ダメ人間友の会の集いだっつーの!!!
【1998年2月4日(晴)中国:麗江】
麗江はとても良い街だ。背中に北斗七星を抱く納西族の標高2500mにある蒼い街である。
大理から更に北のヒマラヤ山脈へミニバスで5時間のところにある高原の街である。
ちょうど二年前の1996年の2月3日に直下型の大地震がきて古い町並みが全壊してしまったけれども、現在では高速道路が通っていて3時間弱で行くけるようになってしまい、すっかり観光地になってしまって、カフェとゲストハウスで溢れかえり【大理古城化】してしまったが、当時はまだ中心の四方街近辺は良い雰囲気が流れてるのどかな古き良き街であった。
もちろん世界遺産だ。
当時、麗江のカフェといえば昔のバックパッカーの拠点があった新市街のホテルの近くにある「アリババカフェ」、「ピーターズカフェ」であり、後は旧市街の中にある白人好みのオープンカフェの「ママフーズ」であった。
だがしかし、1998年から始まった麗江カフェ戦国時代初期【美味しいアップルパイは何処だ?戦役】に、旧市街中心の四方街側に「さくらカフェ」なる納西族の旦那と韓国人の奥さんがオープンさせた和食のレストランが参入してきたというので「ヨッシャいっちょ揉んでやるか。なぁ山岡くん。」とばかりにみんなで集って食べに行った事がある。
しかし運の悪いことに、和食レストランの宝庫であった大理からやってきた我々「美食倶楽部」の面々にとっては「さくらカフェ」のどの和食メニューもあまりにも不味くて、各々激怒し不買運動を起こそうとする事態になりつつもあった。
だって生姜焼き定食を頼んだら肉が全て串にささって千切りキャベツの上に2本乗っかって出てきたんだもの。
何か間違っている。誰が教えたのだろう?しかも鶏肉だった。やきとりなのか?しかも生姜味?
つーか韓国人なんだから韓国料理出せばいいのに。
あの時は激怒のうちに我々はカフェを後にした。
しかし現在では「さくらカフェ」は美味しい麗江カフェの老舗として、今ではゲストハウスまで手広く成功している。私としてはみんなであの時「不味いよ!」と言って帰った時の、悲しくて悔しそうな韓国人の奥さんの顔が今でも思い出せる。
負けずに頑張ってよかったね。
私のお気に入りは「阿一旦カフェ」という木漏れ日の気持ちいい落ち着いたカフェだった。
ここで大理などで出会った友人を待っていたり、のんびり日記やエアメールを書いたりしていた。当時はインターネットなんか何処にも無くて、旅の時間は無限にあった。
無職はいいものだ。
その良さは無職になってみないと分からない。
その良さは既に大理古城でいつも食事にみんなで行っても、自然と留学生&学生のテーブルと、無職&不良社会人のテーブルと分かれてしまう事でも伺い知れる。
更に無職の旅人については昼間から観光もせず、テーブルの上に並んでいるビール瓶の数を競い合ってたりする。夢に溢れた学生たちと相容れないのは決して会社を辞めて宛ての無い旅に出てきた負け犬同士の傷の舐めあいとか、慰めあいとか、めぐりあい宇宙とかではない。
そんなある晩に「こっちはダメ人間専用のテーブルだね」と誰かがなんとなしに言った。
私の頭に浮かんだのは筋肉少女帯の「踊るダメ人間」ダメ、ダメ、ダメ、ダメ人間~ダメ!人間~人間~♪であるが、それについては同じテーブルに座っていた〇乳好きの友人が大槻ケンヂに似ている事にも関係があると睨んでいる。
そんなダメ人間のメンバーを私は麗江でカフェでのんびり待っていた。
空は何処までも蒼く、すぐそこまでヒマラヤが迫って見える。
【1998年2月8日(晴)中国:麗江】
いきなりであるが海外旅行のスタイルを大まかに2つに分けてみる事にしよう。
まずは大カテゴリーとして「豪華で荘厳なパッケージツアー(①)」と、「華麗で勇敢な自由旅行(②)」がある。
例を挙げると「修学旅行」や「集団結婚式」は①に、「迷子」や「飛び込み営業」は②に当てはまる。
さらに読んでる方々に関係有りそうな「華麗で勇敢な自由旅行者(②)」だけに強引にスポットを当ててみてみると、「ランアンドガン型短期旅行(②-Ⅰ)」と、「ゾーンディフェンス型長期旅行(②-Ⅱ)」に分類されている事に懸命な旅行者の方々ならすぐ気づくことだろう。
ちなみに長期旅行の人々は勘違いしているようだが、二週間以上の旅行は十分長期である。
いつもの事ではあるが、長期は短期に対して馬鹿にした言葉使いをしないように今後十分気をつけるように。短期も長期を哀れんだり、鼻で笑ったりしたりしないように。はいっ!いがみ合いは今日までにしてお互いに握手!
そんでもって「ゾーンディフェンス型長期旅行者(②-Ⅱ)」にさらにズームインすると、「一ヶ所に一週間以上滞在できない高機動型移動者(②-Ⅱ-壱)」と、「目的の希薄な潜水艦型滞在者(②-Ⅱ-弐)」とわけられる。
同じ宿に泊まっていても両者は、あまりの速度の違いにお互い未確認のまま離れてしまう事もしばしばである。
また「目的の希薄な潜水艦型滞在者(②-Ⅱ-弐)」を、さらに細かくカテゴリーを別けると、タイ好き、酒好き、梵好き(おっと)、ボブ好き(サップでは無い)、インド好き、プロレス好きに大まかに別けられるという。
今回はそんな「②-Ⅱ-弐式呑んだくれ型モビルアーマー」についての軽い話だ。(上記全て前置き)
大理で一緒に遊んでいた坊主頭の女性と麗江にて合流した。私と同じ年齢で、これから南下して半年かけて陸路でインドを目指す予定だと聞いていた。
「インドでサリーを買う予定なの。」
南下して陸路でインドへ行けますか?
「マレーシアのマラッカからインドへ行く船に乗る予定なの。」
ほうほう、それは良い情報を聞いた。でもそんな船ありますか?
「いや聞いた話なんだけど、、、。」
まぁバンコクあたりまで降りれば情報はあるかと思われ。
「いや、本だったかな?沢木耕太郎、、、。」
はぁ、、、それはガイドブックとかでは無いのでわ、、、(汗)。
そんな会話を昼食後、私が泊まっていた納西族式住居形式の「三合飯店」の中庭でしていた。そんな会話の最中に彼女がちびちび飲んでいたペットボトルの水が「白酒(アルコール度数60)」であったことに気づくのはまだ先のことである。
麗江滞在も一週間ほど経つと、あれほど楽しかった散歩にも飽きてきたので、真面目な留学生旅行者に見つからないように遠くのカフェで、彼女と、後日彼女の旦那になる大槻ケンヂ似(当時)の友人と昼間から鬼畜トークを肴に呑んだくれていた。
彼女らは基本的に酒の飲めない国は行かないと決めている筋金入りの無頼派酔っ払いである。しかもタチが悪い。記憶ぶっ飛び迷子ちゃん系である。(よく考えてみると私の周りには酒癖のよい女友達は皆無だが。)
基本的に私はタバコも吸わないし、酒も強くないのだが、そんな彼らに負けじと鬼畜トークのみで奴らに喰らいつきついでにブッ千切ってやった。
ある夜、そんな3人で中華を食べに町に出た。流石に連日のカフェ飯は高くて飽きていた頃だ。
20人くらい入る食堂には、私達三人と中国人二人だけでのんびり食べていた、、、が、いきなり30人くらいの白族(大理の少数民族)の団体が食事になだれこんで来た。
つーか席足りねぇよ。
いきなり食堂の中では私達が圧倒的に少数民族になってしまった。
、、、嫌な予感がする。
そして何の余韻もなく、白族の団体様方は料理が出てくる待ち時間の間に 誰となく民族歌を歌い始めアッという間に漣のように大合唱になってしまった。しかも大合唱は一度では終わらなかった。
白族の団体様方は、ひと合唱終わる度に私達の方の反応を窺ってきて、そのたびに私達も「好!好!」とか調子の良いことを言って間をつないでいたが、どうやら違うらしい。お気に召していない様子だ。
、、、やっぱり俺らも歌わなきゃダメッスか?
つーか食堂の店員も笑って見てねぇで、早く奴らの飯持って来い。
結局私は「北国の春」を歌って許してもらい、他の二人もそれぞれ歌って席を立つことを許された。
というか、白族の団体様方の食事が全員分運ばれてくる前に大理に戻るバスがやってきたらしく、サクッと先に帰ってしまった。
おい、歌を歌いにきただけかよ。
旅では何時、何処で、何が起こるかわからない。「持ち歌のひとつくらいは旅に出る前に準備しておけ」とガイドブックにも明記しておくべきだろう。
今回これで最後に奴らから「じゃぁ一人50元づつになります。」とか言われていたら目も当てられないところであった。
そうやって、いつの間にか「ダメ人間友の会」の1号~3号までが集うようになっていた。