。

(おわり)

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