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ドラゴンズドグマは生命の賛美 考察


switchでセールが来てたので、安易な気持ちで購入したドラゴンズドグマ。正直どハマりしてます。
ジャンルを踏まえても予想以上にアクションが楽しく、こんな作品が10年前に発売されていたのかと今更ながらに衝撃を受けました。従者の「ポーン」と一緒に成長していける体験も、きっとここだけ。

絶賛ハードモードをプレイ中の筆者ですが、嬉しいことに続編の話も上がっているそうで……ってちょっと待てよ。この朗報を聞いて、エンディングに辿り着いた方なら疑問が生まれたはず。(DDONは似て非なる世界観の元で描かれていたようですが)正式なナンバリングとなると、ちょっと話を広げ辛いんじゃないかと。
というのも、物語は世界の核心に触れていて、最終的にドラゴンズドグマ(竜の教義)は消失してしまうのだから。

今回はストーリー面での評価が余り目立たない『ドラゴンズドグマ』結局なにを伝えたかったんだろう、という記事です。



ストーリー解説

ゲーム未プレイの方のために、必要最低限のストーリー解説を掲載しておきます。把握済みの方は読み飛ばして頂いて問題ありません。

・ドラゴンを倒すまで

物語は辺境の漁村から始まります。人口は少ないながらも、漁師の活気立つ村にて、主人公も日々を暮らしていました。そうした、凪のような穏やかな時間は長くは続かないもで、突如として東の空よりドラゴンが現れては、村の住人たちを襲い始めます。
主人公は故郷を守ろうと果敢にドラゴンに立ち向かうのですが、必死の抵抗も虚しく、結果的に心の臓をドラゴンに奪い去られてしまうのでした。

昏倒から目を覚ました主人公は、その身が心臓を奪われてもなお生き続ける、使命を帯びた半不死の者「覚者」になったことを人伝に聞くことになります。どうやら覚者は「ポーン」と呼ばれる異界の従者を従えて、伝承の通り使命を果たす必要があるようでした。例に漏れず、主人公も奪われた心臓を取り返すために、ポーンを供に長い旅へと出ます。

旅の道中で立ち寄った兵士の駐屯地で武功を立てた主人公は、その力量を見込まれて、近隣で最大の都市である領都へと招集されます。話によると、領都を統べる領王エドマンは嘗ては覚者であったようで、既にドラゴンを討伐し、使命を達成し終えているとのことでした。
当面の拠点を領都に据えることに決めた主人公は、領民からの依頼や王の勅命をこなしていく中で、着々と力を蓄えてゆきます。

時には主人を亡くしながらも現界し続ける、はぐれポーンのセレナと出会い、時にはドラゴンを信奉し世界の破滅を望む「救済」と呼ばれる一派と敵対し、そして竜識者を名乗る、魂を現世に縛られた覚者の亡霊と邂逅する中で、世界の現状に理解を深めてゆく主人公。

やがてドラゴンに挑むに十分な力を得たことを確信すると、主人公は打倒の旗を掲げ、竜の住まう穢れ山へと赴きます。待ち構えていたのは、深い赤を纏った、山と見紛う巨躯を有する因縁のドラゴンでした。

ドラゴンは、敵意を向ける覚者を前にして襲い掛かることもせず、綽々と二つの選択肢をこちらに提示してきます。
一つは生贄を差し出すことで「国を統べるだけの力」が与えられる、という選択。この際、領王エドマンは過去に使命を果たしたわけでなく、最愛の人を生贄として差し出し現王の地位を冠したという事実が明かされます。そしてもう一つの選択とは、困難な戦いに身を投じて、最愛の人の命を救う結末を勝ち取るというものでした。

言わずもがな。因縁に決着をつけるために赴いた主人公はドラゴンに弓を引き、最後の戦いが始まるのでした。

長い戦いの末、弱点の心臓を突くことで見事ドラゴンを倒した主人公のもとに、奪われていた心臓が還ってゆきます。全てを終えて、最愛の人を側に、覚者としての使命を果たしたと安堵する主人公。

しかし穢れ山から遠く離れた領都では、ドラゴンを倒した影響によってか、その居住区が地盤から崩壊を始めてしまいます。更には助言を与えてくれた竜識者も、ドラゴンが砂塵に帰すのと時を同じくして消失します。
気づくと空は曇天で覆われ、まるで世界が終焉を迎えるかのような光景に、人々は心を不安で満たすのでした。

・自ら命を絶つまで

領都上空と目下の奈落

達成感を胸に、領都に帰還した主人公を待つのは厳しい現実でした。
領都では、突如として発生した「大穴」が居住区を丸ごと飲み込んで、以前のような活気はありません。加えて、領王エドマンはドラゴン討伐の事実を受け入れず、王の座を奪われると勘違いをして、主人公を指名手配までします。

追手である領都兵からの逃走の果てに、主人公は"エバーフォール"と呼ばれた件の大穴へと落ちてゆきます。
そこは終わりのない無限の奈落。不思議なことに、穴は最奥で領都の上空と直結しているようで、永遠の落下による繰り返される景色からは「この世には始まりも終わりもない」という真実が覗けて見えました。

崖に掴まることで浮遊感から解放された主人公は、待ち構えていたはぐれポーンたちの言葉に従い、最後の使命を成そうとします。その使命とは、エバーフォール攻略の先に待つ、この世を統べる神に等しい存在「界王」との世界をかけた対決。
界王を倒した覚者は次代の界王となり、世界を統べる。それが覚者に与えられた運命であり、無限の世界において、このサイクルは延々と繰り返されているようでした。

ここで本編開始前にPCとしてプレイした人物「サヴァン」が、界王として登場します。サヴァンの物語で描かれたのは、主人公と同じくドラゴン討伐のために穢れ山を攻略している姿でした。
無限のサイクルが一層と強調されながら、最初も最後も無い戦いが始まります。

神にすら膝を付かせる力を得ていた主人公は、世界が示す理に従い、次代の界王となりました。主人公はその最初の役目として、それまで世界の安寧を維持してきた前界王サヴァンを「神裁ちの剣リディル」を用いて介錯します。
前神は裁たれ、唯一神となった主人公は世界を再び創造し直し、ルールの通り安寧の守護者となるのでした。

それからどれくらいの年月が経ったのか。一瞬のようにも、一生のようにも感じる界王として役目は酷く退屈なものでした。生きている人間に認識されることもなく、ただ世界の一部として、幽霊のようになって見守る。

そんな常人では決して耐えられないであろう、孤独という名の苦痛から解放される方法はたったの二つ。一つは理の通り、次の覚者の到来を首を長くして待つことであり、もう一つは神裁ちの剣で自身の命を絶つこと。ただし後者は、世界の安寧を見守る界王が、今後二度と世に生まれなくなることを意味します。

そして物語の結末において、あろうことか主人公はリディルを用いて自決をしました。世界から神は消え去り、安寧が続くという保証は無くなります。
エンディングでは、長く旅を共にした片割れとも言えるポーンが主人公と瓜二つの人間となり、神も主人もいない世界を生きてゆくことになります。

物語の表層をさらうと、以上の通りです。


細かい設定の考察

まずはゲーム内の細かな設定、覚者が界王になるまでを考察を含めて解説してゆきます。

覚者が界王になるまで、つまり神に至るまでの道のりは非常に単純で、図の最上段の通り、重要な戦闘に2度勝利することで達成されます。

界王になるまでに直面する試練の一つ「ドラゴンと契約」における契約の内容は、エドマンのように、生贄を差し出した覚者に「国を統べるだけの力」が与えられるというものでした。

攻略後も不明瞭な点としては、「この契約覚者の心臓が、果たしてドラゴンから返還されているのか」の如何です。そして本考察では後述する幾つかの理由から、心臓は返還済みであると結論づけています。
ドラゴン討伐後の関係者に起きた影響はそれぞれ異なっていました。竜識者は跡形もなくその姿を消しましたが、エドマンの場合は急激な老化に止まっており、その後も継続して生命活動は続いていました。主人公覚者が心臓返還以降【竜の鼓動】を使わなければ復活できなかったことを踏まえても、ドラゴンのいない世界を生きてゆける覚者とは、心臓を取り戻した者と考えるのが自然です。
またエドマンにポーンがいないことを考慮しても、神へと至る道は閉ざされているはずで、エドマンに不死性(神の特性)は無いと考えていいでしょう。

竜識者については、彼のポーンである愚者の発言から推理します。
「主は契りを捨て〜」と語っていたことから、少なくとも前述した契約を結んではいないでしょう。また、ドラゴンに挑む直前の主人公覚者に向けた「今となっては、竜を識る者などとおこがましい」という自嘲気味な発言から、そもそもドラゴンとの決戦にすら赴いていない可能性が浮上するため「どちらも選ばない」と考察しました。
愚者は「主は私すら信じていなかった」としょぼくれていたので、片割れであるポーンの話にも碌に耳を傾けず、使命も果たさず、難解な言葉で哲学ばかりしていた様子が目に浮かびます。心臓を取られたままなので死ぬに死にきれず、地縛霊みたいになって始めて覚者をサポートし始めたのでしょうが、当然たいした情報を持っているわけでもなく……。おこがましいなんてものじゃありません。

界王に負けた覚者が辿る道「ドラゴン化」についても言及します。
これも単純な話で、覚者に界王足り得る力が無かった場合(つまり敗北した時)、世界の真実の一部を知ってしまった者を、神である界王は放っておくわけにはいきません。次の覚者を生み出すための小間使いとしてドラゴン化して貰い、そしてドラゴンは神の言葉しか話せないため覚者以外に真相は聞き取られない、と予防線も張られます。
(オープニングではドラゴンの言葉を聞き取れませんでしたね)

因みに、覚者とドラゴンが同一の存在であることは、心臓を奪われた直後、キャラクターが昏倒から目を覚ました時点で明かされています。アダロの部屋の垂れ幕には、世界の真実の一部が描かれているわけですが、どうやら界王はこの辺りの監査が大分甘いようです。


キリスト教がモデル

考察に際して、こちらの記事を参考にさせて頂きました。読み応えがあるので、一読をお勧めします。


・三位一体との関連性

記事で語られた内容は「覚者・ドラゴン・ポーン」の関係と、キリスト教における三位一体を照らし合わせることができる、というものでした。
三位一体の概説をすると、キリスト教の信仰対象である唯一神に「父なる神・イエス・聖霊」の3つの表情が存在している、といった思想です。このとき表情は唯一神の一部であるため、同様に神として扱われます。

日本人としては阿修羅像あたりがイメージし易いかもしれません。もちろん全くの別物ですが。

作品と照らし合わせると上図のような関係となり、つまり覚者もドラゴンもポーンも、それぞれが神を構成する一つの位格として同等であることが、三位一体を通して判明します。

本編における描写から、界王に敗北した覚者はドラゴンに成り変わるので「ドラゴン=覚者」の関係が成立し、そしてクエスト『ポーンの夢』にてポーンと人の生命の在り方が近いことが判明しているため「ポーン=覚者」の関係が成立、三位一体が完成しています。


・グノーシス主義との関連性

参考記事でも挙げられていたように、キリスト教義においてドラゴンは悪魔(satan)を指し、基本的には悪しき存在として扱われます。本作ではあろうことか、その悪魔に神としての位格が与えられているため、これが問題となります。

アダムとエバに知恵の実を勧める蛇

ドラゴンが悪しき存在として扱われる理由についても解説します。ドラゴンとは、蛇から派生したファンタジーであり、キリスト教における蛇がもつ役割とは「最初の人間であるアダムとエバに悪事を唆すこと」です。

始めにアダムとエバは蛇に唆されて、知恵の実を口にしてしまいます。
これが「知恵をつけた人間が生命の実(神の不死性)にまで手を出すかもしれない」と神の危惧を招いてしまい、結果として人間は、神によって拭うことの出来ない「原罪」を与えられてしまいます。この原罪は、神の子イエスが全人類の罪を一手に引き受けて没するまで人々の中に残り続けています。
こうした神話から、罪を負うきっかけをつくり出した蛇が悪魔(satan)として扱われ、それが派生系であるドラゴンにまで引き継がれたわけです。


さて、殆どの宗派において悪魔のメタファーとなる蛇ですが、そんな蛇を真の神と崇める宗派も存在しています。

それが拝蛇教とも呼ばれる、グノーシス派です。
グノーシス派とは、キリスト教主流派からして異端とされる、2世紀ごろに誕生した宗派の一つです。この宗派は、キリスト教内から勃興したのではなく、1世紀ごろから存在していたグノーシス主義と呼ばれる思想が流入したことにより派生した経緯をもちます。

グノーシスの教義を一言でまとめると、「私たちの世界を創造した神は悪神であり、その上位に存在する真実の神へ到達しよう」という内容に集約されます。こうした思想は多くの他宗教に影響を与えており、ほとんどの派生先で「今ある世界の否定・自己の本質と真実の神の探究」という主張が貫かれています。

これがキリスト教の信仰と結びついた結果、グノーシス派は現状の神を否定して、真なる神の存在を知るきっかけを与えた蛇を「知恵の神の使者」として神格化したわけです。当然ですが、主流派キリスト教徒にとっての神は唯一絶対であるため、この主張は異端とされて、宗派は時間と共に自然消滅しました。今では関連する文献も殆ど残っていないようです。

『ドラゴンズドグマ』の物語には、この思想と一致する描写が多く存在していることが分かります。
例えば、作中に登場する「救済」と呼ばれる宗教団体はドラゴンを至高の神として崇めていますが、実際には更に上位に位置する「界王」の存在が後に明かされています。また物語が進むにつれて、主人公は自分が何者なのか自問し、その末に「世界を統べる資格を持つ者」という自覚が生まれていました。
このように、主人公覚者は「自己の本質と真実の神」に辿り着いており、展開がグノーシスの思想に則っていることが理解できるはずです。

このとき「では、物語は異端とされた宗派を踏襲しているのか」という疑念が浮かんだはずです。そんな危険な試みを、果たして新規のIPでするものだろうかと。
これについては「救済」を取り仕切っていた人物エリシオンの顛末を知ることで、制作者の意図を定かにできます。

(由来となるElysionは、ギリシャ神話において「死後の楽園」を意味する)

世界は、そのありようを正しくしようともがき、それ自体が歪みに苦しんでいる。
正しく平常な世界とは、すべての魂がひとつの安定した状態に収まり、完全かつ普遍の存在へと昇華することだ。
ドラゴン、すなわち人の魂に等しく畏怖を与える存在こそが、この世界の襟を正そうとする修復機能の表れだ。人は、その魂を絶対の力を持つ裁定者、ドラゴンに預けなければならない。永劫の苦痛を逃れ、真にあるべき魂の平衡状態を求めるために、滅びの裁定を受け入れねばならない。

それは一見あきらめ、無責任な委ねに思える。だが違うのだ。人よ、恐れを避けるな、恐れを忌み嫌うな。畏怖こそが魂をの本質を詳らかにする。

クエスト『闇からの足音』

終末思想を持つエリシオンの証言は、魂(霊体)を賛美する点でグノーシス主義と合致しています。グノーシス主義には「肉体が魂を悪の世界と結びつけていて、真実の世界に到達するために霊になる必要がある」という主張が存在し、エリシオンも同様の二元論を唱えています。

本質を探究していることからも、エリシオンは作中におけるグノーシス主義の代弁者であることが理解できますが、しかし、最終的に彼は崇めていたドラゴンに踏み潰されて「その主張に意味はない」と直接的に信仰を一蹴されていました。つまり、作品世界における神はグノーシス主義に染まりきってはいないのです。

キリスト教とグノーシス主義。それぞれの思想がバランス感覚を保ちながら混然一体となったものが『ドラゴンズドグマ』において描かれる世界観であり、一方を正当化しようとする意図はないと考えていいでしょう。


余談ですが、キリスト教の教典においても蛇を良いものとして描く記述があります。ただ、これは悪魔の蛇とは区別して捉えられています。

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

『マタイの福音書』10章16–25節


永劫回帰で回る世界

・永劫回帰とは

界王が覚者を生み出し、覚者は界王となる。この無限の円環が描かれた理由を説明するためにも、「永劫回帰」について言及する必要があります。

永劫回帰とは、19世紀を生きた哲学者であるフリードリヒ・ニーチェが「この世界は同じことが延々と繰り返されている」とこの世のあり方を捉えた、その生涯の後期に抱いた思想です。
到達すべき目的地の無い永劫回帰は、全てを無駄だと考える虚無主義的な思考へ直結するきらいがある反面、こと思想においては繰り返しを受け入れたうえで、凡ゆるものを肯定できる力への意志を持つことが何より肝要だとしています。
(思想において、力への意志を持つとされる「超人」は鷹の勇気と蛇の知恵を持つ者と喩えられます)

仏教に感化されていたニーチェゆえの輪廻転生にも通づる思想は、死後の世界に救済を求めるキリスト教の価値観とは正反対のものです。彼の「神は死んだ」に代表される脱神話的な発言からも、これらの要素は対立しています。

ドラゴンズドグマでは、界王の継承が無限に繰り返されていたことが終盤において明かされ、同時に力への意志に符合する「生きる意志」という作品にとってのキーワードが複数回に渡って登場していました。


・シナリオ面からの解釈

困難に陥ってもなお抗う、生きることへの強い意志。それが界王を次ぐための条件であり、だからこそ界王は世界にドラゴンを遣わして、新たな覚者の到来を待つ。

物語上からも「生きる意志」が必要とされる理由が推測できます。
クエスト『界王として生きる』にて、プレイヤーは世界の安寧を見守る立場として、幽霊のようになりながら世界を孤独に彷徨いました。手を伸ばしても触れ合えない、終わりの見えない、神としての孤独は正気を蝕んでいきます。プレイヤーも擬似体験を通してこの苦痛を味わい、生きる意志が弱ければ発狂してしまうだろうことが想像できる造りになっていました。

そして、この苦痛から解放されるために神裁ちの剣リディルを自身に突き立ててしまえば、神の膝下での安寧は途絶えてしまいます。本編では、これを防ぐために生きる意志を試す試練として様々な困難が待ち受けていたわけです。

リディル(界王に死を与えられる唯一のアイテム)

実際に前界王であるサヴァンは、苦痛から逃れたい一心で主人公に介錯を要求していました。強い意志を持つはずの試練を乗り越えた者であっても、ずっとは続けられないんです。
世界は一人の犠牲によって長く安寧が保たれて、新たに相応しい身代わりが生まれた段階で一新される。そうした流れが、連綿と続いてゆく。

イエスが自己犠牲で人類全ての罪を背負ったように、界王は自己犠牲の果てに世界の安寧を願う存在と言えるのかもしれません。


伝えたかったこと

無為に生を受け入れる者たちに向けた
ドラゴンからの警鐘

最終的に、主人公はリディルをその胸に突き立てて、死を迎えたことで世界から安寧を奪っています。一見ネガティブにも受け取れてしまう展開ですが、エンディングにおけるセレナの台詞が、結末が前向きなものであることを仄めかしています。

少し話が逸れますが、私たちは人間である以上、自身の存在を肯定したいという本質的な願望が備わっています。時には他者を見下したり、または何かに傾倒したりすることで生じた、同一性をもった自己像を肯定的に捉えようとする性質です。「日本に生まれて良かった」という文言からも、その傾向が見られます。
こうした私が私で居て良い理由、自己肯定感ともいえるものは生きていく上で肝要で、これが弱まると精神が異常を生じてしまうこともあります。

こうした性質にのみ着目した際、「神」という存在は、どのように解釈できるでしょうか。
生死の概念を超越し、それでありながら上位の存在として君臨し続ける神を前にして、私たちは頭を垂れ続ける他ないことは明白です。神がいることで、人間に纏わる凡ゆることの価値が神未満であると決定づけられてしまいます。当然「生きる」ことの価値も相対的に下がるでしょう。

けれども、私たちは人間である以上、生きる自身を肯定しなくてはいけません。だからこそドラゴンズドグマにおいては、「生きる意志」がキーワードとして強調されていたのでしょう。

界王である主人公は、その身をリディルで貫いたことにより永遠を断ち切ります。
今後は、誰か一人を犠牲にし続ける必要もなくなり、また界王の不在によってドラゴンや龍識者のような、中途半端な不死も生まれなくなります。

相棒のメインポーンは、セレナ同様に完全にひとりの人間となったことがエンディングで明かされ、その他のポーンは三位一体の瓦解と共に消滅します。

これにより、世界からは「神・救世主・聖霊」の概念が消えて、ただ「生きるもの」だけが残ったことになります。
世界を維持するために必要だった、生きる意志。不死であるはずの神の陣営が、覚者にこれを要求するのはどこかおかしな話ですが、それこそが作品の伝えたかったメッセージであったとすれば納得できます。

主人公は全ての人間に、生きることへの強い意志が存在していることを期待しました。それは、旅の道中で出会った様々な人物に感化されたからかもしれません。
見守る神がいなくなても、自身の足で立って邁進する、純粋な生の世界を選びとった主人公は、最終的に死と無に端を発する永劫回帰すら否定せしめています。

二元論でもなければ、可能性に見切りをつけたりもしない。
ただ生きる。生きるために戦い抜くことを肯定するドラゴンズドグマは、生命を賛美した物語と言えるのではないでしょうか。


最後に

最終的に作品は、引用元である宗教と哲学を部分的に否定しています。裏を返せば、制作者はどの主張にも肩入れをするつもりがないことが分かります。
作品はフィクションであって、分野毎の造詣の深さが読み取れることは敬意の裏付けと言えるでしょう。また、神を否定しかねないストーリーラインを思いついたとして、教義をそのままに引用は出来ません。複数の要素を混ぜ合わせることは、反って誠実さの現れだと思えます。

とまあ、体裁を気にするのはここまでにして、果たして続編のストーリーは無印から地続きなのか、はたまた全く別の物語が繰り広げられるのか、今から楽しみですね。




・Twitterであげた考察

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