何処までも蒼く続く。
【1998年2月17日(晴/曇)中国:ジョンディエン】
麗江の街から、バスで北に5時間の所にある標高3300mの町ジョンディエン(中甸)。今では名前が変わってシャングリラ(香格里拉)なんて電気なグルーヴのある名前に変わってしまったが、ここは紛れも無くチベットの東の入り口のひとつだ。空は低く、空気はとても乾いている。
実はこの地域一帯はマツタケの産地なので夏から秋にかけてはマツタケ市場が賑わいをみせる。日本で一本7000円くらいはしそうなマツタケが1000円程で買える。
、、、だが今は真冬。
2月のこんな寒い時期にこんな所に迷い込む旅行者もいない。
街には我ら4人の日本人ツーリストしかいないようだ。テレビでは冬季長野オリンピックをやっている。すっかりそんなショボいイベントの事は忘れていた。
ジョンディエンに集った4人の日本人ツーリスト全員は、まぁ既に麗江でトグロを巻いていた「ダメ人間」のメンツで。虎跳峡に一緒に行ったY君、M女史と、他にY坊という黙っていればなかなか綺麗な埼玉県人の女性であった。綺麗な女性ではあったが足が臭いのが欠点である。しかも、もう大人なのに無類の海老好きである事をこんなところでアピられても困る。
、、、今日は泊まっている「チベットホテル(永生飯店)」の目の前から3路のバスに乗って町の北はずれにあるチベット寺の松賛林寺に散歩に出かけた。Y君と、Y坊はチベット語を操れるのでこんな時には便利だ。
「タシデレ!(チベット語で『んちゃ!』の意味)」
農閑期で観光時期でも無いために暇そうなお寺では、修行僧から飲みたくも無いバター茶を振舞ってもらったり、私は修行中の小坊主が覚えたての自慢げにお経を聞かせてくれたので、お返しに得意げにオカリナを吹いてあげたりした。
なかなか楽しいひと時であったが、そんなお寺からの帰りに私はミニバスの中で財布を落としてしまった。バスを降りた直後で気がつき慌ててミニバスを追いかけたが追いつくはずもなく、あっというまにミニバスは見えなくなった。
まぁ財布の中にはその日に使うお金しか入っていなかったが、自分の間抜けさに町中を呪いたくなった。トボトボと町を歩いてホテルに戻ってから、この苛立ちをみんなに愚痴ってぶちまけて八つ当たりしてスッキリしようと思っていた。
「ウェイ!!!ウェイ!?リーベン!」
、、、トボトボと町を歩いて帰る私に声をかけるのは誰だ?リーベンって日本って事だよな。後ろを振り向くと何故かミニバスが戻ってきていて、車掌が「この財布はお前のだろ?」と私に財布を渡し終えると「去!(GO!)」と言って走り去ってしまった。
「トジェチェ!!!(ありがとの意味)」
走り去るミニバスに大きく叫んで手を振ると、車掌と運転手も窓から手を振ってくれた。何かを好きになるにはこんな出来事で充分。その残ったお金で帰りに、ドラム缶で焼いているホカホカの石焼き芋を買って食べて帰った。
見上げると、、、重く灰色の雲の切れ間から見える空の色は、何処までも何処までも蒼かったように思う。
、、、さて、1ヶ月も一緒にいたこのメンツの中で私が先頭を切って明日の朝一番で麗江に戻る。それぞれの旅の再開だ。私はこれから一路南下して4月中旬のタイの「水かけ祭(ソンクラーン)」を目指す事にしている。
M女史は、明後日にやはりベトナムを目指し南下するという。彼女とは4月末にタイはバンコクのカオサンロードで落ち合おうと約束する。
Y坊は、この後に一度麗江に戻ってくるという。一緒に「ルーグー湖」と呼ばれる神秘の湖を見に行こうと約束した。その後にはチベットに行くらしい。
Y君は、3月にジョンディエンの近郊にある納西族の東巴文化発祥の地「白水台」でのお祭りを見るために、しばらくココに滞在するという。 こんな寂しいところで後一ヶ月も独りっきりで?彼もその後チベットを目指す。
チベットを目指す2人には、1998年の年末にインドはバラナシで再会しようと約束した。
、、、当時はインターネットカフェなんか殆ど無くて、そんな宛ての無い約束を辿りながら旅をみんなしていたように思う。
当然、会えない人にはどんなに約束しても会えない。同じ宿に泊まっていようと会うことは出来ない。
だから絶対に会いたい人がいるのなら、色んなアンテナを最大限に広げておく必要があるだろう。
ある日突然、知らない旅行者から旅の友達の無事の便りを受け取ったりする事もある。
知人が通り過ぎた後のゲストハウスやレストランのメッセージボードから、自分宛てのメッセージを拾い集めたりもする。
そんなノートの切れ端のような物ですら、まるでジグソーパズルの欠片を集めるように大事に日記に挟み込んだりした。
そんな風に、その瞬間の色んなものを精一杯刻み込もうとしている人は今も変わらずにいて。
――― だから私達は今も確かにココにいる。