イエスマンになることは本当に得か〜誘いを断れない私〜
オススメの映画を平置きするレンタルショップで、必ずと言っていいほど見たことのある、手を広げ幸せそうな顔をしてる男のジャケット、映画「イエスマン〜“イエス”は人生のパスワード」を観た。
これを見て色々と考えたことがあったので残しておきたい。
ざっくり言うと、映画イエスマンのあらすじは友達からの誘いや仕事の場面で何かと理由を付けてNOと答え、ひとり寂しく過ごす主人公が何にでもイエスと答えるようになってから人生が変わっていくというものである。ざっくりすぎる。
昔、私は自分を人気者なのか?と錯覚に陥る一歩手前にいたことがあった。自ら誘わずともスケジュール帳の休みの日には友達との予定で埋まる。遊ぼうと誘ってくれる友達がたくさんいたのだ。
翌日の仕事のことを考えて真っ直ぐ家に帰る平日と、休日。当たり前のサイクル。でも、スケジュール帳を見つめるたびにもはや“休み”ではなく“こなさなければならないタスク”のような感覚があった。
もちろんその予定にオッケーを出し、その予定を作り上げたのは“イエスと答えた自分”である。だからこそいろんな人が誘ってくれていたのもあったと思うが、「自分の時間(自分のために自分のやりたいことをやる時間)がないじゃん!」と誰にもぶつけられない怒りのような哀しみのようなものがいつも私の中にはあった。
変えなきゃ。と思い、誰とも会わない月を作ろう!来月はそうしよう!としてても友達からくる誘いの連絡。断れない。来月なら空いてるよ!となるべく詰め詰めの予定にならないようにするのが精一杯。私は何をしてるんだろう。
まずそこでこの人と本当に会いたいのか?何か得られるものはある?楽しい?と自問自答をするようにした。意図的に。本当にほんと?と自分に問う。なかなか嫌な気分になる。その人のことは嫌いじゃないという大前提があるからだ。なのに、特に今話すこともなく会いたいかと言われるとわからない。誘われて嬉しいという気持ちがあるから、私も会いたい〜!と返事してしまう浅はかな回答。そうして休日は埋まっていってしまうのだ。
この生ぬるい負のループを抜け出すため、イエスマンの主人公とは反対に“安易にイエスと言うのを辞める”ことを決めた。
身内からもらったアドバイスも取り入れた。スケジュール帳に、まず自分の予定を書いてしまうこと。掃除、とかこれを買いに行く、これをやる。もう先約を作っておく、なるほど。そんなこと普通にやってると思う人もいるだろうけど私からしたら目から鱗だったのだ。今までの私はあきらかに“他人”が優先だったんだなと。
それでも、気分が乗り切らない予定を組まれそう(言い方が悪くて申し訳ない)になることはたくさんある。返事を返せない時もたくさんある。予定が埋まっていなくても、優先順位があり、それを待っている時もある。どう断っていいかも、先延ばしにしていいかもわからない。こうゆう時は、相手の気持ちを考えることがいいのだろうか?この問題に対して、脳みそが拒否している。考えたくないのだろう。かと言って、あなたとの予定は入れたくない。今は気分じゃないの。正直に返事をしてしまったらたいへんなことになる。
それでも前よりはコントロールが出来るようになって自分の時間も増えた。いい方向には向かっている。心が軽くなってきた。
得なのかどうかと考えると、主人公のように全てにイエスと返事をして出会えた恋や名誉など色々得られるものもあるのだろう。でもそれを抱えるだけのキャパシティが自分にはないのだとも思った。
なにより自分の気持ちに素直になることを、これからの人生において大事にしていきたいと思っているからこそ、ノーマンでもいいのではないかと、そうゆうことを考えた。観てよかった映画だった。
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