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麦茶も愛もありあまる
「もっと、指先に愛をこめる」
うすい壁越しに、あついフレーズが聞こえてきた。
たぶん生まれて初めて聞く。
わたしはうつぶせのまま、両脚を「又」みたいなかんじで思いきりクロスしている。
たぶん生まれて初めての体勢。
マッサージでは満足できなくなり、ネットで見かけた本格整体に試しに行ってみた。
力加減も少し強めでしっかりほぐれるし、次回予約やキャンペーンの類をいっさい勧めてこない商売っ気のなさ(技術への自信ともいう)も、すっかり気に入ってしまった。
なにより、施術中に世間話をしてこないので大変リラックスできる。人と話すとどうも交感神経が優位になってしまう。
年季の入った雑居ビルだが、学習塾のようなこじんまりした店内は明るく清潔。屈強そうな男性店長と、本日の施術担当の方がふたり並んでにこやかに迎えてくれた。
後方にペッパーくんがいる。電源を切られているのか、あらぬ方向を見つめている。哀愁がありあまる。
平日の昼過ぎ、わたし以外に予約が入っていない時間帯だったのか、隣のブースでは新人さんが施術の練習をしていた。
どうもその声が漏れ聞こえてきたらしい。
指導者は屈強な店長、練習台は女性の整体師さんのようだ。
「ここに立つと、気配感じてイヤでしょ」
「はい」
「ちょっと強いですね、強い」
「はい」
「もっと、指先に愛を込める(2回目)」
「はい」
ほぐれてまどろんでいく意識のなかで、いい仕事ってそういうことなのかもしれないなあ、と思った。
動きの端まで意識を込めて、誰かの心身をほぐしていくこと。
指先の所作がきれいだったり、口角がキュッとあがったりしている店員さんは、感じがいい。
買い物やサービスで何かを得た、という高揚感におまけがついてきたような気になる。
印刷したときにちゃんと1枚に収まる資料は、作成者を信頼できる。
トリッキーなサイズ設定のせいで、コピー機からピピピッ(その大きさの紙ないっすよ)と呼び出されたり、妙な枠線や余白のせいで1枚多めに出力されたりすると、ついつい顔がチベットスナギツネになってしまう。
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公共交通機関のアナウンスも、「今日も遅くまでお疲れ様でした」などのちょっとしたひとことで、ホスピタリティを感じる。
家庭でも、褐色のパスタやラーメンに豆苗やカイワレの彩りを添えると、ちょっとだけよく見える。
CMで耳にした「このひと手間が、アイラブユー」とはよく言ったものだ。
あたりまえのことをこなすだけでなく、その先にいる相手を思う余白、スペースを持つこと。
売上を上げることや高い技術、後世に残るような仕事だけが《いい仕事》にまとめられてほしくないなあと思った。
指先に愛を込めるような仕事を、わたしも肝に銘じていたい。
考えも整ったところで、遅めの昼食をとる。
せっかくほぐれたので、じんわり染みそうなやさしい食べ物がいいなと思い、豚汁専門店を訪れた。
いまのところ、人生で最後に食べたいものの候補に入っている豚汁。
最後に食べるなら、胃もたれしないものがいい。とはいえ、味噌汁だけだとお腹にたまらないので、具がごろごろ入った豚汁、という寸法だ。
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実に具が大きい。
あまり期待せずにかじったニンジンは、大きいのに味噌のコクが全体に染みていた。ニンジン特有の青くささがまったくなく、ほのかな甘みだけが残っている。
思わず「うま」と声が出た。この場合のうまは、馬ではなく旨である。
ニンジンなのでややこしい。
ニンジン自身も繊維の奥まで味噌汁が染みて、気持ちいいだろうな、と思った。なんだか、豚汁の真ん中で満足気に風呂に浸かっているようにもみえてくる。
うなぎの寝床のような細長い店内では、店員さんがこまめにお茶を注いで回っている。整体後だから水分をとらなければ、とおかわりをお願いした。
二度見した。
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湯のみのふちと、水面の余白がほとんどない。水面張力まであと少し。
これがこの店の規定量なのかもしれない、と他のお客さんのお茶を観察していたが、なみなみひったひたなのはわたしだけだった。
わたしもよそ見していたが、店員さんもよそ見していたのだろうか。わんこそばのように、ストップをかけなければいけなかったのだろうか。
それともわたしが整体帰りで水分を欲していることを察してくれたのだろうか。いずれにせよ、ありがたくそっと全部いただいた。
指先に愛がありあまる気がしたが、これはこれでおもしろいのでいい仕事かもなあと感じた。
レジで渡されたアジフライサービス券も、アジフライの持ち方の取扱説明書のような絵柄で、グッときた。
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愛だけでなくユーモアも指先に込められていると、なおいい。