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薔薇の庭のまいご
感性を恥じている。
可愛い物や美しい物が大好きで、吟味して気に入った洋服やアクセサリーや皿を買い集めたり、薔薇園に出掛けたり、野の花を摘んで喜び、野苺を摘んでジャムにし、夕焼けを見て感激する自分を、ずっと恥ずかしいと考えている。
幼い頃、博物館で買ってもらった緑色の宝石を大切にしていた。
黒いケースに敷き詰められた白い綿の上に、宝物のように座っていたその石を、引き出しに仕舞ってよく眺めていた。石に興味を持ち、図鑑を読み、いろいろな天然石について調べてあれもこれも欲しいとわくわくしていた。
私は妹の本が入っていた段ボールを不注意で壊して、素直に謝らなかったことがある。
親は私を叱るために、高い所から宝石を落とした。
急いで床に這いつくばってキャッチした頭上から、ほらね、大切な物を壊されたら嫌でしょ、と聞こえた。
その時に、自分はなんと浅ましく愚かなのだろうと恥ずかしい気持ちになった事を思い出したのは、つい最近のことだ。
妹は、本の入った段ボールが破けて泣いていた。段ボールには一般的にそう大切にする価値がないように思われ、私は別にいいじゃん、と言ったのだ。
妹は、一般的に大切にする価値がなさそうな段ボールを大切にしていた。正しくは、本がきちんと仕舞われているということを大切にしていた。あるいは自分の持ち物やスペースが侵害されたことに泣いていたのかもしれない。
それは自分の持ち物やスペースに自分で価値をつけ、大切にしていることのように感じた。
対する私は、きらきらとした宝石を綺麗だから好きだった。
綺麗だから好きだなんて、条件付きの愛である。綺麗じゃなくなったなら好きじゃなくなる。そして、一般に価値があると思われるものを好いていることを、これは宝石なんだ、世界でも素敵なものを私は持っているんだと思いながら大切にしていることを、浅ましく思った。
親は冷たい無表情で私を見下ろしていた。そんなものを急いでキャッチするなんて、と言っているように感じた。
その後泣き止んだ妹は、ごめんと言った私に、段ボールが壊れたおかげで本が出しやすくなったかも、と言った。その時になってやっと、妹に申し訳ない気持ちになった。なんて優しい、いい子なんだろうと思ったのと同時に、自分は人を踏みつける最低で冷たい人間だと思った。素直に謝罪もできないばかりか、死に物狂いで床に這いつくばって宝石をキャッチする浅ましい人間だ。
段ボールが壊れて泣いている妹と、宝石を落とされたら這いつくばる私は、当時の自分の中で、おとぎ話の優しい姫と意地悪な魔女のように対比された。
私は、綺麗なものに目がくらんでいる愚かな人間だ。他人の大切な物を世間的な尺度で測り、壊して謝りもしない、最低の人間だ。
記憶はなくてもその時の気持ちが、私が綺麗な物や可愛い物を楽しむたびに降ってきていた。
繊細すぎるとか神経質だとか、些細なことを気にして、とか、そんなことで泣いて恥ずかしいとか言われて育った。あれがこれが綺麗だという幼い発言もふーん、で済まされていた。そのために、自分は弱く、変わらなければならない、強くならなければならない、恥ずかしい、という意識があったように思う。
インターネットにあれこれ好きな物の写真を載せていたのは、恥ずかしい自分を肯定してもらえるからだった。
自分が綺麗だと思った物、可愛いと思った物の写真を載せるとファボってもらえたり、リプライをもらえる。次第に私は楽しくなり、あれこれ載せ、そしてまた失敗した。
可愛いとか、綺麗だとか、思うこと自体が恥ずかしいとさらに強く考えるようになった。
身の丈に合わない高価な服やアクセサリーを欲しがることも、料理の見た目に拘ることも、他の難しいことは本当はどうでもよくてただ綺麗で可愛いものに囲まれてふわふわと生きていたいだけなことも、全て恥ずかしい。
だから、一生懸命勉強して仕事に打ち込み、堅実そうな道を選ぼうとする。無骨に働くことを良しとし、地道な努力を最上とする。
けれどそれは私が本当に大切にしている事ではないのだ。だからいつも選択を間違え、うまく生きていくことができない。
仕事なんてどうでもいい。難しいことはよくわからないし、考えたくない。私はただ、大好きな物たちに囲まれて映画を観ていたいし、少しの絵を描いて満足していたい。
その願いは恥ずかしい事なので、本心の上に作った堅牢な意識から𠮟りつけられる。
ふわふわと生きるんじゃない。ふわふわしていたら失敗する。繊細とか感受性とかそういう性質も恥ずかしい。堅実になるべきだ。感性を大切にするのは、愚かだ。
𠮟りつける意識に抗いながら、インターネットにあれが綺麗これが可愛いと書き、日記にも書き、一生懸命好きを貫いては、恥ずかしくなっている。
宝石を大切にしていた自分を、私は押し込めて生きてきたのだと思う。
可愛い物や綺麗な物を目にした時、手にした時の言動がいやに幼く、ずっと恥ずかしいと感じていた。もういい大人なのに、どうしてこんなに幼稚な発言が出てくるのだろう、自分は一切成長していないのではないか、稚拙な人間なのではないかと悩んでいたし、可愛い物や綺麗な物は好きだけれど、それに喜ぶ自分は嫌いだった。
わーいとかなんて可愛いの!とか、ああたのしいな、〇〇しちゃお、××したらもっといいかも!という発言の数々は、押し込めた幼い自分が前に出て喜んでいたんではないだろうか。
今年も一番好きな季節が来た。薔薇の季節である。
朝食を作って大好きな薔薇園に向かい、薔薇の咲くベンチに座ってサンドイッチやオレンジやチェリーを食べる。その後は写真を撮りながら薔薇園を二周も三週もして楽しむ。毎年一つは新しい視点での写真を撮ることとしており、今年は全体の雰囲気がわかるような写真を撮ることと、自分と薔薇を一緒に撮ることを心掛けた。好きな格好をしていたからだ。
薔薇園では、とびきり素敵な格好をする必要がある。一年のうち最も特別なイベントだからだ。普段着られないような、特にここ数年は着ないフリルやレースの服を纏い、髪にリボンを結ぶ。それが薔薇園での正装なのだ。
薔薇園では、いくら素敵でいてもいい。いくら喜んでもいい。いくら可愛くても、いくら綺麗でも、いくらふわふわしてもいい。そういうルールなので、行った後に落ち込むこともない。
薔薇自体や庭自体が好きなことの他に、自分を完全に解放できる唯一のイベントだったから、薔薇園に行くことが大好きだった。
だから引っ越しに悩んでいたのだと思う。引っ越したら薔薇園に行けなくなる、という心配は、自分を完全に解放できなくなる、という不安や焦りや恐怖だったのだろう。
宝石を大切にしていた私は、自分を恥ずかしいと思う私や様々な出来事に耐えかねて、逃げて行ってしまった。そして、おとぎ話の世界のような、夢みたいに美しい薔薇園を見つけて、ずっとそこで遊んでいる。
自ら望んで迷子になり、いつまでも家に帰ってこない。
私は私を迎えに行かなくてはいけない。
ああここにいた。ここはなんて素敵な場所なんだろうね。こんな場所を選んだあなたを誇りに思うよ。この場所もあなたも、本当に素敵だね。だけど、もうそろそろ家へ帰ろう。ここにはまた来ればいいし、他にもいろいろな素敵なものがあるよ。あなたが良いと思った物を、これからも私に教えてほしい。あなたと一緒に喜びたいんだ。
本棚の上には、今日摘んできて楽しかった野の花が、ガラス瓶に活けてある。野の花を摘み終わったら、あの子はまた薔薇園へ帰ってしまった。
迎えに行かなくてはいけない。