うそ
嘘を付くのって費用対効果そんなでもないくせに、体力使いますよねー
と、言いつつ自分は結構嘘つくんですけどね
ただ、自分がつく嘘はその場限りの、使い捨ての嘘で、また、他人にその真偽を判定できないものなのでその後に影響を与えず、したがって体力使わないんですよね
楽したいから嘘ついてるだけで、自分大きく見せたいとか悪意とかはないんですよね
で、これって実は嘘でもない気もしてくるんですよね
受動意識仮説において、意識はエピソード記憶を生成するために行動の理由を適当にでっちあげてるって話があるんですけど、
私がやってるのも同じことで状況に対する説明の中で最も整合性の高い自分にとって都合のいい解釈を出力してるだけなんですね
まあ、私からした現実認識としては明確に嘘であることも多いんですけど、結果に対する理由付けとして、こう言うふうなんじゃないかという解釈を示すわけですね
自分がそうじゃないと思っていても、実際のところなんて、自分にもわからないので、それもまた、真、足り得るのですね
やってないことやったというのは嘘ですけど、手は動かしてないけれど、どうすればいいか悩んでましたは、実際は思考停止してボケーっとしてたとしてもそれは真、足り得るのです
自己認知の先で、自身を俯瞰した場合、自分そのものの解釈は任意に変容させ得るのです
基本として私がつく嘘は現実に起きた事物そのものに影響を与えないものなのです
ただ、他者の視点からすると現実に影響はないが、自分の視点からすると明確に現実を捻じ曲げているとかはありますけどね
○○した?に対して○○してないということなんかがそうですね
ただ、こういう場合の嘘も上記と同じように現実を最適化するために出力されるもので、他意はありません
このときの嘘は自己認知如何によって、結果が確定するものであって、他者の視点によって結果が左右されるものではないのです
つまるところ、この嘘は私がほんとだといえばほんとになり、私がほんとだと信じてしまえば疑うことのない事実なのです
ここでは、現在からして自己にのみ拠る現実そのものを最適化・再定義することが可能であることを意味します
客観的に証明できない事物は私の主観を信じるしかないからです
私の言葉、私の記憶が私の現実を形作るのです
しかし、それはどこまでも主観によるもので、絶対に正しいとする根拠はないのです
そういうわけで、私がこうだと思ったよといったことは、私が実のところ嘘だなーと思っていても、私の現実として成り立っているのです
プラグマティズムにも近い考え方かもしれないですね
与えらた情報の上に成り立ち得る説明の一切は真である、と言うことです
ミスに気づいても、気付かないふりをして、ミスが発覚する破滅的な場面でやっとミスを指摘したとき、私がミスに気づかなかったというのは嘘でしょうか?
私がミスに気づいていたのは事実ですが、指摘しなければ気づいたことにならないですし、ミスがミスと判定されるまでそれはミスではないとの解釈もあります
私がミスに気づいたのはミスが起きたその時なのです
ミスが起きたその時に、ミスに気づいていたという私が立ち上がってくるのです
認知機構の上で無数のほんとうを形作るのです
私はミスに気づいてもいたし、気づかずにもいました
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