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ほんの少しの街の宝石

街明かりが見たい時、隣の市まで行く。
車で走る田舎道がだんだんと人の住処らしくなると、急に視界が開け、坂の下に少しだけ街明かりが広がる。遠く、真っ暗な中に建物や街灯や信号機の、白やオレンジやエメラルド色をした明かりが浮かびあがり、きらきらと光る。
そこに、いつか都会で見た本物の夜景の記憶を重ね合わせて、フィルタをかけたようにだぶらせ、まるで宝石のようだと喜んでいる。
そのまま走り抜ければすぐに明かりは見えなくなる。ほんの一瞬の輝きだ。
私がいつも見に行くそのほんの少しだけ街めいて見える宝石スポットまでは、車でだいたい1時間くらい。音楽を聴きながら考え事を整理するのにもちょうどいい時間なので、特に最近は、よく見に行く。
ところで私は歌や小説の美しいタイトルが好きなので、noteのタイトルも綺麗なものをつけたいと考えている。今回はここから取ることにする。

夜に出掛けるのが好きだ。なんだかワクワクする。暗い中に明かりがきらきらするのがいいし、普段見ている世界とは違ったところに迷い込んだような気持ちになる。暗がりでは道も建物もよく見えないので、いくらでも楽しい想像ができる。
上記の少しの宝石スポットを見て、自分の住む町に帰る時には、よく想像をする。
実はこの先にはもっと栄えた街があり、私は旅行中、ホテルに向かうところだ。街の朝日がビルを洗うさまは、映画のように美しい。など。
町に帰る途中、ミルクを運ぶタンクローリーを見かけたことがある。銀色のタンクに、自分の車や街灯や信号機が楕円形に吸い込まれていくところは面白かった。シュルレアリスムの絵のようだと喜び、生ぬるい初夏の風を吸い込んで非常によい気分になった。
おそらく、牛乳ではなくガスや劇薬を運んでいただろうと思われるが、私の頭ではミルクということになっている。どちらが正解かもうわからない。

私にはこういう、いつか見た別の景色や記憶、映画や小説といった素敵な情景を重ね合わせて現実を見ている部分がある。
気に入ってはいるのだが、特に対人関係において不都合が生じる場合があるので注意せねばならない。
田舎の乏しい街明かりをみて宝石みたいだと感激したり、道端の落ち葉を踏んで歩くだけで映画みたいだと喜べるのは素敵なことかもしれないが、なんていい人なんだろうと見誤った後にその人の抱える問題を肩代わりしたりすることは避ける必要がある。
いくらでも素敵に改ざんしてよい時と、現実を見て事実だけを受け取るべき時を見分ける力をつけたい。

最近は街を見たい欲が強い。
そういった時にも隣の市の駅まで車で行き(切符が高いので)、駅や、付近のちょっと店が混みあっているエリアを眺めて帰る。
いつか歩いた都会のタイルの上、たくさんの店やビルが立ち並ぶ通り、高級そうな香水の香り、ガラス張りの花屋。そこら中に駅があり、乗り換えを調べる。たくさんの人が各々の方向へと進む。私が行くのも美術館や展示や舞台や服屋やアフタヌーンティといった素敵な場所だ。
その楽しい記憶と光景を、都会と比べたら殺風景すぎる駅周辺と重ね合わせて、満足している。頭がおかしいんじゃないのか。
転職活動が進めばそのうち面接に行くことになるので、その時に街を見たい欲をきちんと満たそうと思う。


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