香港の抗議活動へ意見を述べることについて
抗議活動が始まって三ヶ月あまり、一連の活動に対して個人として意見を発することの難しさを感じている。香港、台湾を含めた中華世界は日本から眺めているよりもずっと複雑で(2012年の留学当時にも感じていたことだけど)私が単に香港好きの一個人として発言した言葉が思いもよらない軋轢を生むことがあることを覚えているから。(2011年、2012年、2014年と同じ間違いを何度も犯しましたから、えぇ)たった1年香港に滞在しただけでも色々な人たちと出会い、それぞれが異なる価値観を有していてそれが許され、受け入れられる場所だった。そして西欧のビジネスマンも日本の学生も、大陸からの移民たちもどこかに居場所がある、それが香港の一番の魅力だった。そして、今はそれが裏目に出ているとも言える。
60年代に文革から逃れてきた世代とその一家、80年代の比較的移民に慣用だった時代に移った人たち、そして90年代の新移民。どの時代に移ったかでも考え方、そして今後のために保有しているカード(パスポートの種類や海外の親戚など)が異なる。自分の友人たちの顔を思い浮かべても全員が全員違うことを言うだろう。
ルームメイトのAは実家が医者のお金持ちで香港に来たのはおじいさんの世代だった。典型的に成功してきた家族で、全員流暢な英語+αを操り、彼女も卒業後はイギリスの大学院へ進み、今は香港系カナダ人の夫とロンドンに住んでいる。今年でイギリスの永住権を獲得したらしい。おおらかで、私は彼女が大好きだったが、政治や大陸に対する視線は人一倍厳しかった。たぶん大陸中国に足を踏み入れたことは数えるほどしか無いのでは?ひとつ印象的だったのは、留学時代に飲茶へ一緒に行ったときのこと。香港人の一番大切にしている価値観はとにかく自由であることなのだと熱く語っていた。彼女の感じていた危機感は今、香港で実現してしまっている。今帰国したら彼女は香港をどう見るのだろう。
年末に実家へお邪魔したBは河南省出身の才女で、奨学金をもらって中文大学へ正規生として留学していた。彼女も語学堪能で普通話、広東語、英語、日本語を完璧に使いこなし、ほぼオールAで卒業して今はアメリカで働いている。スマートな彼女は在港中も絶対に香港社会や香港人を悪く言うことは無かった。しかし、中々香港社会に受け入れてもらえないと感じている悩みは聞いたことがあった。当時既に香港で3年間を過ごしていたが、未だに一度も飲茶へ行ったことがないと言っていた。彼女は今回の動きをどう見るだろうか。大陸出身の学生は当初香港を同胞と思って来港することが多かった。しかし実際は言葉も教育も異なり、香港社会に馴染めず大陸出身者で固まってしまうことは多い。卒業までに彼女が美味しい飲茶を食べる機会があったことを願うばかりだ。
香港滞在中一番仲良くしてくれたCはカナダからの帰国子女で、中華人民共和国香港、イギリス領香港、カナダとパスポートを3つ保有していた。80年代から90年代にかけて返還を避けるために多くの香港人がバンクーバーへ移民しており、彼女の家族もその決断をしたのだった。しかし2000年頃香港経済が落ち着き、10才の時に香港へ戻ってきて香港の中高大学を卒業した。元々海外志向が強く、在学中はイギリスへ留学し、卒業後はオーストラリアの学校を出ているが、3年前に会ったときに彼女は”私はやっぱり香港が好き。何だかんだで居心地が良いから香港で働くことにした”と話していた。香港に何かあったときに彼女の取れる策は多い。しかし彼女はそれを望んでいないし、今も誰よりも真剣に香港を守ろうとしている。映画好きで、読書家で、繊細な彼女のことなので、今回の一連のニュースには心を痛めているだろう。
一緒に中国を旅したDは中国南部の農村部出身で小学生の時に香港へ移住してきた、所謂新移民である。香港人として育ち、教育も香港で受けているが、未だに広東語については昔習得に苦労したことを覚えていた。普段は明るく話好きだったが、香中関係の話になると静かに引いていることが多かった。彼自身のアイデンティティについて直接尋ねたことはないが、彼の身近な親戚や友人は大陸にもいる。この問題を身近な人の顔をおもい浮かべずに過ごすことは難しいのではないだろうか。
他にも留学生として同じ寮で過ごしたABC(American Born in China)の子や、台湾からの留学生、日本の大学へ正規留学してから香港へ交換留学に来ていた子など、それぞれの出身や受けてきた教育、言語、世界中に広まる親戚関係が異なるのだ。そして彼らの政治観も様々だ。香港は政治的に自由な場所であったから、皆が共存できていた側面もあった。私は未だに香港は政治を語る場所としてかなりの障害を抱えた場所であると認識している。留学当時に書いた日記でも全く同じことを述べていたので載せておく。(文章若いな!あきこも私も笑)
//qot//
調景嶺(戦後植民地香港について)
香港の中国との国境付近に調景嶺っていう場所があるのね。そこは返還前まで台湾に渡れなかった国民党の人たちが暮らしていた村だったんだけど、返還と同時に政治的に中国に返還されるのに国民党の村があるのはまずいってことで取り壊されたんだって。ちなみに当時はこんな狭い香港にも関わらず、地下鉄もバスも通ってなくって船でしか行けなかったらしい。
で、この話を聞いて考えたんだけど結局香港ってさ、政治にほとんど関与できない地域だったんだよね、返還前までは。植民地だから民主主義国家英国嶺とは言っても参政権もないし、当然中国の政治の影響下には入らないしね。だからこそ香港には様々な思想、人種、バックグラウンドを持つ人が集まった。そして移民してきたり、駐在していた彼らはまだ自分の故郷があったからあまり他人の思想や政治観、人種や言語にはこだわらなかったんだと思うんだ。そして「仮の住処」と考える人たちが寄せ集まってありとあらゆるものを受け入れてきたから香港は混沌とし、ものすごいパワーを発揮してアジアの一大都市になった。東京と香港はそっくりだなんてよく言うけど、東京が整えられて洗練され、同質のものが集まることによりパワーを発揮していく都市だとしたら、香港は眞逆の意味でパワーを発揮していく都市だと思うんだよね。だけど、だんだん香港に根をおろして生活する人が増えてくる。移民2世(親世代)、3世(私たちの世代)の子たち。私のクラスメートの子たちの祖父母世代は結構中国から泳いで密入国してきた子たちが多い。笑 私の祖父も日本に密入国してんだけどさ、2世代前になるともう実感わかないんだよね、そういう話って。笑 そうすると今度は仮の住まいだったはずの香港が故郷になって香港アイデンテティが芽生える。香港は自分たちの国なんだから当然ある程度思想とか淘汰したくなるし、新しくきた中国の移民の人たちや大陸の人と自分は違うと思いたくなる。そうやって香港人はアイデンテティを確立しにかかったのかな。そこへきて中国への返還、政治上は中国の一部になったから中国の思想からあまりに外れているものは当然排除されていき、また香港人は中国との距離が近くなったことによってより自らのアイデンテティを確立しに躍起になる。っていう状況が今なのかなぁって思った。だからある意味じゃ70年代80年代の方が活気があって面白かった、今の香港はきれいすぎてつまらんって往年のバックパッカー(笑)が言うのもまぁそうなのかもしれない。でもこれは香港っていう都市を考える上で歩まざるを得ない道なんじゃないかなと留学2ヶ月目の私は思う。
で、最初の調景嶺の話で何が言いたかったのかと言うと、政治的に本当に自由でいろんな人を受け入れられる土地っていうのは、誰の故郷でもなくて(愛国心はときに邪魔になる、無関心の方が自由を確立しやすいのでは?)政治に関与できなくてある意味政治から最も遠い場所っていう矛盾と言うか皮肉なことが言えるんじゃないかなって考えた。(冷戦時代に西側は東の思想は受け入れなかったし、東もしかり。それに日本とかはそもそも移民自体受け入れない。香港はとりあえず中国から英国が租借しているっていう宙ぶらりんな状態)読みにくくてごめんよ:((
香港面白いとこいっぱいあるよ~
//unqot//
香港について日本人の一個人として発言することが、意図しない誰かを傷つけることになりかねない。私たちの純粋な香港頑張ってほしいという発言が複雑な中華世界にさざ波をたてる可能性もある。個人的には屈しないでほしい、頑張ってほしい、諦めないでほしい、心からそう思う。でもね、日本でそういう発言を大きな声でしている人って単に右翼で中国共産党と中国人観光客が気にくわないだけ、という人も結構いる。そこに取り込まれてもいけない。ただただ寛容な香港を維持してほしい、街並みや住民がいくら入れ替わっても、発展を追いかけて振り向かなくてもいいから、誰でも肯定して受け入れて何だかわからないけど面白い街にしてしまう、そのDNAだけは失わないでほしい。
私たちに何ができるのだろう?日本政府に毅然とした態度を要求すること?国際機関に訴えること?個人として中華世界に向けて発言するのは意図しない方向に向かいかねない。こんなに恩のある街なのに、無力さに悲しくなる。
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