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輝くいわし

 薄暗い寿司屋を思い浮かべられますか?

 暗い通路には、灯籠を模している落ち着いた間接照明がポツポツと灯っていて、出入口の花瓶に白い芍薬が差してある。壁には達筆で「誠」とか「清」とか書いた掛け軸が掛かっている。カウンターでは、真っ白な割烹着の職人が感じの良い微笑みで握っている、そんな上品な寿司屋……というのではない。

 まったくちがう。

  僕は2015年ごろに入った本当に薄暗い寿司屋の話をここに書こうとしている。あの寿司屋に入ったとき、「あ、こんな場所が普通に営業できるんだな」と感嘆してしまうタイプの薄暗さだったので、それを記録しておこうと思っている。

  どこか現実から脱落したような、閉鎖寸前の古い病院のような寿司屋である。もしかしたら本当に閉鎖寸前の古い病院で、たまたま回転寿司のレーンがあっただけかも知れない。

 しかし、僕はたしかにそこで現実の寿司を食べた。



 その日友達と回転寿司を食べに行こうということになって、国内の某店に決めた(店舗の名誉のために詳細はわからないようにしておきます)。たまには贅沢もいいよね、という気分である。雨上がりのどんよりした路地を縫って歩き、近くのラーメン屋の排気口から出る豚骨風の蒸気のなか歩きながら、楽しみでルンルン歩いた。


 その寿司屋を見つけて入る。

 店内は照明が消えかかっていた。天井にぶら下がっている蛍光灯が「ブ……ツ、ブ……ツ」と鳴っている。「ブ」で明かりがついて、「ツ」にいくにつれて消えていく。これを「ブ……ツ、ブ……ツ」と繰り返していた。照明が消える。点く。消えかかり……また点く。

 その薄暗い室内にレーンがあり、悲しそうに俯いている職人2人が立ち尽くしていた。両手をだらりと下げ、頭を垂れている。僕たちが入っても眉を少し顰めただけで動く気配がない。悲しみに慣れきっている職人2人は、自分の隣にもう一人職人がいるということも意識していないように見えた。

友達は案内も待たず席について、
「中トロ!白子!いか!」とかなんとか言ってウキウキしていた。歯を見せて笑い、カウンターに両手をついている。子供みたいだ。

 僕も遅れて席に着いた。そして、なんだか怖い場所だなと周囲を見渡してしまった。

 正直、店内は不気味だった。店内の壁はクリーム色をしているのだが、照明の点滅の按配で、クリーム色になったり緑色になったりしている。「ブ……」でクリーム色になって、少しずつ暗い「……ツ」へと移っていくにつれ緑色に褪せていくのだ。僕の椅子のはすかいには便所掃除用のモップがたてかけてあって、その臭いがした。衛生的な問題はないのだろうかと心配しながら、周囲を覗う。


 僕はとりあえずネギトロとかアジなんかを注文したと思う。あまりよく記憶していないけど、いつも他の寿司屋で頼んでいるネタだから。

「ネギトロをお願いします」

 寿司職人は、なにか眩しいものを見るような眼で「はい……?」と言った。しかし、どうやら特に疑問があるわけではないらしく、そのまま握り始めてくれた。顔も肩も動かさず、両手の先だけで寿司を握っている。眼がとろんとしていて、まるでゾーンに入っているみたいだが、僕は職人の心境まではあずかり知れない。


 出来上がった寿司は、ネギトロもアジもタコも赤貝も全部同じ味だった。たぶん目を瞑って食べたら魚なのか貝なのかわからない。魚の生臭さすらない。もしかしたらみんなスライムだったのかも知れない。しかし、恐怖で僕の舌がおかしくなっていたのかも知れない。

 シャリはドロッとしていて、とても冷たい。たとえが難しいのだけど、コンビニのおにぎりの米の輪郭を1度加熱して「おかゆ」にして、それをまた冷やし直したようなシャリだ。

(ちょっと……美味しくはないな……)

 友達はにこにこ食べているので、あんまりつまらなそうな顔しても悪い。僕はなるべく「美味しくない」というのを表情に出さず、この時間を乗り切ることに決めた。こういう1日もある。仕方ないじゃないか……。友達と一緒に贅沢しにきた機会を自分から無碍にはしたくなかった。

 しかしどんどん気持ち的には憂鬱になっていく。店はどんどん薄暗く、物憂げな色へと沈んでいく。相変わらず寿司職人は俯いたまま悲しそうにしている。

 さっきまで気づかなかったが、奥の座席に客が一人いる。巨大なサングラスと帽子をした年齢不詳の女が寿司を食べながら歯を磨いていた!。どうして客席で歯を磨いているのかわからないが、彼女は文字通り黄ばんだ歯を剥き出しにして、しゃこしゃこと音を立てている。そしてイカだかすじこだかを頬張って、咀嚼しながらブラシでまた歯を磨くのである。

 寿司職人もスタッフも女を注意する気配はない。

 相当に変な店を引いてしまったのだと思って、僕はどうにか気持ちを紛らわせる手段を探し始めたが、うまくいかない。こういう時にスマホがあれば気分転換に便利なのだろうけど、当時の僕はガラケー保持者で、ネットに接続はできない。友達に話しかけようにも楽しい話題は浮かばない。目の前に佇んでいる寿司職人の威圧感もあって、言葉は喉につっかえてしまう。

 僕はつとめて笑顔で「みる貝をお願いしたいんですけど、みる貝ってどんなのなんですか?」と聞く。

「どんなのって言われてもね……」

寿司職人はそっぽを向いて、歯磨きしている女をじっと見つめていた。

(ちょっと良くない店を引いてしまったのかな……)
 
 こういう時どうやって気持ちを晴らせばいいんだろうと思った時、素晴らしいアイデアが浮かんできた。

錯乱した頭の内に降臨した小説家H氏と精神科医N氏

 たしか小説家のH先生の言っていたことと、精神科医のN先生の本の内容がごっちゃになって一つの形を成した。こんな感じの言葉がパッと閃いたというように頭の内に去来した。

「暗い気持ちになったときこそ、「ラーハ」が支えてくれる時があります。皆さん、「ラーハ」をしましょう。苦しい時こそ文学的な、知的な話をするのです。トルコでは、「知的な無駄話」のことを「ラーハ」と呼んでいて、近所の人でも友人同士でも、みんながラーハをしているんですよ」という言葉が僕の頭の内に結実した。自分ではわからないが、眼を見開いたと思う。

 ラーハ、というのはトルコに伝わる雑談の形式のひとつだ。トルコ人は少しでも時間ができると知的な雑談≒ラーハをするという。喫茶店の客同士や病院のベンチなど、お茶を片手に雑談をする機会があればいつでもする習慣ができていて、その文化の豊かさを本を通じて僕は知ったのだった。


 そうか、こういう気まずい時はあえて衒学的な話をすればいいんだ。ラーハだ。政治とか歴史の話でもいい。とにかくラーハを始めればいいんだ。ラーハ万歳!

 そうだ、まず手始めに平野啓一郎の小説の話をしよう!
 そう思ってまず最近ちょっと読んだローティの「リベラル・アイロニー」の話をし、平野啓一郎の小説に出てくる登場人物の話に繋げた。

「分人4部作の最初の「決壊」は、平野啓一郎のキャリアを方向づけた傑作だよ。あそこに出てくるペシミスティックな悪役は、キリスト教を三位一体の概念から建築的な宗教だと説明する。実は、これが平野啓一郎の分人主義と拮抗する概念だ。そもその分人っていうのは……」

 僕の思いは届かなかった。

 そのあいだみる貝のようなイカとイカのようなみる貝が握り上がる。

 話しながら、僕は段々惨めになってきて、途中で口を噤んでしまった。
 友達はむぐむぐ食べながら「いわしも頼もうよ」と言う。彼はどうしてこんなに呑気なんだろうと思い、今日は1日憂鬱だと、もう一度言いかけた言葉を呑み込んだ。ラーハは敗北した。暗い気持ちになった時に文学の話なんかしても、余計に暗くなるだけだ。自分が勘違いで気障な人間に思えてくる。というか、実際にそうじゃないか……。

 どれだけ話をしたところで別に寿司が美味しくなるわけじゃない。今更いわしがなんだって言うんだと思いながらも、僕は2人分のいわしを注文した。

 いわしが来て、僕たちは口に運ぶ。

「なにこれ」

 信じられないことに、これまでのマイナスポイントを抹消するほどにいわしはとんでもなく美味しかった。シャリは相変わらずわけがわからないくらいドロドロなのだが、いわしの海で磨かれた味わい深さが舌に広がると、他のことはどうでもよくなった。しっかりのった脂が甘い。身もぴちぴちと締まっている。新鮮な渋みが口全体に広がって、さっきまで死んでいた舌が覚醒し、僕は感動のあまり泣きそうになった……とまで言ったら大袈裟だけれども、真剣に美味しかった。僕と友達は眼と眼を合わせて、自分たちの感動を確かめあった。

 僕たちはいわしをおかわりし、寿司職人に「ごちそうさまです」と頭を下げた。寿司職人は何も言わず悲しそうにじっとしている。僕たちの声が届いているのかはわからなかった。店の自動ドアが閉まっていく間、寿司職人はじっとこちらを見ていて、最後は暗闇に飲まれた。けど僕たちはいわしのおかげで気持ちよく店をあとにできた。

 今でもふとした時にあのいわしのことを思い出す。苦境にいても自分を潰さないで、少しでも周りを明るくしようと懸命に努力している働き手なんかを見た時に、「ああ、この人はいわしだよなぁ」と思う。

 僕は薄暗い寿司屋の雰囲気を少しでも明るくしようと無駄な話をした。頭の中だけでも幸せになろうと足掻いた。しかし、あのいわしさえあれば、他には何も要らなかった。

 どうしていわしだけがあんなに美味しかったのだろう?

 幾つかの謎が残る。寿司職人たちがずっと照明を放置してきたように、いわしもまた、ずっとあの場所で放置されてきたのだろうか?仮に、あの日に特別に取り寄せたいわしなのだとしたら?しかし、看板も広告もないのは不自然だ。

 あの現実から脱落したような薄暗い場所で、懸命に美味を保ってきたいわしのことを考えると、職人たちとの関係を考えてしまう。ネタとしてきちんと大切にされているのだろうか?照明が放置されているくらいだから、あまり気を払われていないのではないか。鮮度や切り方を工夫すればもっといわしは輝くのに、いわしのほうは、あそこでひたすら日々に耐えているのではないか。ネギトロやアジからは、あまりの美味しさに面白くないと僻まれてないか?あるいは、店のスターとして崇められているのか?僕はいわしのことを考えると励まされるけど、すこし切なくもなる。

 どん底に落ちても、眼を配ればどこかにいわしがいるかも知れない。都会の喧噪に埋もれそうでも、自分自身がいわしになって輝けるかも知れない。

 ヒートアップしてきたところで、もう筆をおくことにする。
 あのいわしは元気にしているだろうか。シャリがもう少し改善しているといいのだけれど。

いわし(写真はフリー素材です)


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