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追想のたび

鹿児島へ行く機会があり、桜島へ渡った。9月末というのに相変わらず猛暑のような暑さだったし、帰りの時間もあってのんびりはできなかったが、よい滞在だった。

桜島は活火山で、いつも噴煙を上げている。1914年にとても大きな噴火があって、そのとき流れた溶岩によって海峡が埋め立てられて大隅半島の一部になった。それまでは島だったが、いまは島ではない。

あなたがいま立っている場所は、約100年前に流れ出てきた溶岩でできている。その溶岩の上に森が生い茂っている。はじめにコケが生え、ススキが育ち、マツが育つ。いちど何もなくなってしまったから日差しを遮るものがなく植物の生育にもよい。そんなことが案内看板に書かれている。島には活火山がもたらした死と100年を掛けて再生している生とがあり、そこに人間の死と生が重なりあっている。

110年前の大爆発のあと建てられた記念碑には、こうあるそうだ。

(……)海岸には熱湯が湧きだし旧噴火口からは白煙が上がるなど刻々とせまる危険な気配に、村長は数回測候所に問い合わせたが、桜島には噴火はないという答えだった。村長は、残っていた住民にあわてて避難するには及ばないと説得した。ところが間もなく大爆発して測候所を信頼した知識階級の人がかえって災難に合い、村長一行は逃げ場もなくそれぞれ海に身を投げた。(……)
住民は理論を信頼せず、異変を感じた時は事前の避難の用意がもっとも大事で、日頃からいつ災いにあってもあわてない心構えが必要である事を、碑を建てて記念とする。
大正13年1月 東桜島村

桜島ビジターセンター内展示物より

「大正時代」で思い出したのは映画『福田村事件』だ。100年前の人たちがどのように生きていたのか、映画を観たときよりもすこし具体的に想像できるように思えた。

大正からさらに50年ほど遡ると明治維新の時代になる。鹿児島市内には幕末の志士たちの像や記念館がいくつもあり、観光資源としていまも活躍している。

平野国臣の歌碑

桜島の展望台のひとつに、福岡藩士だった平野国臣の歌碑がある。

わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山

熱く燃える恋心を歌っているかのように読めるこの歌だが、実際には政治活動を反対された無念を歌ったものだという。それはとても無念だったことだろうけれど、恋の歌だと思ってしまったわたしの感動の立つ瀬がない。歌碑を建てるときには解説も隣にそえておいてほしいものだ。

わたしが桜島を歩いたのは今回が2度めで、前回は2019年10月のことだった。レンタカーを借りてフェリーに乗り、島内の温泉にも立ち寄った。まだ自由にどこへでも行けた。仕事も比較的充実していた。それから4年が経った。いいこともあれば悪いこともある。当時と同じ旅程ではない。

この4年間で失われたもの、手放してしまったものはいくつもある。桜島は4年前と同じように力強くそこにあり、わたしは思い出を取り戻せないものかとつい考えてしまう。相変わらずの暑い日差しが、思考すること自体を妨げる。

追想のたび太陽はつよく射しうすき煙の桜島山

桜島フェリーから見る桜島

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ニュースレターを始めました。今回の記事は、「9/25〜10/1号」からの抜粋です。

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