遮音性の低いイヤホン
瞼が遮るには強すぎる太陽の嫌がらせで、アラームの30分前に目が覚めた。起きてしまうか、それとももう少し寝るか、迷いながらTwitterのトレンドをスクロールしてるうちに30分はあっという間に経つ。
パンプスを履いて、またいつもの東横線へ歩く。たぶん、もう実家の玄関をくぐるよりも遥かに遥かに多くの回数、この改札を通っている。
電車に乗る前に入った駅のトイレには、“注射器をここに捨てないでください”と書かれた張り紙と、三ツ矢サイダーの空が床に落ちて濡れていた。
「すいません、この電車は新宿に行きますか?」見た目齢70の老婆の声が後ろから聞こえる。私に投げかけてる言葉なのだ、と認識するまで300fほどかけていると、再び、「すいません、新宿へ行きたいのです。」と、さっきよりもやや上擦った声が聞こえた。
「ああ、行きませんよ。」そう、抑揚のないトーンで返した。冷たく聞こえたかな、なんて小さい後悔がちくりと私の胸を刺す。
「そうなんですね、分かりました。」特に気にした様子もなく老婆はにっこりとそう言い踵を返した。
家に着いてパンプスを脱ぐ。時間は21時を回っていた。変わらない、ただただ変わらない日常を回しながら、10年後私はなにをしているんだろうとかとりとめもないことを考えながら浴室へ直行する。
濡れた髪を雑に拭きながらリビングに行くと、灰皿にわかばの吸い殻が山になっていた。ああ、そういえばゴミの日、また忘れてたなあ。世界中の人に憎まれている植物の死体を眺めているとそんなことを思い出した。
しょぼいビールのプルタブに指をひっかけて、わかばに火をつける。毎日、変わらない私のルーティン。明日も、明後日もきっと変わらないんだろう。変わらない。幸福なことだ。そう虚空に煙と一緒に声を吐き出して、煙と一緒に虚空に溶けると同時に、わけのわからない感情がぐちゃぐちゃと増殖して、目から溢れた。
「星が見えるね。みてよ、ほら。」わかばの灰が伸びていることにも気づかずに、そんな懐かしい言葉をふと頭の中で反芻する。
遮音性の低いイヤホンから流れる椎名林檎のアルバムに、やたら耳に刺さる東横線のアナウンスが混ざる。
死体の悪臭のような匂いが立ち込める駅のホームで、彼女は何の用事もなくスマートフォンのホーム画面を左右にスワイプしながら、海老名行きの各停電車を待っていた。今日、特別何があったわけではない。彼女の感情を動かすようななにかも、ときめきを与えてくれるような何かも。
の筈なのに、やけに気分は浮き足立っていて、どことなく落ち着かないような、心臓だけがきゅうと絞られるような不快感にただ彼女は耐えていた
たとえば、泣くためだけに作られたださい映画と、それを見て泣くくだらない私との関係のように。あまくて、ぬるい、堕落した関係のように、何もかもを私は許すから。ゴミの日を忘れても、突き放すような言葉を老婆に投げかけても、何もかもを許して。許してよ。
薄い青色のラムネを両の手一杯に口に頬張る。苦い。それでいい。
遮音性の低いイヤホンから聞こえる神崎川を聴きながら、目の前にある真っ白な文化包丁を手に取る。とたん、赤黒く文化包丁は染まって、風が頬を撫でた。遮音性の低いイヤホンから聞こえる何かに混ざって、天の川の声がした。