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[小説] 恋と別解

<あらすじ>
マーケティング会社に転職した桐山きりやまは、面接で出会った女性・安達あだちに心を惹かれていた。桐山は、前職の先輩でもある同僚・柏木かしわぎや、学生時代からの友人・沢渡さわたりとも交流しながら、安達への想いを募らせていく。安達は既婚者だった。自身の感情と倫理観のあいだで、桐山は葛藤する。やがて、安達の夫婦関係が破綻していることを知った桐山は、悩みながらも行動を起こしていく。



 ビールグラスから落ちた水滴が、コースターの色を変えていく。
 鼓動が速い。
 音が消えたような気がした。桐山きりやまの耳には自分の声だけが聞こえている。
 大丈夫。
 正面で安達あだちがグラスを持ち上げようとして手を止める。あの夜のことを思い出す。
 大丈夫。
 安達の目をまっすぐに見つめる。
 意を決して、桐山は言う。
「安達さんのことが好きです」
 すこし驚いた顔をしてから、安達はにっこりと笑ってうなずく。

 目を閉じて、息をつく。
 初めて彼女と出会った日のことを、桐山は思い返す。


◇1

 桐山は窓ガラスに映った自分の顔を眺めていた。
 簡素な会議室だった。壁の一部がホワイトボードになっていて、消え残った文字や線がうっすらとにじんでいる。
 ドアが開いて柏木かしわぎが戻ってきた。
「時間になったらもうひとり来るから、もうちょっと待ってな」
 そう言うと柏木は、桐山の斜め向かいに腰掛けた。木目の会議テーブルの上にはミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。柏木と入れ替わりで出ていった若い女性が持ってきたものだ。
「さっきの女の子、インターンですか?」声を落として桐山が聞くと、新卒2年目だよと柏木が笑った。
「童顔だから、もっとちゃんとした格好したほうがいいと俺は思うんだけど、いまそういうこと言えないからな」
 ペットボトルの水をひとくち飲み、マスクは外したほうがいいかと柏木にたずねる。
「どっちでもいいよ、どっちでも気にしない」
 すこし迷ってから、マスクを外して鞄にしまった。柏木はThinkPadを広げて作業を始めている。
 桐山はまた窓に目を向けた。少し離れたビルや看板の光が見える。フロアは6階で、広い道路を挟んだ向こう側が公園になっているためか、都心のわりに開放感のある眺めだった。他の建物からの視線もあまり気にならないのだろう。陽射しが入ってくる午前中は室温が上がるだろうなと桐山は思った。
 ノックの音がして、ドアが開いた。桐山は立ち上がる。
「お待たせしてすみません。面接を担当する安達です」
 Wantedlyの社員紹介ページで見ていた写真よりも若々しい印象の女性だった。ゆるいウェーブの掛かった黒髪が鎖骨のあたりまで伸びていて、大きな楕円形のピアスがはっきりした顔立ちによく似合っている。
 面談の礼を言いながら、きれいな人だなと桐山は思った。
 気軽な雰囲気で話せたらと思いますのでと安達は言い、持っていたMacBookを置いて席についた。
「柏木からも事前にいろいろ聞いているかと思いますが、あらためてわたしから会社概要などをお話ししますね」と安達が言った。深いアルトの声が心地よく響いた。
「桐山さんは、大学も柏木さんと同じなんですよね。おふたりともラクロスをされていて」
「はい。柏木さんは何年も先輩で、学生時代は面識はなかったのですが」
 ふたりは都内の私立大学でラクロス部に所属していたが、出会ったのはフィールドではなく就職した会社の配属先だった。
「新卒のときの直属の上司が柏木さんで、とてもかわいがっていただきました」セリフの後半にニュアンスを込めながら言う。柏木のキャラクターはこの会社でも変わらないだろう。安達が軽くうなずいた。
 柏木は数年前に転職していたが、桐山はまだ同じ会社にいた。仕事を続けていくことに疑問を持ち始めたタイミングで偶然再会し、また一緒に働かないかと誘われたのだった。
 安達はMacBookを桐山のほうに向けて、Googleスライドを見せながら会社紹介を始める。適切な声量と速度で語られる丁寧なプレゼンテーションだった。
 ここでなら楽しく働けそうだなと桐山は思った。少なくとも、自分のしていることの意義に悩まなくてもよさそうだ。働き方や服装の自由度が高そうなのもよかった。
 お互いに話すべきことを話し合い、次の選考過程の日程調整を始めたとき、柏木のThinkPadが乾いたアラート音を鳴らした。Slackの通知音だった。
 その瞬間のことを、桐山はそれから何度も思い出すことになる。
 柏木が「おっ!」と小さく声を上げて、横に座る安達を見た。とがめる表情をした安達も、MacBookの画面に目を落とす。
 安達は「わっ」と口にすると、弾けるように笑顔になった。「やったね……!」と小声で言い、柏木がうなずいた。
 嬉しいニュースがあったのだろう。大きな仕事を受注したのか、難しい交渉がうまくいったのか、プライベートな報告か。質問できる場面ではなく立場でもなかった。
 何があったのかと考えるよりも先に、桐山は強烈な衝撃を感じていた。
 この人は、なんて素敵な顔で笑うんだろう。
 恋に落ちる瞬間というものがあるなら、そのときだった。

 そのあと、どんな会話をして面接を終えたのか、どんなふうに会議室を出てエレベーターに乗ったのか、桐山はよく覚えていない。安達は面接中の無作法を何度も詫びて、「一緒に働ける日がきたら、きっと話しますね」と言った。
 地下鉄の中で、桐山はその瞬間の景色を思い出していた。夜が映った窓ガラス。ホワイトボードの壁。テーブルの上のペットボトル。ThinkPadから聞こえる通知音。険しい顔をしたあとパッと表情が変わり、低音の響く声でささやいた女性のことを思い出していた。
 彼女の左手の薬指には指輪があった。そのことについては、ひとまず考えないことにした。
 1週間後にZoomでの社長面接が行われ、その数日後に内定の連絡があった。桐山は新卒で入社した会社を辞めた。


◇2

「今回はリンゴとナシだよ」
 6年半働いた会社の最終出社を終えた翌日、桐山は友人の沢渡さわたりに呼び出されて大学近くのサイゼリヤにいた。沢渡の実家から送られてきた果物を譲ってもらうためだ。
 どっしりと重い無印良品の紙袋を持った沢渡の爪には赤と白の混じったマニキュアが塗られていて、リンゴみたいな色だなと桐山は思う。
「サワから野菜とかもらうようになって、もう10年だって」
「ほんとに。こんな長い付き合いになるとは」笑いながら沢渡が言う。
 沢渡とは大学入学直後からの友人だ。出身地が隣の市というだけで、上京したばかりの新入生にとって友人になるには十分な理由だった。地元スーパーで売られている瓶詰めのジャムをもらったことがきっかけになり、実家から仕送りの物資が届くたびに譲り合う関係が続いていた。
 伝票にアルファベットと数字を書いて注文する。プラスチックみたいな素材のジョッキとグラスで簡単な乾杯をしてから、桐山は言った。
「実は今日は、報告があって」
「えっ、なに結婚?」
「ちがうちがう、転職。仕事辞めたんだ、ちょうど昨日ね」
 桐山は新しい仕事について簡単に説明する。デジタルマーケティングとかコンテンツマーケティングとかそんな感じの仕事なんだけどと言うと、沢渡はあまり興味がなさそうに「ぜんぜん知らん世界だなあ」と言った。
 沢渡は大学院に進み、今年から助教になっていた。学生時代から派手な髪色をしていて、以前はアニメキャラみたいな赤髪だった。いまは焦茶色でおとなしくしているが、よく見ると耳の周りだけピンク色をしている。
「それで、いつから次の仕事いくの?」
「来月の7日」
「うわー、サバティカルだなー」
 マルゲリータと生ハムのサラダが届いて、それぞれ勝手に取り分ける。職場の飲み会もこんな感じがいいんだけどなと桐山は思った。ジェンダー研修みたいなものもあったけど、染みついた習慣は簡単には剥がれない。自分より少し上の女性たちは飲み会では率先して給仕をしていた。前の会社はそういうところもちょっと嫌だったと、桐山は話した。
「無意識にやってるもんだからなあ。若い子がやるとか、女がやるとか、無意識の思い込みが我々のクラウドには共有されてるんだよ。わたしは絶対やんないけど」リンゴ色の爪でピザをつまみながら沢渡が言う。
「やんなくていいよ」
「今度行く会社は、なさそうなの、そういうのは」
「たぶん」桐山は答えたが、根拠があるわけではなかった。社員の男女比率や平均年齢からそういうイメージをもっただけだ。この感覚もある意味では偏見なのだろうか。

「さっきのさ」沢渡が思い出したように言う。
「報告があるって言ったら、ふつう結婚でしょ。いつも応援してるファンの皆様に、大切なご報告」
「芸能人のTwitterか」
 周りがどんどん結婚していく年齢だった。Facebookに妻と子どもの写真ばかり投稿している同級生も何人かいる。
「なんか流れで聞いちゃうけど、あの人のことはもう大丈夫な感じ?」と沢渡が言う。
「あの人って、あの人のことだよね」
 桐山の言葉に、沢渡がうなずく。
 半年ほど前まで桐山が交際していた仲條なかじょうという女性は、夫がいることを隠していた。後になって思い返してみれば、独身だと言われたことはない。結婚を前提とした交際だと話したこともなかった。正確にいえば、嘘をつかれていたとはいえないのかもしれない。
 ある日、実は自分は結婚していて、すべて夫に知られてしまったので、これ以上は会ったり連絡したりすることはできない、これで終わりにさせてほしい、隠していて申し訳なかったというメッセージが届き、それで本当に終わってしまった。電話もLINEもつながらなかった。仲條の家も仕事も知らなかった。告げられた内容がどこまで真実なのか判断できず、悲しめばいいのか怒ればいいのかもわからなかった。
「もう、すっかり忘れたよ」
 桐山の部屋の食器棚の奥には、仲條に借りたままのコーヒーミルがいまも眠っている。カルディやハンズで同じ商品を見かけたり、喫茶店でコーヒー豆が並んだ棚を見たりすると、桐山はときどき仲條のことを思い出す。ときどき。
「あのときサワがさ、とりあえず仕事に打ち込めばって言ってくれたの、あれよかったんだよ」
「あー、飲みに行くとかも難しい時期だったしねえ。わたしもリバイスが重くて付き合ってあげれなかったなー。でも、わりと切り替えるの早かったもんね」
「まあ、どうしようもなかったし。あとさ、今回転職したのって、あのとき仕事めちゃくちゃ頑張ったからだったと思うんだよね」
「ん、どういうこと?」沢渡が怪訝な顔をする。
「あの会社で頑張ってても、この先あんまり楽しくないなって思ったってこと。本気で打ち込むほどの仕事じゃないっていうか」
 コロナ禍が始まったころから、自分の仕事への疑念は生まれていた。
 勤め先そのものは、社会で必要とされているだろう。大きな会社だし、役に立っていそうな気はする。雇用があって消費があるから経済が循環する。たぶん、それはそうなのだろう。それでも桐山には、自身が時間や体力や気力を費やしている労働に、本当の意味での価値があるとは思えなかった。プライベートで起きた衝撃を打ち消すために仕事に全力を出した結果として、働くことへの疑念は膨らみ続けた。
「そういうもんか」と沢渡に言われて、「そうだよ」と答える。
 桐山は少し意識して笑顔を作ってから、「あとさ、これから行く会社、すごい好きな感じの人いるんだよね。面接で話しただけなんだけど」と言った。
「おー、新しい恋か。いいじゃん」
 沢渡のすこし困ったような笑顔を見て、苦笑という言葉はこういうときに使うのだろうなと思った。
 新しい恋の相手が結婚していることは黙っていた。
 別に、安達とどうにかなろうと本気で思っているわけじゃない。職場に素敵な女性がいる。それだけのことだ。沢渡に変な心配をさせたくもない。
 このときはまだ、本当にそう思っていた。

 初めて出社する日は、朝から雨が降っていた。
 リュックサックにサンダルを押し込みながら、初日からオフィスで靴を履き替えたりしたら印象が悪いだろうかと少し迷った。
 通勤時間は以前よりも長くなるが、始業時刻が遅くなった分、地下鉄の混雑は緩和されていた。コロナ禍以前の満員電車を思い出すと、すこし吐き気がした。東京は人が多すぎる。
 オフィスに着くと、社長面接のときにZoomで同席していた長谷川はせがわという男性が出迎えてくれた。長谷川がクロックスを履いているのを見て、桐山は安心した。
 長谷川は「背、けっこう高いんですね」と言った。ラクロスに身長は関係あるのかと聞かれて、ポジションによると桐山は答えた。
 事前にリモート会議で顔を見せた相手に直接会うと、背丈について言われやすい気がした。桐山はたしかに背が高いほうだが、コロナ以前に指摘された記憶はない。画面に映る自分はよほど小柄に見えているのだろうか。
 執務室にはデスク4台のまとまった島が3つあり、桐山は入口近くの島に案内された。向かいの席は面接のときに水を出してくれた童顔の女性だった。本村もとむらです、よろしくお願いしますという声を聞いて、必要以上に若く扱われそうな人だなと桐山は思った。本村の靴は黒のニューバランスだった。
「今朝は、他の人は出社しないと思います。社長は午後に来るはずですけど。このあとミーティングなんで、会議室にいきましょう」
 道の反対側にある公園は、窓から見下ろすと狭く感じられた。
 本村がChromebookに大型モニターとウェブカメラと集音マイクをつなげる。Zoomが立ち上がると社員たちが次々に画面に映る。安達の顔も左上に現れた。自分がモニター内の安達を凝視していることに気付き、慌てて集音マイクに視線を移した。Zoomの向こうの安達はメガネを掛けていて、なんとなく眠そうだった。
 毎週月曜の朝は全体ミーティングがあること、週に2日はなるべくオフィスに出社すること、金曜日はほとんどの社員が揃って出社することなどを長谷川が説明した。自己紹介のとき、以前は柏木の部下だったことや学生時代にラクロスをしていたことを話したが、考えてみればそうした情報は事前に共有されていただろうなと思った。
 ミーティングは30分ほどで終わり、そのあとはGoogle WorkspaceやSlackの説明を受け、業務の流れを教わった。ひと区切りついたところで、「タバコ吸う人?」と長谷川が言った。吸わないと桐山が答えると、長谷川はすこし残念そうな顔をして「その方がいいよ」と言った。
 初日くらいはランチに行くものだと思っていたが、長谷川も本村も弁当を持参していたのでひとりで傘をさして外へ出た。晴れていれば公園で過ごすのもいいなと思いながら、駅前のモスバーガーでテリヤキバーガーのセットを食べる。記念すべき新しい日という感じはしないが、案外こんなものなのかもしれないなと桐山は思った。


◇3

 翌日、桐山が昇降式デスクの高さを試行錯誤しているところへ、出社した安達が声を掛けてきた。
「桐山さん、お昼持ってきてる?」
 安達と話す機会はないかと考えていた桐山は驚いて、「いえ、なにも」とだけ答えた。
「じゃあ、一緒にランチ行こっか」
 この日の昼もオフィスにいたのは長谷川と本村だけで、安達がランチに誘うとやはり弁当があるからと断った。安達とふたりだけで話せる機会がこんなにすぐ訪れるとは思わなかった。
「長谷川さんも本村さんも、付き合いが悪いとかじゃないんだけど、自分のルーティンを大事にする傾向が強いんだよねえ。桐山さんのこと歓迎してる気持ちはすごいあるから」エレベーターを降りたところで安達が言った。
 明け方頃まで残っていた雨は上がり、地面にはイチョウの葉が重なっていた。
 せっかくだから近所を案内するという安達に連れられて、オフィスの周辺をぐるりと散策する。焼き鳥が名物だという店に入り、ふたりとも親子丼を注文した。
「もう慣れた? 2日目だけど」
 正面から安達の顔を見る。記憶よりも髪が短くなっているような気がした。面接官から先輩社員に立場が変わったためか、安達は明るい表情でよく笑った。
「そういえば、面接のときにわたしと柏木さんが別の話で盛り上がっちゃったの、覚えてる?」
 覚えているどころではない、とは言わず、「あの、Slackの通知がきて」と答える。
「そうそう、あのときはごめんね。会議中はミュートにしといてって柏木さんにはあとで言ったけど。あれね、本村さんが進めてた新規の受注が決まったときで。本村さんがメインでやるの初めてだったし、見込みも正直微妙だったから、あれは嬉しかった。だからって面接中に反応しちゃダメなんだけど」
「そうだったんですね」
「その案件、いまも彼女が継続して担当してるんだけどね、いや、やっぱり責任と権限は人を成長させるもんだなあって。この2ヶ月で、だいぶね」安達は穏やかな声で言った。
 親子丼が運ばれてくると、話題はテーブルに置かれた種類豊富な薬味に移った。
 桐山は嬉しかった。安達があのときのことを覚えていたことも、『一緒に働けたら話す』という約束が守られたことも、若手の成功や成長をまっすぐに喜んでいることも嬉しかった。
 オフィスに戻ると本村はコンビニのコーヒーを飲んでいた。本村に感謝を伝えたかったけれど、もちろん何も言わなかった。

 会社では大小さまざまな企業からマーケティング業務を受注していて、桐山はそのうちのいくつかに関わることになった。クライアントのために働くという感覚に慣れるまでには時間が掛かった。
 柏木から薦められて、入社前にいくつかのビジネス書を読んでおいたのは桐山の助けになった。柏木の選書は適切だった。
「小説とかは読むの?」
 入社して1週間ほどしたある日、推薦された本をひと通り読んだことを伝えると柏木が言った。ビジネス書以外の本は何年も読んでいない。
「マンガでも映画でもいいけど、エンタメはいろいろ触れたほうがいいよ。話題作とかは特にそう。この仕事にも関わってくるから」
 桐山が「パズドラはやってますけど、そういうことじゃないですよね」と言うと、柏木は「それじゃ麦くんだな」と笑った。向かいの席で聞いていた本村が吹き出して「柏木さん、いろいろ失礼ですよ」と言う。意味がわからずに柏木と本村を交互に見ていると、「まあ、話題作とかトレンドを押さえるのが偉いってわけじゃないけど、なんにしても『花束みたいな恋をした』はそのうち履修しといてくれ」と柏木が言った。
「真面目な話、俺たちがやってることって、人の感動とか感情について考えることだからな。BtoBでも結局、何かが決まるときの大きな要素は感情だよ。そういう意味では、映画とか観るのはやっぱり大事だな。大人が大勢でいろいろ考えて、予算も時間もめちゃくちゃ掛けて、それでうまくいくこともあれば失敗することもある。それを1900円で拝見できるんだから安いもんだよ。小説とかは逆に、もちろんマーケを考えてる作家もたくさんいるだろうけど、そんなの超越したところまで飛んでいきやすいな。そういうのもまた面白い」
「勉強します」と桐山は言った。
「まあ、この会社にいる映画好きや本好きは、勉強しようと思ってるタイプじゃないけどな」
 そこから、エンタメ談義が始まった。ちょうど居合わせた安達も会話に加わり、新海誠監督の新作について盛り上がっている。中学生くらいまでは教室でテレビやマンガの話をしていたし、Twitterでもコンテンツの感想を語る人はよく見かけるけれど、大人がこんなふうに話しているのに立ち会うのは初めてだった。この職場では珍しくないらしい。
 自分もこの会話に参加したいと桐山は思った。「オススメの小説とか教えてもらえませんか?」と聞くと、3人とも楽しそうに悩み始める。
 柏木は「ヒロインが難病で死んじゃう系の話ってワンパターンだと思うだろ? あれ、意外とバリエーションあるんだよ」などと言う。
「ミステリでいうと『ハサミ男』がオールタイムベストなんですけど、初手でこの小説を薦めるのはなんというか……」と言ったのは本村で、安達は「わかるわかる」とうなずいている。
 安達は、森博嗣と京極夏彦が特に好きだと言った。
「四季サーガは長くなっちゃったし京極堂は分厚いからな……。『探偵伯爵と僕』は読みやすいかな。単発で短めだし」
 好きな人に好きなものがある。それをこれから知って、好きになることができる。恋をするってこういうことだったなと桐山は思った。

 安達の存在は、桐山の中でどんどん大きくなっていった。
 オフィスで顔を合わす日は限られていたし、同じチームになる案件ばかりではなかったから、安達と直接会える機会は大切だった。安達が出社する火曜と金曜はいつもよりも朝の支度に時間を掛けたし、話題にでた本や映画はできるだけチェックした。
 安達は33歳だった。誰かの年齢の話題になるたびに、安達は「30になるときの衝撃はすごいけど、31からは何も感じないね」と言った。子どもの話題は一度も出なかった。たぶんいないのだろうと桐山は思っていたけれど、聞くことはできなかった。

 安達のことを考えるたび、桐山は仲條を思い出すようになった。
 もしかしたら自分はそれほど仲條を愛していなかったのかもしれない。
 彼女を愛していたなら、突然の告白と別れに対して、もっと違う行動を取ってもよかった。納得できないことに納得したふりをし、仕事に打ち込むことで忘れたふりをする。そんなことができたのは、自分の恋愛はこの程度だと決めつけていたからだし、そもそも彼女をしっかりと捉えていなかったからだ。そういうふうに考えることもあった。
 仲條に夫がいることはまったく知らなかった。頻繁に会えないのはコロナのせいだと考えていたし、大人の恋愛はそういうものなんだろうとも考えていた。
 もし、夫の存在を知らされていたら、どうしただろう。
 好きになろうとはしなかったはずだと桐山は思う。
 わからない。
 知っていたらセックスはできなかったと思う。そういうシチュエーションを好む人たちもいるのだろうけれど、自分には、パートナーのいる女性と寝られる気はしなかった。できたのは、知らなかったからだ。

 安達のことを考える。
 初めて彼女に会ったときから、薬指の指輪には気付いていた。それでも恋に落ちた。落ちてしまった。
 これが、この盲目さが恋なのだろうか。この先には何があるのだろう。
 待っているのが何であっても、自分にはそれと対峙する資格はないような気がした。仲條のことを誤魔化してしまった自分に、安達との物語を遂行する力があるのだろうか。
 安達の夫は、転職支援サービスを運営する会社のウェブエンジニアで、2つ年上だという。本も映画も安達と同じように好きで、結婚前はよく一緒に本屋や映画館に行っていた。趣味は野球観戦で、高校野球への熱意は異常だと安達は話した。
「地元の高校を応援してるんじゃなくて、全国の高校球児の試合成績とか進学先とかの情報をデータベースで管理してるんだよ。意味わかんないよね」
 顔も名前も知らない男性が、自分の好きな人と何年も前から暮らしている。そのことをどう受け止めるのがいいのかわからなかった。
 安達の夫ではなく、自分が彼女と暮らしている様子を想像した。料理はどちらがつくるだろう。掃除や片づけはどんなルールでやるだろうか。彼女が着る服はシンプルなデザインのものが多いから、洗濯は手間が掛からなそうだ。休みの日には、ソファに並んで座って一緒に映画を観よう。そんなことをしばらく考えて、馬鹿馬鹿しくなってやめた。
 勝ち目のない勝負ということはわかっていた。本気にならないようにしようと桐山は思った。危険だとさえ思った。
 それでも、オフィスで話をするたび、Zoomで画面越しに顔を見るたび、紹介された本を読んだり映画を観たりするたびに、桐山は彼女を好きになり続けた。
 ある日の昼休み、桐山は安達や長谷川と定食屋にいる。横並びに座った安達はハンバーグを食べていて、かわいいなと桐山は思う。桐山は焼き魚定食を食べる。魚の小骨を箸でわけていく様子を安達が見つめているのがわかる。「きれいに食べるねー」という感嘆の声を、しっかりと聞き取って、いつでも思い出せる場所に保管する。
 別の日、Excelを教えてほしいとデスクに近づいてきた安達から普段とは違った素敵な匂いがするのに気付く。桐山は静かに興奮する。安達が中腰の姿勢でディスプレイに顔を近づけると、その小さくはない胸がちょうど桐山の顔のそばにくる。そっちの椅子に座ってくださいと言いながら、心の中で素数を順に数えて気持ちをしずめる。
 また別の日、紹介された『インセプション』を観たことを安達に話す。あのラストはどっちなんでしょうかと尋ねると、どっちだと思う?と返される。安達はとても楽しそうな顔で桐山が話すのを聞く。夢でもいいなと桐山は思う。
 どうして今なんだろうと桐山は思う。もっと別の時間だったら。もっと別の場所だったら。好きになってもいい関係だったらよかったのに。


◇4

 大晦日の前日に沢渡と会うのは、毎年の恒例行事だ。実家でついた餅を分けてもらうために、大学の近くのベローチェで待ち合わせをする。桐山の在学中は、帰省しない他の同級生たちと集まって年越し蕎麦や雑煮を食べた。いまはこうしてベローチェで会って近況報告をし合っている。
「一度くらいビッグサイトのベローチェに行ってみたいなー」と沢渡が言う。
「それ毎年言ってるよね」と桐山は答える。
「いやあ、今年の桐山は激動だったねー」
「おかげさまで」
「あのさ、確定申告がどうしたってメールが最近よく来るんだけど、ああいう営業メールとかって仕事と関係ある?」
「そういうのもやってるよ。メールマーケティング」
「あれさあ、差出人の名前が女ばっかりなのって狙ってるよね?」
 狙ってるだろうねと桐山は答える。送信者名を女性にするとメールの開封率が高くなるというデータはある。企業では決裁権限をもつ役職者に男性が多いこともあり、女性名でメールを送る方が効果があるらしい。実際に文面を書いているのは男性ということも多いだろう。
「キモくない?」という沢渡に、桐山は同意する。
「サワみたいに気付いてる人が増えてるから、あれはもう逆効果だって先輩が言ってたな。そういう批判や炎上を避ける方がいまは重要だって」
 飲みかけのホットコーヒーは体積が少なくなるほど速く冷める。会話が弾んだ分だけコーヒーの運動は静かになっていく。

「そうだ、冨田とみだまゆって覚えてる? わたしが卒論の直前に振られた子」と沢渡が言う。
「軽音の人だっけ」
「そうー。結婚したんだって」
 沢渡も冨田も女性だ。
 自身の性的指向について沢渡から伝えられたのは彼女が20歳になってすぐのころで、「ちゃんと聞いてもらえそうな人にはなるべく話すって決めた」と言われたことを桐山はよく覚えている。
 冨田がどんな女性だったか桐山はあまり思い出せなかったが、幸せならいいなと思った。
「わたしらみたいな人は、なかなかね、難しいことは多いから。結婚を選べる相手がいて、それであの子が幸せだと思えてるなら、それはほんとに嬉しいことだよ」
 沢渡は、いまの恋愛について話す。アプリで出会った人と続いていると話す。ウォッチパーティで映画を観るのが楽しいと話す。温泉とか行きたいねってよく話してると話す。桐山は共感したり羨んだりしながら、沢渡の話を聞く。
 桐山は、沢渡に安達のことを話す。安達が既婚者であることも話す。仲條が既婚者だったこととは関係なくて、いまはとにかく安達が好きなのだと話す。沢渡は共感したり茶化したりしながら、桐山の話を聞く。
 これは、友情なんだろうか。
 『男女の友情は成立するのか』という問いを検討するためには、まずはその手前にある『他者とのあいだに友情は成立するのか』を検討しなければならない。性別や性的指向や年齢は、その本質的な問いの前では些末なことだ。
 友情だというなら友情でいい。
 これは恋ではないけれど、たぶん、愛ではあるんだろう。
「サワ」と桐山は呼びかける。
 いつからか沢渡はサワで、桐山はずっと桐山だ。
「サワと恋愛みたいにならなかったの、よかったんだろうな」
 沢渡はちょっと目を見開いて、しばらく考えてから「そうだね」と言って、にっこりと笑う。
「恋愛じゃないけど、サワのこと好きだよ」
「わたしも、桐山のこと大好きだよ」
 わざとらしく言ってみせて、くっくっと互いに笑い合う。
 店の外では強い風が吹いている。雪になるのかもしれない。
「じゃあ、良いお年を」
「良いお年を」


◇5

 年が明けた。オフィスで久しぶりに会った安達はやはりとても素敵で、好意を隠すのではなく節度をもって伝えていこうと桐山は考える。既婚の上司に向けても問題のない好意は、たぶんそれほど多くない。表に出さないエネルギーは仕事に向けた。集中したり努力したりするのは得意だった。
「わたしと一緒の案件やりたいって、社長に言ったんだって?」
 あるとき、クライアントとのミーティングが終わってZoomにふたりが残ったタイミングで、安達が言った。社長との1on1で働き方や案件の希望を聞かれ、たしかに桐山はそう答えた。
「安達さんは指示も明確でやりやすいから、もし希望が出せるなら安達さんとのチームがいいですって感じですよ」
「えー、嬉しいこと言ってくれるねー。今度コーヒーおごってあげる」
「ありがとうございます」
「桐山さんは丁寧な仕事だし、あと基本的にめっちゃ速いから助かるよー。一緒にやれるのすごい嬉しい」
 自分の顔が熱くなったのがわかった。周りに誰もいなくてよかった。Zoomの画面越しでは微妙な顔色の変化はわからない。
 気の利いたセリフは何も浮かばなくて、桐山は「よろしくお願いします」と言った。

 4月になって、ある企業が主催するイベントのパネルディスカッションに安達が登壇した。「ChatGPT時代のデジタルマーケティング」と題された問題設定のあいまいなセッションは、登壇者たちの奮闘もあって盛り上がっていた。
 桐山は、柏木や本村と並んでその勇姿を見守った。
「コロナ前からときどき出てたんだよな、安達さん。俺が入社する前に会ったのもCRMかなんかのイベントだったし」
「堂々としてますよね。クライアントへのプレゼンのときとも違って、人前に立ってるぞって感じがします」
 安達は普段通りのシンプルな白いシャツにパンツスタイルのスーツを合わせていた。面接の日と同じ楕円形のピアスをしていて、マイクを構えたり置いたりするたびに照明を反射して美しく光った。
「こういうイベントで登壇するの、だいたい男ばっかりなんだよな。普通に女の人もたくさん働いてる業界なのに。たまに女性がいると思ったら賑やかし枠だろってことも多い」
「ですね」
「10人くらいパネリストがいて全員ジジイのことも平気であるからな。司会進行だけ若い女の子で。半々とまでは言わないけど3割は当たり前にしていかないと。まあ、男がこんなこと言ってもしょうがないんだろうけど」
「そんなことないと思いますよ。言わないよりは、言ったほうが」
 トークセッションが終わると、柏木に紹介されて何人かと名刺交換をした。そのとき桐山が話をしたのも40歳前後の男性ばかりだった。
 身内で二次会をしようと提案したのは安達だった。桐山はもちろん賛同したが、柏木は「娘の誕生日なんだよ」と言い、本村も「大事な予定があるので」と言って帰っていった。安達と桐山のふたりが残った。

「せっかくだから、ちょっといいお店行こっか」と安達が案内したのは、駅からすこし歩いた静かな路地にあるダイニングバーだった。小さな雑居ビルをエレベーターで5階に上がる。
「前に、社長に連れてきてもらったんだよ、ここ」
 店内の照明は暗く、暖色のエジソンランプが天井からいくつもぶら下がっていた。入口近くの壁には大きめのテレビが掛けられていて、『ラ・ラ・ランド』の冒頭が無音で再生されていた。『ラ・ラ・ランド』を映像だけで流すなんて考えられないなと桐山は思う。
 カウンターの他はテーブルが3つあるだけの狭い店内。ふたりは空いていた奥のテーブル席に通された。スパーリングワインと琥珀ヱビスで乾杯をする。
「お疲れさまでした」
「ありがとう。やっぱり緊張するし疲れるねー」
「でも、ずっと楽しそうだなって」
「うん、楽しかったよ」と安達は笑った。
 安達とふたりだけで食事をするのは久しぶりだった。オフィスやZoomで仕事の話をすることと、雰囲気のいい店にふたりでいるのでは意味が違う。桐山は気分が浮き立つのを感じていた。安達もそうだったらいいなと願う。
「ここ、社長の知り合いの方が店員さんでいたんだけど、今日はいないみたい」店内を見渡しながら安達が言った。
「前のときはいたんだけど。ああ、そのときは旦那と来たんだっけ」
 そう言った安達の顔が、一瞬、苦いものを噛んだように歪んだ気がした。
 春キャベツとアスパラガスと自家製ベーコンのグリルが提供され、テーブルが華やかになった。安達が小さく歓声を上げる。料理はどれも偶数個にカットされていた。取り分けやすくてありがたい。店で提供している野菜は茨城の契約農家から届いた有機栽培のもので、コロナ前には農場見学ツアーもしていたという。
 料理が美味しくて、アルコールが進む。
「次は日本酒にしない? なんかね、こだわりのラインナップらしいよ」
 日本酒のメニューには東北地方の地酒の銘柄がいくつも並んでいた。沢渡の出身地の酒蔵を見つけて、桐山はそれを選んだ。
 大ぶりのワイングラスに入った日本酒が2つ運ばれてきて、2度めの乾杯を交わす。テーブル席の女性客たちが帰っていって、桐山たちの他にはカウンターに中年の男女が1組いるだけになった。
 その日のイベントの話題の中心は、生成AIだった。AIをマーケティングにどう活かしていくのか。著作権の問題はどうなっているのか。効果的なプロンプトの探索方法とは。そうした論点も重要だろうけれど、もし仮に、メールやLPの文面がAIによって最適化され、人々が設計通りの購買行動を取るようになるとしたら、それは自由意志による行動なんだろうか。そのとき、その人は文章を読んでいるのか。わたしたちの仕事に価値はまだあるだろうか。桐山はそういうことが気になっていたし、そういう話をしたかった。
 ビジネスの現場には不釣り合いな話を、安達は楽しそうに聞いた。伊藤計劃が生きてたら何を書いたんだろうねと言い、人の意志は簡単には失われないと思うと言った。

 また日本酒をふたりで注文し、軽くグラスを掲げあうだけの3回めの乾杯をする。
「そういえば、本村ちゃんが言ってた大事な予定って、あれ、たぶん男だよね」と安達が言った。そうだと思うと桐山が言うと、「だよねー」と笑った。
「デートなんです、って言ってくれてもいいのになー」
「本村さんがどうとかより、恋愛の話って職場であまりしないですよね。合コン行くとかまではあっても、付き合い始めてからは話題に出にくい気がします」
「あー、そうかも。ラインが謎にある感じする。結婚する前に喋っていいことと、結婚した後に喋っていいことのラインもあるし」
「ですよね」
「桐山さんはどう、いい人いるの?」
 予想外の質問が飛んできて思わず黙ってしまい、空白を誤魔化そうとして、わざと咳き込んだ。
「わっ、大丈夫? ごめんごめんごめん、こういうの女が言ってもハラスメントだよね、ごめんね」
「いえ、大丈夫です。ちょっとビックリしただけで、イヤとかはぜんぜんないんで大丈夫ですから」
「や、そうかもだけど、うーん、ごめんね。今日ちょっと飲みすぎてるんだな。あっ、お酒のせいにするのもダメだね……」
 繰り返し謝罪の言葉を口にする安達のことを、愛おしいと桐山は思った。
「大丈夫ですって。不用意な発言だったかもですけど、この場のふたりの関係性であればぜんぜん問題ないっていうか。ダメな人に言ったらダメですけど、いまは大丈夫ですから」
 そう言いながら、どこがぜんぜん問題ないんだろうと思う。ふたりの関係性? こんな話をする関係性は、別にぜんぜん嬉しくない。
「いないですよ、いい人は」桐山は言った。
「そっか、そうなんだね。教えてくれてありがとう」安達はまだ落ち着かない様子だった。
 テーブルの空気を切り替えるように鶏肉のステーキが提供されて、ふたりとも安心する。付け合わせのジャガイモも美味しくて、ほっと気持ちが穏やかになるのがわかった。
「前はいたんですけど、別れました」
「……ん、そっか」
「いまは、好きな人はいますけど」
 さりげない態度で言った。安達は特に反応を示さず、そうなんだねと言ってうなずいた。
 なんとなく会話が途切れた。食事が美味しいのがありがたかった。

「さっきの話、ってわけでもないんだけどね」
 しばらく入口近くのテレビ画面を見ていた安達が、ふいに言った。
「結婚した後に、喋っていいこと。桐山さんはまだ気にしたことないかもだけど」
 最初の乾杯をした後の、安達が夫について口にしたときに見せた苦い表情を思い出した。
「子どもがいればね、子どもの話をすればいいんだけど。うちみたいに何年もいないってなると、ちょっと微妙。親戚とか同窓会とかでも、なんかその話題から遠巻きに避けられてる感じしちゃうね。……他の人の子育ての話とかはぜんぜん、聞き手として参加できるし、話してもらっていいんだけど。さっきのじゃないけど、別にイヤとかじゃないんだよ。提供できる話題が自分にないってだけで」
 経験のない状況だが、想像はできた。
「旦那の愚痴とかが求められる場面もあるんだよね。笑えるとか共感できる範囲での悪口を言って、それで盛り上がるみたいな」
 安達の声は静かだ。ワイングラスの日本酒に口をつけてから、このジャガイモほんと美味しいね、これローズマリーかなと言う。そして、思いがけないことを話し始める。
「うちはもう、笑える愚痴じゃあないんだよね。笑えない。なんで結婚したんだろうって思うし、なんでまだ結婚してるんだろうって思う。たぶん、わたしが間違えたんだよなあ。もう何年も間違えてる」
 手を伸ばしてグラスを持ち上げようとして、そこで動きを止めた。急にグラスがとても重たくなってしまったみたいに。水面が揺れる。桐山が視線をグラスに移すと、安達の手がゆっくり離れた。
「うちさ、絶対、何度かは浮気されてるんだよ。証拠はなかったけど雰囲気が変な時期がときどきあって……。バレてないと思ってるんだろうけどね。あと、暴力ってわけじゃないんだけど、あれは、言葉のDVってことになるのかな。ちょっと、ネグレクトみたいな……。すごく大変ってわけじゃなくて。たとえば……、たとえば、わたしには姉がいるんだけどね。もし姉が、わたしと同じようなことされたって聞かされたらって想像してみるわけ。殴られたりしてるの?とか、浮気してる証拠あったの?って聞くと、ないって答えるでしょう。じゃあ、もうちょっと我慢してもいいんじゃないの、結婚ってある程度はそんなもんでしょとか、言っちゃうんだと思う。離婚を考えるのは気が早いんじゃない、とか。そのくらいの感じ。だから、愚痴るとかネタにするとかじゃなくて……。ごめん、こんな話、聞いても困るよね」
 安達はまたグラスに手を伸ばし掛けて、今度は触れる前に停止する。安達は自分の指先を見つめている。
 桐山は、大丈夫ですと言う。ゆっくりと、声がやさしく響くように意識する。やさしく。
「……俺の飯は?って言うんだよ。わたしが風邪かなんかで早退して、まだコロナ前のね、体調ヤバいから早退して寝てるときに。コンビニでもなんでも買えよって思うよ。昼飯いつもどうしてんだよ……。そんなのばっかりで。……ああー、ごめんね。よくない。よくないな、こんな話」
 安達を見つめながら、もう一度、さっきよりも力を込めた声で「大丈夫です」と言う。
「ううん、ごめん、わたしが大丈夫じゃないな。やっぱり飲みすぎてるね」
 今度こそ安達はワイングラスを手に取って、日本酒をひとくちだけ口にすると「ちょっとごめんね」と言って化粧室に立った。
 桐山は自分のグラスを口に運んだ。味はよくわからなかった。

 しばらくして戻ってきた安達は「デザート頼んじゃおうかな」と言いながらテーブルの上のメニューを手にした。
「安達さん」と話しかけたときには、何を言うのかまだ決まっていなかった。こちらを見た安達の眼が潤んでいるのに気付いた途端、桐山は話さなくていいはずの話を始める。
「さっきちょっと話しましたけど、昔……、1年ちょっと前かな、付き合ってた人に振られたんです」
 安達はメニューを置いて正面を見る。
「……うん、そうなんだ」
 考えながらゆっくりと、桐山は続ける。すべてを話すつもりはない。
「それが、二股されてたというか……、相手が結婚してたんですよ。ぜんぜん知らなかったんです。知らされずに付き合ってて、急に、もう会えないって言われて」
「えっ、……えっ、そんなことあるの」
 狼狽する安達に落ち着いてほしくて、桐山は相槌を打つようにうなずきながら続ける。
「めちゃくちゃ驚きましたけど……。今はもう大丈夫なので。ひどい話ですよね。でも、その、そのことがなかったら転職してなかったと思うんで、そういう意味ではよかったのかなって思ってます」
「えっ、でもそれ、それって騙されてたってことでしょ? そんな、ええ……」
 やはり、この場で話すことではなかったのかもしれない。驚かせたいわけでも同情してほしいわけでもなかった。ただ、安達が渡してくれたものに対して自分も返したかった。
「その、安達さんの話とはぜんぜん違う話ですけど……、話したかったんです」
「ううん、その……、そっか。……ありがとう」
 店員が近づいてきてラストオーダーの時間だと告げた。無音で流れ続ける画面の中でライアン・ゴズリングがピアノを弾き始めていた。桐山の頭の中では映画のメロディがはっきりと鳴っている。
 もし、違う時間だったら。違う順番だったら。違う関係だったら。違う世界だったら。
 仲條と暮らしている人生も、安達と暮らしている人生も、ありえたのかもしれない。
「旦那さんが浮気してるなら、許せないです」
 思いがけず、強い口調で言ってしまったことに自分で驚く。
 許せないという言葉は、強い。強すぎるかもしれない。自分は安達の夫を許せないんだろうか。
「そうか、そうだね。……ありがとう。まあ、でも、浮気するなら別にもう、それでもいいかも。はっきりするし。証拠あったら離婚しやすくなるらしいよ」安達の低い声が悲しげに響いた。
 離婚したいんですか、とは言わなかった。早く別れたほうがいいですよ、とも言わなかった。そのほうが自分にとって都合がいいと思いたくはなかった。
「安達さんが、幸せであってほしいです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん、いつもいつも」
 安達は小さく微笑むと「やさしい後輩がいてくれるから、もう幸せだよ」と言った。 


◇6

 安達の夫のTwitterアカウントはすぐに見つかった。
 社内での雑談を通して、安達の夫がどこで働いているのかは知っていた。その会社のnoteに掲載された社員紹介記事に『安達』という男性が登場していた。髪はふわっとしたウェーブが掛かっていて、肩につきそうなくらい長い。夫婦で同じような髪型なんだなと桐山は思った。会社のロゴが入った白いパーカーを着て、昔の文豪みたいな丸メガネをしていた。女性に好かれそうな雰囲気のある男だった。
 名字が同じだけの別人という可能性も考えたが、記事には「高校野球が好きで、選手のデータベースサイトを趣味で管理している」と書かれていた。そんな趣味をもつ人間が何人もいるはずがない。
 noteのURLで検索すると、『弊社の頼れるスーパーエンジニア、安達さんのインタビューです!』という文言とともに「adachi」というアカウントにメンションを飛ばしたツイートが見つかった。所属や実名を明かしているわりにはプライベートな投稿が多く、フォロワーも大勢いた。
 桐山は、じっくりとadachiを観察した。
 adachiは時間帯を問わずタイムラインに常駐し、頻繁にリツイートやいいねをしていた。リプライを送り合うのはエンジニアが多いようだが、マンガや映画の話題で長くやり取りをしている相手も何人かいた。高校野球のシーズンには別アカウントを稼働させ、『こっちの垢で実況してます。流量気にしない人はどーぞ』などと誘導していた。ネコが好きらしく、いろいろな種類のネコの写真をリツイートしている。酒は基本的にビールしか飲まないが、旅行や出張で出かけると地酒を楽しむ習慣があった。
 数日を掛けて、桐山はTwilogに蓄積されていた約7年分のadachiのツイートをすべて読んだ。膨大なテキストには仕事も趣味も生活リズムも記録されているのに、その人物が結婚しているかどうかは読み取れなかった。

「情熱がすごいな」
 馴染みのサイゼリヤでチョリソーを食べながら沢渡が言う。実家のリンゴも餅もなかったけれど、聞いてほしいことがあるという桐山からの連絡に沢渡は快く応じた。
「Twilogがサービス停止しなくてよかったよ。4月分は取得されてなかったから生で見たけど」
「うーん。こういう人が東京オリンピックのとき頑張ってたんだろうなあ」
 隣のテーブルにいた大学生くらいの男女が帰っていって、店員が片付けるとすぐに、40代くらいの男女が席についた。たぶん夫婦なのだろう。
「確実なの、そのアカウントの人が、その旦那さんだっていうのは」
「ほぼ確実。年齢も一致してるし、住んでる駅も安達さんと同じ」
「ひー、こわっ」沢渡は、胸の前で腕をクロスさせて震えるようなポーズを取った。
 隣の男女は、子ども用メニューに書かれた間違い探しを解き始めている。間違い探し。
「それで? なんかボロ出すまでウォッチしとくの?」
「いや、フォローしたら普通に返ってきたから、どこかのタイミングで、会いませんかって誘おうと思ってる」
「……えっ、マジで言ってる?」
「ダメかな」
「ダメというか、えっ、だって会ってどうすんの? 話すの? 奥さんと離婚してくださいとか言うってこと?」
「いや、いきなりそんな話はしないと思うけど……。もし、ふたりがやり直す可能性があるなら、それはそれでいいし」
「えー、ほんとかよー。前はもっとなんか、その人を抱きたい!って感じの熱があったじゃん。結婚してても関係ない、略奪愛は純愛になり得るのだ!くらいの熱が。だいたいそんなネトストしといて、やり直せるならそれでもいいって、説得力なさすぎるよ」
「うーん……」
 すぐに言葉を返せずに、桐山は隣のテーブルへ視線を移した。自分よりもずっと年上の男女が、まだ間違い探しに興じている。夫婦だとすれば子どもはいないのだろうか。留守番させているのか、預けているのか、もうとっくに大人なのか。
 週末の夜にファミレスでビールを飲んでいる中年の夫婦。そういう言葉にすると貧しさや虚しさを象徴するようでもあるけれど、桐山の目にはふたりがとても幸せそうに映った。むしろ、これが豊かさなのだと思った。
 自分と沢渡は、このふたりからはどう見えるのだろう。
「……前までは存在を知らなかったっていうか、顔も知らなかったし。それに、安達さんから話を聞いた直後は、そんな男許せないって思ったよ。うん。許せないって。インタビュー記事で顔を見て、偉そうになんか喋ってるの読んだときも、ネガティブな感情がすごい強かったんだけど」
 恋の障壁として仮想的に認識していた『夫』に顔や言葉が付与されたことで、そこには人間がいるのだとはっきり感じられた。
 この男が、この男こそが、安達を不幸にしている。この男さえいなければ……。
「でも、7年分の言葉を読んでると、だんだん、なんだろうな……。よくわからなくなった。あのアカウントの中の人が、家ではひどいことをしてるって、そうは思えなくて。でも安達さんは……。安達さんが間違ってるなんて思ってないけど、向こうの話を聞かないとわからないのかな、って思う」
 黙って聞いていた沢渡は、軽くため息をついた。
「そういう人はいるよ。外では紳士的でも、身内には違う顔をしてる人間は。桐山がいままでそういう人と出会ったことがないなら、それは、……運がよかったから。そういう人間はいる。その人がどうかはわからないけど、いるんだよ」
「そう、なのかな」
「そうだよ。芸能人とかバズツイに嘘みたいに酷い言葉を投げてる人が普段は善良っぽいこともあるし、ネットで丁寧な言葉づかいしてても実際にはクズってパターンもあるんだから。そういうもんなんだよ」
 もう一度ため息をつき、グラスに残っていたワインを飲み干すと沢渡は言った。
「会うのはオススメしないし、1回くらい会っても結局わかんないと思うよ。まあ、好きにすればいいけどさ」
 桐山は軽く首を振ってから「ありがとう」と小さく言った。奥さんに迷惑かかるようなことはダメだよ、と沢渡は言った。

 桐山は1日に2回ほどの頻度でadachiのツイートにいいねをつけた。adachiがポジティブな感想を書いていた映画を観て、共感されそうな言葉を選んでツイートした。「#名刺代わりの小説10選」とハッシュタグに、過去にadachiが好きだと明言している小説を5冊混ぜてツイートした。そうした桐山のツイートに、adachiはいいねをつけた。

 4月の最終週、全社ミーティングで安達から「夫がコロナになった」と連絡があった。adachiのツイートを見ていた桐山は、すでにそのことを知っていた。
adachi『喉がすごく痛い。鼻もかなり出るし、熱もちょっとあります。たぶんあれだと思う。会社で支給された検査キットで明日の朝に試してみます。』
adachi『熱が上がってきた。検査しなくてもこれは絶対そうでしょ』
adachi『結果、コロナでした。ワクチンのときの解熱剤で今はラクです。登録フォームに抗原検査キットの写真を送ったらそれで陽性登録されて、オンライン診療が無償になって、薬も送ってもらえるらしい。この仕組み、来月からなくなるのか。5類になる前でよかったのかも』

 月曜の朝には元気だと言っていた安達も、翌日から体調が怪しくなり始め、水曜には陽性確認の連絡があった。
adachi『家族も陽性になりました。時間差があったおかげで生き延びられそう。粉ポカリとウィダーとアセトアミノフェン、そして医療従事者の皆様に感謝。』
adachi『コロナ発症から5日目。熱はもう下がってきて、身体の痛みやダルさはほとんどない。喉はまだ痛いし、鼻がやけに詰まる。重い風邪の治りかけくらいの感じかな。洗濯とかはできそう。』
 病床のadachiのツイートには、親しいフォロワーからのリプライが何度か送られてきていた。桐山はしばらく考えて、『治ってきたみたいで、よかったです!まだ大変でしょうから無理なさらずに』とリプライした。数時間後に『ありがとうございます!』という返信といいねがついた。
 安達はゴールデンウィークが明けて仕事に戻ったが、体力が落ちているからと出社はしなかった。
 adachiも数日間はリモートワークをしている様子だった。回復して以降は『家族』について言及することはなく、昼食にパスタをつくったことやコーヒーを淹れてリフレッシュしたことなどを投稿していた。桐山は内心で苛立ちながら、adachiのツイートにいいねをつけていった。

 5月下旬になって、ようやく安達がオフィスに出社した。
 オンライン上ではすでに毎日のように仕事の話をしていたけれど、実際に会えない時間が続いたのはとても寂しかった。会議室で安達とふたりでZoom会議に参加しながら、この1ヶ月ほど、自分はずっと寂しかったのだと気付いた。
 Zoomを切って一息つくと、安達は桐山の顔をまっすぐに見た。
「面接のときのこと思い出さない?」
 同じことを考えていましたと桐山が言うと、安達はにっこりと笑った。
 外は雨雲が広がっていて、あの夜のようではないけれど、暗く沈んでいた。壁のホワイトボードは相変わらずうっすらと汚れている。装飾のない、つまらない部屋だった。窓からは少し遠くのビルが見える。合板の会議用テーブルも、キャスターの付いた黒い椅子も、壁際の大型モニターも、どこにでもあるものだ。そんな場所が、桐山にとって特別だった。
「今だから言っちゃえるけど、最初はちょっと不安だったんだよ。柏木さんの後輩って言われて、どっちだろうなー、って」
「ああ、なんかわかります。柏木さんの知り合いって、いろんなタイプがいるっていうか」
「そうそう。だから、どっちかな、って。でも、面接が始まって桐山さんとちょっと話したら、すぐわかったよ。頼むから入社してくれーって思いながら、けっこう頑張って喋っちゃった」
 自分の顔が情けないくらい崩れてしまっているのがわかったけれど、どうにもならなかった。「そんなこと言われたら、嬉しくて喜んじゃいますよ」と言って、首を何度も振った。
 柏木さんには感謝しないとねと安達が笑い、ほんとですねと桐山も笑った。

 エレベーターがフロアに着いた音がして、誰かが廊下を通り過ぎていった。執務室の方から、社長と柏木が「雨が強くなってきた」と話すのが聞こえてくる。
「コロナのときね」ふいに、安達の声のトーンが落ちた。
 桐山は、安達が話し始めるのを待った。安達は唇を閉じて窓のほうを見つめている。ガラス越しでは雨脚はよくわからなかった。
 しばらくしてから、自嘲も苛立ちも悲しみもない静かな声で、安達が言った。
「旦那が先にコロナになって、わたしが2日くらい後だったんだけど。治ったのも向こうが早くて。わたしは、向こうが寝込んでるときに買い物に行って、ポカリとかカップ麺とか、風邪薬とか買っておいたわけ。自分も倒れるかもって気がしてたから、早めにゴミ出したり洗濯したり済ませてね。なのに、でも、何もしなくて、あの人は。わたしがまだ死んでるのに、自分のことだけ。いつものことなんだけど、さすがに、やってよと思って。やってくれてもいいじゃん。お互い好きでもなんでもないとしても、一緒に住んでるんだから、こういうときくらい助け合えばいいでしょう。そう言ったんだけど、無視されちゃった。せめて、逆ギレくらいすればいいのにね。もうほんとに無理なんだと思うけど、わからなくなっちゃって」
 安達が話している間、執務室からは柏木たちの楽しげな声が聞こえていた。
 桐山は黙っていた。安達の言葉を受け止めることだけをしようと思った。
「ごめん、またこんな話して。ありがとう。なんか聞いてもらうと安心しちゃうから、つい話し過ぎちゃうかもしれない。ありがとね」
 桐山はうなずいて、大丈夫ですと言った。自分が本当に大丈夫なのか、よくわからなかった。
 雨音が強くなったような気がして外を見たけれど、部屋の中からではやっぱりわからなかった。
 行こうか、と安達が言うまで、桐山は窓ガラスを見つめていた。


◇7

 得意先のB社とのあいだで深刻なトラブルが起こり、社内はしばらく混乱した。B社を担当していたのは新卒3年めの本村で、最初の火消しはなんとか対応していたけれど、その翌週から出勤できなくなってしまった。B社との折衝は社長と柏木が対応し、安達は本村のメンタルケアに当たった。ちょうど別の大型案件がスタートしたばかりだったから社内の人手は足らず、全員が右往左往しながら働いた。桐山は、B社以外の本村の案件に加わることになった。損害賠償や労災といった言葉も聞こえてきたが、桐山は目の前の仕事に集中した。
 事態発生から3週間ほど過ぎた頃、風向きが変わる。B社が行った内部調査の結果、トラブルになった担当者が、他の取引先に対してハラスメント行為を繰り返していたと判明した。本村もハラスメントを受けており、強硬なクレームも実は不当なものだったとわかった。こちら側に非がまったくないわけではないが、争って負けるようなことはないという。賠償金や示談金を支払う必要もなさそうだと社長が報告すると、オフィスに居合わせた社員からは自然に拍手が広がった。
 本村の体調は次第に回復し、段階的な時短勤務とリモートワークで業務に戻り始めていた。社長と柏木も以前の業務に戻れるようになり、社内の雰囲気は落ち着いていった。
 2ヶ月ぶりに本村がオフィスに顔を出した日の昼食は、安達や長谷川たちとともに、ささやかなお祝いをした。仕事ができなくなった最初の時期は布団の中でYouTubeのゲーム実況動画を見ていたが、あるときからKindleでミステリ小説を読めるようになり、それから少しずつ会社のことを考えられるようになったと本村は話した。

 仕事が忙しい時期でもadachiとのコミュニケーションは続けていた。adachiがSNSの拠点をTwitterからDiscordに移したので、桐山もアカウントを登録して追随した。プロフィール画像はTwitterで使っていたのと同じ顔写真にした。
 自分が何をしたいのか、桐山はよくわからなかった。
 安達の夫は、安達を不幸にしているのだと思う。それならば、彼女の人生から彼は排除されるべきだ。夫と別れることが彼女の幸せになるはずだと思った。
 自分と彼女がどうなるのかは、問題ではなかった。彼女にとっての桐山は、同僚のひとりでしかないだろう。おそらく好意は伝わっている。しかし、それがこんなにも強い感情だとは彼女は想像していない。
 安達たちの夫婦関係は修復できるのかもしれない。そのほうが彼女にとっては幸せなのかもしれない。自分が告白しても、それで彼女が幸せになるわけではない。この感情を伝えることはできない。
 だからといって、このまま傍観していたくもなかった。時がたって振り返ったとき、何もできなかったと悔やむのは嫌だ。
 とにかく、彼と会って話してみよう。情報が増えれば状況判断も変わるだろう。相手が本当にどうしようもない男だと確認できたなら、そのときはそのときだ。
 「転職を考えているので業界のことを教えてもらえないか」とDiscordでメッセージを送ると、快諾する返信がすぐに届いた。奥歯を噛んで感情の起伏を抑えながら、桐山はadachiと会う日程や場所を調整した。

 信じられないような暑さが延々と続く、記録的な猛暑だった。
 安達はお盆休みの1週間前から連休を取り、明日からひとりで実家に帰省するという。その前にふたりで飲もうと誘ったのは安達のほうだった。
「ほんとはゴールデンウィークに帰るつもりだったんだけどね」
 オフィスの最寄駅の近くにあるカフェバーに入り、ビールを注文する。店内にはハイボールを飲んでいる人もいればコーヒーやケーキで過ごしている人もいて、時間が混ざっているような不思議な感じがした。
「メールは基本的に開かないつもりだけど、Slackはときどき見るから、なんかあったらメンションして。さすがに2週間ずっと見ないってすると、休み明けが不安になるからね。桐山さんもお盆は帰省するの?」
「いえ、それこそ5月に帰ったので、今回は」
 親戚や地元の友人に会いがちな時期の帰省は、学生の頃から避けていた。いつでも気にせず帰れるようになるのは当分先だろうかと桐山は思う。
「実家で、ちょっと話してくるかもしれない。夫のこと」
 唐揚げにレモンを絞りながら安達が言った。
「それは、つまり、……お別れするということですか」
「そうだね。まだ本人とは話してないけど。とりあえず親とか姉とかの感触をみようと思ってる」そう言ってから、安達はビールをひとくち飲む。
「……ご本人と話されてないんですか」
「うーん。なんかね。正直まだ、自分でもわかんなくて。さっさと別れたほうがいいって気持ちは強いんだけど。……子どもいないし家も賃貸だから、ハードルは低いんだけどねえ」
 桐山は返す言葉に迷い、うなずいてビールを飲んだ。
「この指輪も、嫌なら外しとけばいいんだけど。あの人が普通につけてるから、なんかね」
 安達はテーブルについた水滴を人差し指で触りながら、小さくため息をついた。
「いっそ、もう浮気しててほしいなあ。最近またちょっと怪しいんだ。すぐわかる。あっ、わたしが実家帰ってるあいだの旦那を監視するバイトとか、ランサーズで探してみようかな?」冗談とも本気とも思えるトーンだった。
 店のドアが開いて、外の熱気が流れ込んでくる。
「それは……、離婚に踏み切るきっかけがあれば、みたいなことですか」
「そう、だね。もう完全に無理ですって状況になれば決められるんだろうけど……。だって、めんどくさいじゃん、話し合うのも、手続きするのも、周りに言うのも。……疲れちゃってるんだろうね、もう。なんかさ、お風呂に入ってると、だんだんお湯がぬるくなってくるでしょ。ぬるくなって、そろそろ出ないと湯冷めしちゃうなって思ってるんだけど、眠いしめんどくさくて出れなくて。で、もうさすがに寒いってなって、やっと出るみたいな、そういう感じかも。湯船の中で、困ったなあ、出れないなあ、困ったなあって思いながら待ってる感じ」
 安達は右手を軽く握り、物をつまんで持ち上げるようなジェスチャーをしてみせる。
「そういうときはお風呂の栓を抜くといいんだよね。お湯がどんどん減って、からっぽになったら、さすがに入ってられないから。どっちにしても、冷めちゃう前に自分で出たほうがいいんだけど。……ね、34って、どうなんだろうね。まだ次の出会いってあるのかなあ。いまってアプリなのかな、やっぱり」
 次の出会いという言葉を、安達は何のわだかまりもなく口にした。
「もし、ほんとに浮気されてたら、栓は抜けるんですか」と桐山は聞いた。
「たぶんね」
 安達はまたテーブルの水滴をしばらく触り、紙ナプキンを取って拭いた。
 店内の照明が少し暗くなる。店員がテーブルを回ってカフェメニューを回収していった。
 ゆったりとしたテンポのジャズピアノが、頭上のスピーカーから流れていた。
 桐山はビールをひとくち飲むと、安達をまっすぐに見た。
「……前に話したことなんですけど、わたしが付き合ってた人が既婚者だったって話、覚えてますか?」
「もちろん、覚えてるよ」安達はうなずいて言った。
「好きな人がいるって言ったことは、……覚えてますか?」
「覚えてる」
「わたしは……」
 視線を手元に落として、また前を見た。
「……わたしは、浮気はよくないことだと思うんです。子どもっぽい意見みたいかもしれないですけど、自分の経験のことを考えると、この考えは動かないんです。昔は、昔の貴族とかは、一夫多妻みたいなこともあったし、最近も、……最近っていうことじゃないんですけど……、一度に何人も好きになるっていう人は、いるんですよね。それは、でも、わたしはそうじゃなくて。わたしは、好きな人が結婚してるなら、どれだけその人が好きでも、気持ちを伝えられないと思うんです。それは……、それは、自分の好きな人に、自分と浮気をしてほしいって伝えることに等しいからです。だから……、だから、わたしは好きな人がいるんですけど、それは、どうにもならないんです」
 ジャズピアノの演奏はいつのまにか終わって、サクソフォーンがゆったりとした旋律を奏で始めていた。店員も客も大勢いて騒がしいはずなのに、桐山にはサクソフォーンの音だけが聞こえた。
「ただ、その人が、幸せになってくれたらいいなと思います。その人が幸せであることを、わたしにとっての幸せにするので」
 安達も桐山も何も言わなかった。
 しばらくしてから安達は、言葉を探すように何度か唇を動かし、「話してくれてありがとう」と言った。
 行きましょうか、と安達が言った。はい、と桐山は言って席を立った。


◇8

 暑い一日だった。
 これから起こることを思い、桐山は憂鬱になる。
 何日も掛けてさまざまな可能性を検討してきた。他のやり方も考えた。自分が自分に許すことができて、実行可能な選択肢の最大公約数はここだと決めた。準備もした。それでも、迷いがないわけではなかった。
 目を閉じて、安達の顔を思い浮かべる。
 この1年間で彼女のいろいろな表情を見てきたけれど、思い出すのはいつも、最初の会議室だった。あの日も暑かったはずだと桐山は思う。
 前日にZARAで買った服に着替えて家を出る。夕方になって陽射しこそ和らいではいたが、まとわりつくような暑さが一瞬で桐山を不快にさせた。普段はあまり着ない薄手の服のおかげで多少は涼しく感じられるのが救いだった。
 adachiと会う場所は新宿駅近くのビアレストランだった。お盆休みの週末で、駅はひどく混雑している。
 待ち合わせ時刻の5分前に店の前に着くと、すでにadachiが待っていた。グレーと白の格子柄のポロシャツ、紺色のチノパン、黒い帆布のトートバッグ。写真で見た文豪風の丸メガネはしていない。伊達だったのかコンタクトにしているのかと一瞬考えたが、どうでもいいことだった。
「こんばんは」と声を掛けると、adachiは驚いた顔で桐山の姿を見た。すみません、予想していたのとちょっと違ったので、とadachiは言った。
 予約されていた席につき、ビールで乾杯をする。
「えっと、アダチさんとお呼びしてよいでしょうか」と桐山は聞いた。
「はい。本名です。安心の安に、友達のダチで、安達です」
「安達さん。わたし、足立区のほうかと思ってました」
「ときどき間違われますね、文字だと。そちらは、マエダさんでいいんですよね」
「はい、前田あっちゃんと同じ、普通の前田です」
 選んだ名前に深い意味はない。観ていた恋愛映画の主演俳優から借りただけだった。
「前田さんはけっこう飲まれるんですか。Xにも写真よく上げてますけど」
「はい、ビールが好きなんです」
 最初は当たり障りのない話題を選んだ。安達の好みは把握していたから、会話を盛り上げるのは難しくなかった。好きな小説や映画、家の近所のラーメン屋など、話は尽きなかった。
 天井のスピーカーからは、ひと昔前に流行したポップソングが流れている。グラスから落ちた水滴が、コースターの色を変えていた。
 安達がトイレに立った。そろそろ頃合いだろう。
 戻ってきた安達は「もう1杯くらい飲みますよね」と言って、ふたり分の追加注文をした。
 新しいビールに口をつけてから、桐山はいま気付いたかのように言った。
「あれ、安達さんって指輪されてないんですね。てっきり結婚されてるんだと」
「ええ、まあ」と安達はあいまいな返事をした。
「ちょっと前にコロナに罹られたとき、ご家族も陽性だったって書かれてませんでしたっけ。だから奥さんいるんだなって思ってたんですよ」
「ああ、それは……、親ですかね」
「なんだ、そうだったんですか」
 脈拍が速くなっているのがわかった。聴覚が失われていくような感じがした。
「じゃあ、彼女さんとかも、いないんですか」 
 グラスを持ち上げかけた安達の腕が、途中で止まる。桐山はあの夜を一瞬だけ思い出し、すぐに頭から追い払う。
「いまは、いないですね」と安達が言う。
 小さくひとつ息を吸ってから、桐山は安達の目をまっすぐに見つめる。
「じゃあ、わたしが彼女になってもいいですよね?」
 息を吸って、息を吐く。
「安達さんのことが好きです」
 桐山の言葉にすこし驚いた顔をしてから、安達はにっこりと笑ってうなずく。

 男がバスルームに入るのを見送ると、桐山はソファに座り直して、目を閉じ、深く息をついた。
 順調だった。
 依頼した探偵はうまく写真を撮れただろうか。わかりやすい外観のラブホテルを選んでもらえてよかった。ホテルから出るときも撮られやすいようにゆっくり歩かなくては。
 2週間前に初めてスターバックスで会ったときから、男は結婚指輪をしていなかった。会うのが若い女だから指輪を外してきたのだとすれば、それはもう、そういうことなのだと思った。
 念のため、「お中元のお裾分けを送りたいから」と理由をつけて安達から自宅の住所を聞き出してあった。男に対しては「数年前まで近所に住んでいた」と偽り、調べておいた飲食店や学校の名前を出して反応を確認した。男は住んでいるマンションの階数まで話してくれた。
 桐山が顔を上げると、目の前の大きな鏡に自分の姿が映っていた。襟元にフリルのついたノースリーブのブラウスは、胸元のボタンをひとつ留めずにいる。普段は塗らないオレンジのアイシャドウが挑戦的な雰囲気を演出していて、なかなか魅力的な女だと自分で思った。こういう格好も似合うことは知っている。まったく好きではないだけだ。
 男性とセックスをするのは学生のとき以来だ。うまくできるだろうか。仲條としていたときはいつも桐山の部屋だったから、ラブホテルを使うのも久しぶりだった。ここまで誘導するためにずいぶん積極的な女を演じてしまった。大丈夫だろうか。ギャップに感じて興奮でもすればいいのだけれど。
 ふと、沢渡のことを思い出す。レズビアンだと彼女が話してくれたとき、桐山は努力して男性と交際している時期だった。そのとき交際していた男性と別れたあとで、沢渡に自分の感覚を打ち明けた。そんな気がしてたんだよねと沢渡は言っていた。あのころの自分は、本当は、沢渡が好きだったのだと思う。いろいろなタイミングが違っていたら、違う関係になっていたのかもしれない。どの世界がお互いにとっての幸せだったのか、いまはもうわからない。
 証拠写真をどうやって安達に渡せばいいのか、男との関係をどのくらい重ねれば離婚の理由にできるのか、男の浮気相手が桐山だと知られてしまったら何が起きるのか、わからないことばかりだった。自分の行動が本当に彼女の幸せになるのかどうか、桐山にはわからなかった。

 目を閉じて、息をする。
 祈りだ、と思う。

 男がシャワーから出てくる気配がして、桐山は立ち上がった。

 愛する男と寝る女がいる。
 愛する女と寝る女がいる。
 お金をもらうために、地位を得るために、居場所を守るために、命を失わないために寝る女たちがいる。
 わたしが愛する女と寝ることは、たぶんない。
 わたしが愛する女性は、たぶん、わたしを愛さない。

 間違っているのかもしれない。きっと、間違っているのだろう。
 それでもいいと思った。
 これがわたしの答えだ。
 わたしは、男を陥れるために男と寝る。
 わたしが愛する人を、わたしが幸せにするために。





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