【小説】下駄箱という宝箱8 (終)
「僕は…クラスメイトの靴のにおいを嗅いでいた、自分の欲望を満たすために」
僕がここまではっきり言うと思わなかったのだろうか、彼女の表情に怒りの割合が増え、少し顔が紅潮したようだった。
「気持ち悪い」
「本当に、申し訳ないことをしたと思ってる。だからもうしない、信じてほしい」
御堂さんとの関係を得た僕は、恐いものなしに思えた。僕は深々と頭を下げ、三枝さんに謝った。数秒間の間が生まれる。僕は今、好きだった同級生に自分のフェチズムを告白しているのだ。
「もうやらない保証がどこにあるの。あの時の室町くんは、なんというか…何かに取りつかれたみたいで、頭で抑えられるようなものじゃないように思ったけど」
御堂さんはそのことを「獣」と言った。三枝さんも同じようなことを感じていたらしい。自分では、(特に下駄箱でにおいを嗅いでいた時は)注意深く、他人に見られないよう周りを見ながら嗅いでいたつもりだったが、御堂さんと三枝さんの二人に見られてしまっていることから、それは僕の思い上がりだったのだと痛感した。
しかしながら、僕には三枝さんの意図が見えなかった。確かにここで、「もうしない」という約束に何の保証もない。でも他に何を言えばいいのだろうか。何を言えば三枝さんは満足してくれるのだろうか、見当がつかなかった。そしてその見当のつかなさは、僕を苛立たせた。
「でも、これ以上僕は何も言えない。謝ることしかできないし、もうしないと誓うことしかできない」
その苛立ちを含んだ応答に、一瞬三枝さんは怯んだのか悲しそうな表情をしたが、すぐにもとの怒りの表情に戻った。そしてひねり出すように言った。
「……なくして。その変な性癖を、なくして!」
なくする、僕のこの行為への情熱を、無にするということか。僕は、彼女の身勝手な願いにとても腹が立った。僕からその情熱を奪うことは、生きがいを奪うことであった。そしてその情熱は、誰かの勝手な願いによって、無にすることができるようなものではなかった。そんな権限は誰にもなかった。そんなことも分からないのかと、一目置いていた三枝さんに対し、その尊敬の意が崩れるのを感じた。
「なくするって…そんなの三枝さんに指示できるようなものじゃない。 確かに僕は…僕の欲望を満たしてくれる下駄箱が宝箱のように感じていた。でも、僕はそこで行っていた行為はもうしない、しないと約束することしかできない。それだけじゃ駄目なのか!」
「…駄目っ、駄目なのよ! なんで私の気持ちも考えてくれないの!? 私がどれだけあなたの行為を受け入れようとしたか…わからないでしょう!」
屋上に僕と三枝さんの声が風音と共に響く。
「でも無理だった。靴のにおいを嗅いで欲望を満たす…なんて、よくそんな気持ちの悪いこと堂々と言えるわね。いい人だって思ってたのに…好きだって想ってたのに、バカみたい…あんなのの見せられて! あんなの理解できるわけないじゃない!」
そして三枝さんは泣き出してしまった。僕は茫然としてしまい、何も言うことができなかった。目の前ので女の子に泣かれていること、その女の子は少し前まで恋焦がれていた人だったこと、そしてその人は僕のことを好きだったこと。状況による混乱と情報による混乱が重なった。しかしはっきりしているのは、彼女は僕の純粋な気持ちを理解はしてくれなかったということだ。三枝さんの嗚咽を聞きながら、僕は僕で酷くショックを受けていた。
僕は、どうすることもできなかった。ここで三枝さんに近づいて再び謝罪や慰めの言葉を言う勇気は僕になかったし、声をかけたとしても三枝さんに拒否されると思った。数分お互いの心を傷つけあう時間が続いた。
しばらくして三枝さんは泣き止むと、涙をぬぐい、赤くはれた目をこちらに向けた。僕はそれだけでさらにいたたまれなくなった。ごめん、と謝罪の言葉が自然と口から漏れる。彼女に届いたかどうかはわからない。
「もう、必要なこと以外は、しゃべりたくない」
三枝さんは、吐き出すように言うと、速足で僕の横を通り過ぎて、屋上を出ていった。追うべきだろうか。しかし彼女に追いついても何を話せばいいか分からなかった。僕はそのまま、立ち尽くしていた。屋上に通じる階段から、再び嗚咽が聞こえてきた。
*
それから数日後、僕が放課後に下駄箱で女子の靴のにおいを嗅いでいたことが、クラス中に知れ渡った。僕はクラスの女子たちとあまり仲良くなっていなかった男子からは敵視され、今まで仲が良かった男子からも微妙な距離感を取られるようになった。
特にバスケ部の宮野さんからは、「キモっ、ほんとにやめて変態」と直接暴言を吐かれた。クラスに居ることがとても苦しくなった。学校に行くこともつらくなった。でも、かろうじてクラスで踏ん張り、学校に来ることができるのは、御堂さんがいてくれるからだった。
放課後僕は、逃げるようにクラスを出ると、そのまま自習室に直行した。誰もいない自習室は、西日が差し込み、全体がオレンジ色に染まっているようだった。御堂さんは来ていなかった。最近は僕の方が早く来ることが多かった。そして僕は毎回御堂さんが今日も来てくれるか不安になった。僕のクラスでの状態を知り、関わりたくないと思われ、距離を置かれるのではないかと思った。
しばらくして自習室のドアが開く、御堂さんが入ってきた。そうすると僕はほっとする。御堂さんはいつも通り、僕の向かい合わせの席に座る(席は事前に動かしておいた)と、鞄を机の横にかけて、僕を見た。
「最近、心ここにあらずって感じですね、先輩。何かありましたか?」
僕は、悪い予感が当たったと思った。彼女は僕の状況を知っているないし感じていた。何か言葉で取り繕おうとしたが、最近のクラスでのつらい思いがあふれ出し、言葉を出す前に涙があふれてきてしまった。僕は彼女に罪を告白するように、三枝さんのこと、下駄箱での行為がばれたこと、クラスでの苦しい現状を吐き出すように話してしまった。
彼女は席に座ってじっと僕の話を聞いていた。僕が怒涛のように話し終わってからも、すこしの間黙ったままだった。
「こんなことになってしまって…ごめん」
僕は、後輩の彼女に自分の情けない現状をさらけ出してしまい、みじめになった。
「わたしに謝らないでください」
彼女はいつも通り、少し冷たい印象のある綺麗な声で、僕に言った。しかし、それなりに長く彼女と接しているため、その言葉が突き放すような言葉ではなく、こちらを慰める思いがこもっているということが僕にはわかった。
彼女が席を立つ。そして僕の隣に来る。いつぞやの、初めて御堂さんに靴のにおいを嗅がせてもらった時と同じようだった。そして彼女は立ったまま、僕の頭に手をまわし軽く抱いた。顔がおでこが御堂さんの胸に押し付けられる。心地よい暖かさを感じた。
「クラスの人がなんて言おうが関係ないじゃないですか」
頭をなででながら、囁くように彼女は僕をなだめてくれた。そして続けて言った。
「先輩、私は先輩の趣味をわかってあげられます。私も同じなんですよ。私も先輩のにおいが大好きです。自習室で顔を合わせるようになってからずっと思ってました。前は離れて座ってましたけど、それでも私は先輩からずっと良いにおいが漂ってくるなと思ってたんですよ。そして今も、先輩の頭からすごくいいにおいがします」
彼女は鼻を僕の髪に押し付けているようだった。
「先輩がどこのクラスでなんて名前なのか知りたかったんです。だから先輩はいつも決まった時間に帰るので、そのあとをついていけば分かると思ったんです。下駄箱の中の靴に書いてある名前を見ればね。そしたらなんですか、先輩は靴を出したと思ったら、そのにおいを嗅いでいるじゃないですか。驚きましたけど、先輩の顔を見てすぐに理解しました、私と同じだって。先輩もにおいが大好きな人なんだって」
御堂さんは僕の頭に押し付けていた鼻から、思いっきり息を吸った。口から喘ぎ声にも似た吐息が漏れる。
「でも先輩には他人のにおいじゃなくて、私のにおいも嗅いでもらいたかった。私がこんなに良いにおいと思う人だから、先輩もそう感じるんじゃないかって思ったんです。でも私は、あまり汗をかかないし、友達にも全然におわないと言われるので、先輩の好きなにおいが出せるか心配でもありました。どうしたら先輩が夢中になるにおいを私が出せるかって考えて、だから準備が必要でした」
「準…備?」
「はい、準備です。先輩に初めて靴のにおいを嗅いでもらった日は、確か同じ靴下を三日連続で履いて臨みました。それくらいしないと先輩の望んでいるにおいにならないと思ったんです。そして私は無理やり先輩に靴を嗅がせました。でもそうしたら予想は的中、先輩は無我夢中で私のにおいを嗅いでくれたんです」
彼女は嬉しそうに言った。抱きしめていた腕を緩めて、僕が御堂さんを見上げられるようにした。御堂さんの目を見た。彼女の目はまるで獲物を目の前にした爬虫類のようにねちっこく僕を見ていた。
「先輩は私の靴を嗅ぐと、達しちゃいますよね。でもそのにおいを嗅ぐと私も達しちゃうんです」
彼女は、お揃いですねと笑った。僕も彼女の告白を聞きながら、再び涙が出てきそうになった。僕からも彼女に抱き着いた。
「私はこれから先輩のいろんな部分のにおいを嗅がせてもらいたい。そのかわり私も先輩にいろんなところを嗅がせてあげます。あまりにおいが強くない私ですが、足と同じくらいのにおいがする場所もきっとあると思います。そして最後には私と先輩のにおいを混ぜ合わせてどんなにおいがするのか嗅いでみたい。先輩もそう思いませんか?」
僕も彼女のいろいろな部位のにおいを嗅いでみたかった。それは膝裏であり、臍であり、胸であり、腋であり、そして陰部だった。たぶん僕らはお互い裸になり、体を絡め合わせながらお互いのにおいの強い部分を嗅ぎ合うだろう。そしてその過程でセックスもするだろう。そうすれば彼女の言う、僕のにおいと彼女のにおいが交じり合う、素晴らしい体験ができるに違いないと思った。
僕は顔を上げ、彼女の顔を向いてうなずいた。それを見て御堂さんは嬉しそうに破顔して、僕の口にそっと唇をつけた。
〈終〉