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3月になる季節
3月でも春でもなく、3月になるのが好きだ。
2月から3月への変わり目、雪が解け始め、気が付くと随分日が長くなっている。
あ、まだ明るい、と思った時から好きな季節が始まる。
卒業式、もうすぐ桜が咲くという期待、昼下がりに揺れるカーテンの柔らかい光、岩井俊二の花とアリス、ワルツやバレエのリズム、それを愛と呼ぶだけ、同じ制服の少女たち、ハムエッグを作ろうと思う(実際には作らない)こと。
何年も何年も巡ってなぞり続けたイメージが頭に広がって、3月になる季節を想う。
想う以外に表現するならば、浸る、とか、憧れる、とかがいいかもしれない。
私には季節や月ごとに毎年繰り返す行事がある。
例えば2月にはチーズホットサンドを作って食べて(フライパンで作る。とてもおいしい)、アイスみたいな模様の入った薔薇を飾り、サティを聞き、ムーンライズキングダムを観ることになっている。
それらを全てやり遂げられればすっきりして安心するけれど、いくつか残す年もある。
その季節や月が過ぎ去ってしまえば時間切れで、残りの行事に意味はなくなる。
この行事を繰り返すことが、私にとってその季節や月を想うということなのだ。
今年はチーズホットサンドだけは食べられた。世話をする余裕がなく、花は買えなかったので、数年前に飾った薔薇の写真を眺めた。
3月になる季節の行事も、ほとんどやり遂げられなかった。
花とアリスを観たかったけれど、近所のレンタルショップが年末で閉店したし、配信を買って観る気力もあまりなかった。サントラだけ聞いた。
本当は毎年必ずやり遂げたいけれど、人や周囲の環境は変わっていくものなので難しいことに気が付いた。
何年もなぞり続けた行事を愛おしく思うと同時に、やり遂げるという、ある種の定めのような表現がしっくりくることを、辛いとも感じるようになった。
私は物心ついた頃から、自分に厳しいルールをいくつも課してきた。
それは生い立ちがもたらしたものでもあるが、気質で補強された部分もある。
書き切れないし自覚しきれないほどたくさんあり、守れなければ自分を罵倒して生きてきた。
怠け者の私には当然守り切れるはずもなく、毎日、朝から晩まで頭には罵倒の声が響く。
このことにようやく気が付いたのは今年の2月のことだった。
良くないと思った。自分をルールで縛っているから、自由に見える他人が羨ましくなる。妬ましくなる。
不安でたまらなくて、安心するために、毎年同じことを繰り返す。
その季節や月のことを体が覚えている。陽のフラッシュバックとでも言えば伝わるだろうか。
3月になる季節のイメージは、解放である。
雪が解け、冬の呪縛や心配事から自由になる。
暖かくなる日差しの居心地の良さを肌で感じ、もうすぐ訪れる春を心待ちにする。
だからもう、やめにしようか?
良いことも悪いことも両手いっぱいに持っているから、新しいものを持てない。
どれか、いくつか、手を離そうか?
3月は、空豆を使った丁寧なお昼を食べる。引き続き花とアリスを観る。さらざんまい。けものフレンズ。桜の雨。tanakadaisukeさんの服やアクセサリー。英語の勉強も去年新しく加わった。
4月は、お花見をする。野生のポピー。邦画を観る。桜が咲いて、町中がお祭り会場みたいで好き。前を走る車にまきあげられるピンクの花びら。
もうやり遂げなくてもいい。そう思うと少し楽になった。
ひっそり想えばいい、その一環としてこうして長い文章を書いてみた。
私にはやり遂げなければならない行事があった。それは愛おしく、大切で、ほっとすることだった。
だけどもう、自分に厳しいルールを課すのはやめよう。
もう充分私はルールに従って生きて、季節や月ごとの行事も楽しんだ。
自分に持てる分量だけを持って、新しい、明るいところへ行くのだ。
4月は、お花見はしたい。桜が咲くのを喜び、町中がお祭りみたい!とはしゃぎたい。
でも、やり遂げる必要はない。やりたい時にやりたいことだけをすればいい。
桜が咲いたなら、日本中がピンク色をしていることを嬉しく思いたい。
きっと誰しもが桜の下で陽気になっている。同じ瞬間に、同じ美しいものを見上げていることを、ルールなんてなく好きだと思いたい。