【小説】下駄箱という宝箱4

三枝さんの靴のにおいを嗅いだ翌日、僕の心は焦燥感と不安感でいっぱいになっていた。原因は言うまでもない、その行為を自習室でよく合う名前も知らない後輩の女の子に見られてしまったからだ。

僕はどうすればいいのか分からなかった。昨晩はよく寝ることができず、今日学校に行くことさえためらった。でも行かなければ、より悪い方向へことが運ぶ可能性もあった。

僕の不安の中には罪悪感があるように感じた。今まで散々女子たちの靴のにおいを嗅いでおきながら今更になって、悪いことをした、やってはいけないことだったんだという気持ちが芽生えてきた。

僕は朝の支度をする際中や登校中、重くナーバスな気持ちになっていた。朝学校に到着してすぐ、一年生の教室に行き、彼女を探して謝ろうかとも思った。しかし僕は彼女クラスだけでなく、名前すら知らないので、探すことは困難に思えた。そして、また昨日みたいな態度を取られた場合、その場で何と言えばいいのか考えつかなかった。

「なにをやっているんですか、先輩」

もう一度、同じようなフレーズが聞こえて、僕は学校の玄関に続く廊下に立っている彼女の方へ振り返った。そこには自習室でよく合うあの名前も知らない後輩がいた。初めて聞いた彼女の声は凛としていて、僕は頭の隅っこで彼女にとてもよく似合っている声だと思った。

しかし僕はすぐに現状を理解する。見られたのだ、この行為を。僕は手に持っていた、三枝さんの内履きの中敷きを、咄嗟に元に戻すように中に押し込んだ。

「ああ、いや、その…」

僕は焦りながらも、事前に考えていたこういったことになった時の対処法を口に出すことにした。

「ちょっと内履きが汚れたみたいで、掃除しようとしていたところなんだ」

「ふうん」

彼女はつかつかと玄関まで下りてきて、僕の近くに来て、僕が持っていた靴を見た。僕はとっさに踵部分に書いてある三枝さんの名前を手で隠す。

「この靴、先輩のじゃないですよね。小さすぎます」

それ以前の問題であった。僕は今までこの行為を行う際、靴を下駄箱から出すことはなかった。それは万が一誰かに目撃されたとき、下駄箱の掃除や靴の清掃を行っていたと言い訳できるからだ。また即座に下駄箱の蓋を閉めて、僕がどの下駄箱を開いていたら分からなくするという効果もあると思った。

しかし今は違う。僕は三枝さんの内履きに夢中になるあまり、その中敷きをとりだそうと下駄箱から内履きを取り出してしまった。明らかに僕がこの三枝さんの内履きに何かしようとしていたのは明白だろう。

ほとんど絶体絶命だった。彼女の目をチラッと確認すると、真っ直ぐじっと僕の顔をにらみつけていた。彼女は僕の次の言葉を待っているようだった。僕は最終手段として半分この行為を認めることになるが、それでも少しは理解されやすそうな言い訳をすることにした。

「気の迷いだったんだ、ごめん。三枝さんのことが好きで」

嘘は真実を混ぜるとうまくつくことができる。どこかで聞いたことがあった。僕が三枝さんのことが好きなのは、たぶん確かだろう。だから僕は無差別にクラス中の女子の靴のにおいを嗅いでいるわけではなく、ただ今日という日に、血迷って思い高ぶり、好きな三枝さんの靴にいたずらをしてしまったというストーリーが、人間味があり理解されやすいものではないかと考えた。

「気の迷い、ね」

彼女は口元に手をやり苦笑するように言った。

「ずいぶん好きな人が多いんですね先輩は」

僕は絶望した。先ほどまでは何とか逃げ切れるかもしれないとも思った。しかしそんなことはなかった。彼女は見ていたのだ、僕がいろいろな女子の靴のにおいを嗅いでいたことを。

僕は完全に言葉に詰まってしまった。でも少しでも現状を打破しようとあがいた。僕は手を伸ばしながら言った。

「いや、違うんだ」

「っ、近寄らないでください」

罵声とともに、近くにいた彼女がもと居た廊下の位置に戻る。そして、僕を睥睨しながら、早口で言い放った。

「明日、また自習室に来てください。話はそこで聞きます。あと早くその靴を戻してください。今の先輩の姿、本当にみっともないですよ」

昨日の記憶が何度もよみがえる。結局僕は途方に暮れながらも、その一日の授業をやり過ごし、放課後がやってきた。昨日彼女は、自習室に来いと僕に言った。それが何を意図しているかは分からない。僕は自習室に行かない選択肢もあると思った。このままあの行為を目撃されたことをなかったことにするのだ。そうして自習室に行くことも止めて、クラスの女子たちの靴のにおいを嗅ぐという行為自体をきっぱりとやめてしまえばいい。

確かにそういった選択肢もあるのである。でも、僕の足は自習室に向かっていた。昨日の彼女の言い回しを鑑みるに、たぶん彼女は何回も僕があの行為を行っているところを目撃しているのだろう。最悪の場合、写真や動画を取られているかもしれない。考えたくもないが、それを悪いように使われたら、一巻の終わりである。

故に僕は、彼女が待っているであろう自習室に向かわないわけにはいかなかった。ここでの交渉が最後の砦であると思った。少しでも彼女に許してもらえるように、少しでも彼女の心象を良くしなければいけなかった。

自分の中の決意を固めるために多少時間を使った僕は、いつも入る時間より少し遅れて自習室に到着した。意を決して自習室の中に入る。自習室の中には誰もいなかった。僕は少しほっとした。もうすでに彼女がいると思っていたので、緊張がひもがすこしだけ緩んだ。

僕は自習室に入る。なぜかいつもの廊下側の席に行く気にはなれず、僕は自習室の真ん中あたりの席に向かい、机に鞄を置いた。そしてそのまま着席するわけでもなく、後ろの机に腰を預けながら、彼女が来るのを待った。頭の中で開幕の会話を思い描きながら(しかしそれはほとんど形にならなかった)何かに集中していないと、この緊張感に押しつぶされそうだった。

幾分かの時間が過ぎ、もしかしたら彼女は来ないのではないかと思案したあたりで、自習室のドアが音を発した。ガラガラとドアが開き、そこから名前も知らない後輩の彼女が入ってきた。彼女は僕を一瞥すると、教室の前方、使われていない教卓がある位置に来るとそこに鞄を置いた。彼女もいつもの窓側の席に着く気はないらしい。

「ちゃんと来たんですね、先輩。もしかしたら来ないかもと思っていました」

凛とした声が部屋に響く。こんな状況ではあるが、彼女の雰囲気にとてもマッチした、綺麗な声だと思った。

「申し開きをさせてもらいたいんだ、君には悪いことをしたと思ってる」

「悪いこと? それは何のことですか」

彼女は軽く腕組みをして右の手を口元に持ってきた。何か不思議がっているような動作だが、それに演技味を感じ僕は少し怖くなった。

「いや、昨日僕が…していた行為を見ただろう。それで不快な思いをさせたと思って」

彼女は嘲るように言い放った。

「不快な思いをしているのは、先輩がにおいを嗅いでいた靴の持ち主の方の方でしょう? 自分の知らない間に自分の私物が他人の欲望を満たすために使われているなんて、知ったらどう思うでしょうか」

「欲望を、みたす…」

僕が行なっている行為が意味するところを彼女は分かっていた。僕はクラスの女子たちの靴を自分の欲求を満たすために、勝手に使用していた。彼女たちは好き好んで靴の中のにおいを嗅がれている分けではなかった。どちらかといえば、それは秘め事であり、他者には知られたくないことであったはずだ。

「そうです、先輩が行なっていたことは、相手が秘密にしたいことを勝手に暴いて、それで自分の欲望を満たす、獣のように獰猛な行いでしたよ。しかもその行為は靴を嗅ぐこと。 変態にもほどがありますね」

僕が人生で受けた罵倒の中で最大級のものだった。しかしここまではっきりと自分のしたことを並べられて、しかもそれが意味するところを自分でも理解できるためより一層僕はみじめになった。

「申し訳…ない…」

涙がにじむと共に、僕は情けない声で謝罪の言葉を述べた。こんなことを言ったって彼女の心象は良くならないことは分かっていた。しかしこの場にいることの辛さが、もう許してほしいという感情を伴って口に出た。

「だから、私に謝ってもらっても困ります。ただ先輩が今は反省していることは分かってますよ。でも私思うんです。たぶん先輩をこれで許したところで、またどこかで同じことをするんじゃないかって。」

「そ、そんなことは」

僕は鼻をすすりながら、答えた。

「そんなことあります。先輩知っていますか? 昨日先輩が靴のにおいを嗅いでいた時の表情…恍惚として全神経が靴を嗅ぐことに集中している感じ。あれは本能でやっている行為でしたよ。そして本能は今は理性で抑えられていいたとしても、いつかはまたが抑えられなくなるものです。変態な獣ですからね、先輩は」

僕は彼女の言葉をじっと聞いていた。僕が何か言える立場ではないことは分かっていた。でも彼女の言動に少しばかり腹も立っていた。僕のあの行為はそこまで悪いことだっただろうか。確かに嗅がせてもらってきた女子たちの秘密を僕は何の許しもなく暴いてしまったかもしれない。でもそれは彼女たちを無理やり脱がしたり、犯したりしているわけではない。彼女たちに実害なく、僕は僕だけでその行為を楽しんでいたのだ。それは似ているようで、明らかに違うものだと思った。

僕は少しだけ罪悪感以外の感情を手にし、その手にした怒りの感情をもって立ち向かおうと、少しだけ強い目線を彼女に向けた。そんな視線に彼女は気づいたようだった。

「ふうん、まだそんな顔するんですね、獣のくせに。わかりました、じゃあそこに座ってください。そして座ったら私が良いというまで絶対に動かないでくださいね」

彼女は、僕の左奥の席を指さした(そこはいつも彼女が使っている机だった)。僕は彼女の意図が読めなかったが、ここでの主導権は彼女にあるため、指示に従い彼女が指定した席まで移動し、腰を下ろした。

〈続く〉


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