「料理」と「小説」の比較
「シェフの哲学」という本を読んでいたら、料理についてハッとするような訓辞が書いてありました。
「仕事を愛する料理人なら、自分が駆使できる調理法がどのようなものであれ、悲しみを感じさせるような料理を出すことだけは絶対にしない。画家であれば、作品を通じて自身の不安や世界に対する幻滅や自らの秘めたる狂気を伝える喜びを持つことができるが、料理人は作品に自分の気持ちをさらけ出すことは諦めなければならない」
この後の文章は、料理は世界を肯定する表現に終始していなければならないことと、そのためのシェフの地道な努力について細かく書いてありました。食材と食材の組み合わせについての考え方から調理法、それから産地に足を運んで食材のルーツを知っておくことの重要性などなど。
料理人は芸術家ではあるけれど、画家や小説家のように、精神的な狂気や憤りを作品にぶつけたりできないようです。ネガティブなものを撒き散らしてはならない責任のようなものがあって、それはさっきの引用にも表れています。性格的に破綻していたらレストランの経営なんてできないだろうし、なにより厭世的な空気をまとった料理は失敗とみなされるのでしょう。
あまり認めたくはないのですが、僕は何年も小説を書いていて、いくらでもネガティブなことを書けるとちょっと得意になっているところがあります。そこは、料理人の価値観と明らかに隔たっています。小説書きは殺人事件も書けるし、災害に病気に仕事の失敗、社会の矛盾も描こうと思えば描けるし、そこからスリルが生まれることもある。さらには登場人物が死んだとしても評価が上がる場合はあります。
だから小説とは違う分野であるシェフの仕事は素直に素晴らしいし、新鮮だと思いました。そうか、世界を肯定するのが料理なのか!と、啓蒙された気にさえなりました。料理が人を励ましたり癒したりする例は幾らでも挙がりそうだし、実際、日常を振り返ってみれば理解できます。異分野の人の話をもとに、自分の趣味や仕事と比較するのって面白いですよね。
けれど実は、ちょっとネガティブな料理を食べたい好奇心もあります。ネガティブだったり狂気を孕んでいたりしても、ちゃんとシェフのこだわりが充溢しているような料理です。「死者の怨念の味がするもつ煮込み」とか「10代の頃に、シェフが女の子にフラれた時の絶望をサッと表現したパスタ」とか、ちょっと食べたくなってしまうんだけど、これは物好きだろうかなぁ?
僕は批評家でも料理人でもないし、なんだかかなり偉そうなことを言っていて申し訳なく思っています。けれども、そういう変な料理って記憶に残るから、たまに食べて思い出として振り返りたいなぁ。