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高校時代のこと

 結局眠れないから、昔のことを思い出している。
私が一番、人生のなかで豊かだったのはやはり高校時代だったと思う。私の通っていた千葉県千葉市にある植草学園文化女子高等学校(現・植草学園大学附属高等学校)は、レベルはそんなに高くはないが、制服の可愛らしさと、先生たちの良心的さは千葉県一で、勉強も落ち着いてやりやすく、良い学校だった。私は幼稚園、小学校、中学校と公立だったので
私立校の生活が始まると思うとワクワクして、毎日が楽しくて堪らなかった。私立校だったから、毎日漢字テスト、英単語テスト、数学の方程式・因数分解などのテストがあり、良い点数のものは貼り出された。私は漢字テストと英単語テストが大得意で、貼り出されない日はなかった。そして、月一で小論文も書かされて、優秀者は貼り出された。私はその頃は詩を書いていたが、大人が読んでも納得できるような論文は書けなかったので貼り出されなかったが、書ける人はすごいものを書いていた。
 夏休みは、高1の頃はまだアルバイトはしていなくて、毎日のように幕張駅近くの図書館に通い、サリンジャーや、フランソワーズ・サガン、群ようこさんのエッセイ等を借りて読んでいた。この頃はイラストの同人誌にも参加していて描いてはいたが、私はやはり文章を書くことが好きだった。当時は詩を書いていたと書いたが、正確には唄の歌詞を書く作詞家に本気でなりたくて、投稿して評価が得られるスクーリングのようなものに参加していたが、
当時の1996年〜1998年頃というのは、自分で作詞作曲をするシンガーソングライターが主流になりつつあったから、私は「何か違う」と、自分に疑問を持ち、中学校の時に初めて高村光太郎の詩を読んで感動したことを思い出して、「現代詩を書いてみよう」と思い立った。しかし、当時はまだバイトはしていてもお金のない一介の女子高生。ワークショップの詩の講座になんか通える力もない…。でも、とにかく書いてみよう、と、原稿用紙に毎日向かい、『現代詩手帖』や『抒情文芸』の投稿欄に投稿し続けるものの、佳作にも選ばれずに、泣かず飛ばすだった。
 しかし、私の高校生活は華やかだった。毎日毎日、学校から帰ると勉強していたので、成績は常にトップクラス。国語全般と、歴史が特に良かったので、他のクラスメイトに教えていたりもした。
 進路先も、短大・大学も有望圏が10校以上あった。しかし、当時は父と母が離婚し、父はお金が無かったし、母は糖尿病の網膜症のせいで目が悪かったので働けなかったから、しかし母はなんとしても私を短大だけは行かせたいと、全財産を叩き、国からも修学金を借りて、私を短大に行かせてくれた。
 それから24年は経った今は、やっと少し報われ、2019年度『びーぐる』(澪標)の第8回新人に詩の世界で選ばれたり、出版し、詩誌の書評委員などもしている。私はけっして早咲きではないけれど、ゆっくりと着実に詩を書く人生を歩んでいる。これもきっと、高校時代のあののびのびとした日々があったからだと、信じている。
 

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