院生からの搾取やめようよ
全ての記事がそうではありせん。題名はショッキングな感じですが、自分は真っ当なこと言うつもりです。困ってる院生さんにこそ読んでほしいです。
なぜ「生存者バイアス」で話をするのか
この話をするに当たっては、自分自身の紹介も必要でしょう。わたしは人文社会系で、国公立大学の専任教員になって3年ほどになるものです。前任校では任期付きポストに就いていました。修士入学から数えると今15年目でしょうか。前任校の任期付きポストのことを考えたら(5年任期満了しています)、別に自慢でもなんでもありませんがわりと就職はスムーズな方です。ちなみに奨学金の返済免除を受けています。学振は全部落ちました。学校歴としては、最上位クラスの私大で学部した後、一瞬就職して、後に国立大学の院に進み、博士号を取得しています。人文学に近い社会科学なので、博士号をとるのにはそれなりに時間がかかるのが普通な分野です。自分も5.5年かかりました。
noteを覗いていると、「学振の取り方」やら「奨学金の免除のとリ方」やら「業績を伸ばせ」だのという記事を見ます。まあ間違いではないのでしょうが、そういう記事を有料で出していることに非常に憤りを感じています。なぜならそれは、困っている院生さんの足下を見ているからです。
そもそも自分も准教授として、そこそこ大都市圏の国公立大学で人事を担当するようになりました。そこで見たのは、そういう記事の的外れさです。もちろん、学振はとれれば経済的にはマシだろうし(われわれの頃には副業が禁じられていた&雇用関係が結べなかったので、RAでもした方がマシでしたが、後光が射すとみんな信じていたのでした)、奨学金の免除も同じですが、別にそれで「大学教員への道が近づく」わけではありません。
なぜそう言い切れるかというと、前任校を含めて教員の補充選考にいくつも関わってきて、「一定量の業績があれば後は運と人柄だ」と強く思ったからです。これがあるので、いかにも何かが大学教員になるのに有利、というような書き方をしているのを見ると、自分のおかれた状態に対してそれがどのくらい運が働いた結果なのか計算せずにマウントを取るくらいの気持ちで(ご本人は気づいておられなさそうですが)書いている人が多いように思ったのがこの記事を書いている理由です。こういうのこそ生存者バイアスというわけです。
近年の大学教員人選では「学科専攻の意向は最後で反映されないことが多い」
はいまずこれです。前任校もそうでしたし、現在の勤務先でもそうですし、他いくつもそうだというところを知っています。人選の最後は、学科や専攻単位の意向は、最後の最後に「その学科や専攻の内容をよく知らない上層部」の勝手な意向によって決定されることが多いです。学科専攻単位の搾りは2~3人までというのを自分の勤務校を含めて良く聞きます。
この場合どうしたらいいかというとどうしようもなくて「運」しかないんですよね。この残酷な事実をなぜ突きつけてあげないんでしょうか。いくら学科専攻の意向として第1候補に残っても本部付けで落とされることなど山ほどあります。そしてそれはその勤務先のジェンダーバランス、コホート構成、今後のカリキュラム改定予定に合わせた人選と含めて、ガチャ以外のなんでもありません。まずは大学教員になろうという人はこれを肝に銘じて欲しいです。つまり、あなたがなろうとしている職業は「優秀さ」が正確に反映されるものではなく、かなり運です。運を誇るような、滑稽なマネはやめましょう。
運をあげる方法
(1) 修士から旧帝大に進学しよう
さて、これではあまりに救いがないので、もう少々人事担当経験者としてコメントしましょう。本気で、運を身につけたいのであれば、「最初から旧帝大に行きましょう」に尽きます。院だけでも結構です。旧帝大でも人文社会系ならば東大京大以外は後光ささないと思います。別に難しくないと思いますので(第2外国語だけがんばって下さい)、がんばって下さい。
さてなんでこんな救いのないコメントをしたかというと、旧帝大なら学振も査読も通り放題だからです。まあ査読は言い過ぎかもしれませんが、「よく知られている先生のお弟子」の後光は今でもかなり効きます。あの先生のお弟子さんならこういう論文を書くだろうと忖度してもらえます。このあたりで結構批判をしてくる人がいると思いますがそれは織り込み済みです。批判をしてくるあなたがもし旧帝大の院生ないしはその出身で、うまく行った人ならば、それは享受したということでいいんではないでしょうか。
自分は業界のトップ誌にD1で論文掲載を決定しました。自慢じゃありません。院は旧帝大ではありませんし、いろいろあって指導教員はそもそも分野が違います。そんなわけで結構査読を通すのに苦労しました。この時ほどイキらず旧帝大に進学しておけばよかったと思ったことはありません。こういう無駄な苦労はなるべく無くすのが院生のすべき「運をあげる方法」の一つです。
(2) 人格をバカにしてはならない
本当に言いたいのはここです。これは、学振を通した人ほど陥りやすい落とし穴でもあります。まず肝に銘じて欲しいのは、大学教員の公募で求められているのは「一緒に働く同僚」です。そもそも面接に呼ばれないのであれば、業績が点数として足りていません。はっきり言って学内紀要など全く点数になりませんので、きちんと外部の査読誌に書いて下さい。そこまではがんばってもらうより他ありません。しかし面接に呼ばれれば最後、そこで見られるのは「一緒に働くにあたって嫌な気持ちがしない人間かどうか」がかなり大きいです。
わたしの周りで、学振を取ったけれどイマイチ就職がうまく行かない人(それもたくさんいます)はここで滑っています。ただし、学振を取ることと、就職が結びつかないことには別の要因もあります。そこで、少し細かく話をします。
まず最初に、学振が取れる研究内容=優秀なのではありません。他の人に対して理解可能性が高いというだけのことです。後冗談じゃなくここでは、所属研究室の後光が射しますので、旧帝大院にいる人はフル活用してください。見る方はめんどくさいので、有名な先生のところの学生は通します。
さらに言うと、学振の場合は「研究の社会的な意義」が割合と求められると思います(科研費もですが)。しかし、そうした”みんなが理解しやすい”社会的な意義と、実際の現場の学部での専門需要は大いに異なっているケースをよく見ます。経済学の場合にはそれほど乖離はないのですが、人文学に近い分野ほどそうなっている感じがしています。実際に、心理学、社会学、文化人類学などの教員公募を見てきましたが、それを痛感しています。例えば心理であれば、みんな臨床をやりたがるけれど、実際は実験心理のような分野の方が公募としては「困る」(人がいない、資格取得に対して人員配置がいるなど)というケースがあるわけです。
また、学振の場合主張せねばならないのは「自ら(ないしその研究)の優秀さ」です。書類でも、面接でも(数年前から無くなったんでしたっけか)この一点に尽きます。一方、それは大学教員としての就活の際には全く無用のことなのです。
大学教員の選考の場合、まず普通に業績を点数化します。優秀かどうかなど誰も見ていません。機械的に点数化します。その上で、自分の学科や専攻の求める人物(~の講義を担当して欲しい、学務やってほしい、教育やって欲しいなどそれは公募からはわかりません)と思われる順に点数をつけ、面接を多くて3~4人に絞るはずです。
さて、面接まで行けばもう業績はみんな知っています。実は大半の大学で「そもそも書類審査をするかどうか」というこれ以前の教授会審議フェーズがあります。そこで落とされたら業績の吟味もなしです。ここは応募者にはわからないところですが、ここに乗らない人はそもそもどこ行ってもまずダメだと思います。そして面接の段になれば重要なのは先述した「一緒に働くに当たってめんどくさくない人かどうか」です。はっきり言ってここが一番大事です。結構適当な講義しかしない、研究もあんまりしない人でも学務をこなし、周りに波風立てない人ならばそっちを選ぶ学科専攻のほうが多いように思います。ここで、生存者バイアス大好きな人たちの多くが間違いを起こします。
というのも、学振を取った人ほど、そういう場ですら「自分はいかに優れているか」のアピールをするんですよね。いやねえもうこっちは知ってるから。そういう話ずっときかされんのしんどいわー、人柄的にこの人の方が良さそうだし「本学基準の業績点数(ここは大事)」満たしているし、こっちの人の方点数高くつけようか、って事案は死ぬほどあります。大学教員の採用面接ほど緊張するような場所はありません。しかも採用担当の教員のほうも実は緊張していますんで、人によっては自分が思わないところで圧迫気味になるみたいな人も見かけます。そういうところで、余裕を見せられる、というよりも人柄がいいので焦ってしまっても、逆ギレしないような人格が備わっている人は、結果、みんなうちではダメでも数年内に採用されているなというのがわたしの感想です。これはウソではありません。
(3) ライバルは「自分」
これは(2)にも関係することです。研究のライバルは究極的には誰か他者ではありません。自らの研究目的や構想に沿って、あくまで自己鍛錬するものです。まあこういうことを言うと、甘いとか、お前本当に研究者かとか言う人がいると思いますが、わたしはれっきとした研究者です。
なぜこういうことを言うかというと、自分自身を相手にする心構えを持たねば、人格が育たないからです。人に卓越する方法だけ考えるなら研究をする必要なんかありません。増してそれが非常にうまく行く人ならば、こんなわりの悪い仕事につくのはもったいないですね。社会還元の形まで含めて自分の研究構想とどのくらい自分の主分野と結びつけられるか、そういう深いところまで考えるような余裕はむしろ博士後期までしかありません。働き出すとそれどころではなくなるので、ぜひ人格の鍛錬を含めて気にしてみてください。
大学教員は別に良い仕事じゃないですよ
変な見出しになりました。正直人文学ど真ん中ならともかく、社会科学であれば、民間でも近年は需要が増してきていると思います。自分の所属する経済系の分野では、文化人類学や経済社会学などの「質的な研究」がマーケティングでも重視されてきていることがあり、高額な報酬の求人を見かけます。アメリカなどに目を向ければさらに求人はあります。ただし、一層日本での学位は旧帝大であることを求められると思いますので、そういう意味でも旧帝大に行っておかねば勝負は始まらないでしょう。
大学業界はもう衰退産業です。旧帝大や上位私大、医大、そして超大都市圏の公立大学(大阪公立大学や東京都立大学など)以外はやがて近いうちに衰退するでしょう。正直いって本当に若い人には大学教員になるのを勧めたくありません。よほど教育に使命感を持つ人以外はやめた方がいいと思います。わたし自身は教育の使命感を持っているのでこの仕事を選択したまでです。民間のシンクタンクなどからもオファーがありましたが断りました。
一言で言えば、わたし自身も運だけでこうなったと思っています。他の誰にもできない研究を無理矢理通してきた、その苦労は院生の時にはありましたが、こういうものは「単に大学教員になりたい」のであれば無用です。その時のムーブメントに沿って需要がありそうな研究を手数で出してください。しかし、何度も言うようにそうまでしてなるほど大学教員はいい仕事ではありません。お給料安いですよ。
まとめ
なんだかとりとめなくなった気もするので、最後にまとめておきます。
(1)旧帝大に行け(修士から先)
(2)長い院生生活の間にどうしてもできてしまう「他者との卓越化」の癖を、人柄の上だけでも消してください
(3)最後はいろんな意味で「運」です。小手先のテクニックはあくまでそれで「助かるかもしれない」程度のことです。この運を乗りこなす自信が無いのであれば、この仕事、収入の意味でもやる意味がありません。諦めましょう。
こんな感じでしょうか。身も蓋もないと思いますが、良心的な公募戦士に対するコメントや記事を書いている筆者さんもいるなか、いかにも特別なことがあるように見せかけてお金を取っているとしか思えない記事があるので、立腹して勢いで書いたものです。ただし、ここに書いてあることは本当です。
外部査読が通せないなら、研究者としての適性がありません。外部査読に通しているのに就職できないのであれば、人格に問題があります。
実はわたしが書いていることが一番「救いがない」と思います。あくまで参考までですが(再度書きますが、わたしはマクロ経済系の分野の研究者です)、「大学教員になりたい」と思う人には読んでもらえれば幸いです。
何よりも、まずはご自身の研究、面白いものを期待しております。研究者としてのエールはここに尽きます。ご武運を。
投げ銭用です、なにもこの先記事はありません。院生さんは払わなくていいです。
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