徒然なるままに。
【1998年1月24日(晴)中国:昆明】
中国雲南省。南にベトナム、ラオス、ミャンマー、西にチベットが隣接する秘境である。
と、知らない人には思われがちだが省都の昆明は大都会だ。1998年時点では新宿まで都会ではないが、少なくとも町田や尼崎よりは都会である。
4日後に控えた「旧正月」のため街は帰省する中国人で溢れかえっていたし、私が泊まっている「昆湖飯店」は春休みのな時期で日本人ツーリストや留学生で賑わっていた。
私はそんな中、何をするわけでもなくダラダラと次の月曜日を待っていた。何故か?また色恋がらみか?
のんのん。「ラオスVISA」の発行待ちである。
おぉ!異国にいるのに、さらにそこから別の異国に旅するための許可を貰う。これこそ旅人冥利を極めりりりである。
これを読んでいて「なーんだ、普通じゃん。」と、思われた旅人がいるかもしれないが、当時の私にとってはこれは魅惑の初体験であった。
今まではVISAのいらない国とか、国境でVISAをくれる国とか、日本で前もってVISAを取得していくとかしかやった事がなかった。当時はまだ日本人はラオスVISAを取得する必要があった。いよいよ長期旅行者臭がしてきたぞ。ふっふっふ。
ちなみに昆明には、ミャンマーとラオスの領事館が「茶花賓館」というホテルの一室に在る。何故ホテル内の一室なのかは知らないが在る。ホテルの一室だなんて、、、危険な香りがする。
そーそー、いつも大使館や領事館にいくと思うのだが、サンダル、短パンと屋台に行く格好のままで訪れている旅行者に出会う。私は大人なのでいきなり説教したりはしないが、やはりそんな姿には賛同できかねる。あくまで公的機関なのだから礼服とまではいかなくても綺麗な格好で訪問したい。無職で彼女がいないならなおさらだ。
しかもVISA取得のためであるならば、入国の許可を貰いに行くのだから、その国の方々の心象を良くしておくに越した事はないだろう。それが縁で王族と結婚とかあるかもしれないのだ。
というか公的機関に行く際にでも、だらしない格好しか出来ない奴は本来パスポートを発給してはならないと思う。そんな奴らが原因で、国交が不安定になり戦争にまで発展するケースは最近珍しくないとか、なくないとか、なくなくないとか。
ラオス領事館に行く朝、私はシャワーを浴びて髭を剃り、新しい下着に着替えて「茶花賓館」を目指した。こんな私でも初体験とはドキドキと甘酸っぱいものだ。
いきなり「うふふ、貴方はいれてあげないわ」とか甘く言われたりしないだろうか。念のために財布の中には書類用の証明写真を4枚をこっそり忍ばせている。初体験の時は、あせって破いてしまったりする事があるので4枚くらいは用意しておいたほうが良いと思われる。4枚くらいはチェリーの方なら一晩で軽く消費してしまうだろう(おっと)。●5点
日本人用ラオスVISA:$35/1Week(1998年当時)
、、、高くね?
一緒に行ったアメリカ人は$25で一ヶ月のVISAをなんなく貰っていたぞ。
納得がいかん。俺のやり方がマズかったのか?
しかも「外貨落とさなくていいからとっとと出ろよの【トランジットVISA】」ではないか。
日本はODAとかでアジアへ国際貢献しまくってたのではないか?ソニー、トヨタ、ミツビシの魔力は無効化されているのか?やっぱり白人の方が優しくて大きいからか?自分さえ良ければ俺は傷ついても良いのか?
フクゾウ、またしても白人に惨敗である。
初体験は誰しも小さな痛みを残す。でも、その方が人には優しくできるものだ。
そんな少し落ち込んだ私を見かねてか、優しそうな顔をした領事館の係官は優しく声をかけてくれた。
「君はラオス国内で働いたりしないだろうね」
、、、?はぁ?あーほーかーぁ!てめぇの国で働いて月に何ぼほど稼げるっちゅーねん!?なめんなよ!見よ!日本で国民年金も一度も滞納せず、ミラクル教育旅行添乗員として京都奈良を駆け抜けたこの俺の魂を!生き様を!!!パスポートを人質に取っているからといって俺様が大人しく「YES」としか言えない日本人だと思うなよ!あっ!この場合は「YES」って言っちゃダメか、いやそんな事はどうでもいい。
でも係官が手にしている、私の提出した書類の職業の欄にはしっかり自分で「no job」って書いてたりして。
いやいや旅とは油断ならないものだ。ごめんなさい。
「では来週の月曜日にVISAが発給されるので渡した控えを忘れないように持ってきて下さい。」
はいはい。
「その時にパスポートはお返しします。」
ほんとは、そんなに怒ってはないんです。
「OK?」
日本人だけVISA代がね、聞いてます?
はぁ。
でもラオスと違って日本は海がたくさんあるから悔しくないもんね。
余談ではあるが、学生ではない長期旅行者の皆様は、VISA取得や入国の際の書類の職業の欄には何と記入しているのだろう? 「無職」と書いて上記のような質問を喰らい、「じゃぁ何で無職なのに旅行が出来るんだ?結婚は?」などと、両親でも気を使って聞けない事を延々と係官に説明する羽目になってしまうのはラオスに限っての事ではない。だからといって以前の職種を書くのも、自分から辞めてきたくせにいつまでも未練タラタラのようで気が引ける。
旅人のなかには職業の欄に「マジシャン」とか適当に書いたために、イミグレーションオフィスで手品をやれと強要されてた友人は自業自得だとしても、 本職がブレイクダンサーであるために「ダンサー」と書いたら、案の定「踊って見せてくれ」と言われ イミグレの前で快く踊ったら大ウケして、そのまま一番偉い係官の前に連れて行かれまた踊らされ、「今晩、村中の人間を集めるから」と、その夜「コンサート」までも開かれてしまった友人については天晴れである。そのダンサーの友人はその何も無い国境の村に英雄として5日間も滞在していたらしい。
私はと言うと、ここ数年は職業の欄に「Shop Keeper」と書いている。これにしてから特に何か係官に問われたことはない。
意味は「店主」という事だが別に意味はない。当然本職は「店主」でも「亭主」でも「ティッシュ」でもない。あえて格好つけるなら、「俺様」という店の俺マスターというところであろう。ふっふっふ。本来なら職業「海賊」と記入したいところだが、面倒なことになりかねないので控えている。
だけど時間も、金も、学生より持っていてプラプラしてるのに、いい年して職業「学生」と書くのは何か失礼な気がして、あえて書かないように私は心に決めている。
【1998年1月26日(晴)中国:昆明】
雨上がりの午後。
古い映画の様に 冬の陽が差し込む部屋の窓ぎわのベットの上であの人は、本を読みながら歌を小さく歌っている。
洗濯が終わった僕はベットの上でゴロゴロと暇を持て余し、光の粒が弾けるあの人の輪郭に見とれていた。
そんな僕に気がついたあの人はこっちを睨み、少し頬を膨らませて、少し照れたように笑う。
穏やかな空気。
優しい時間。
幸せだった。
そして、幸せすぎて途中でこれは夢だと気がついた。
それでも幸せだった。
幸せなまま目が覚めた。
私は良く夢を見る。あまりに夢を良く見るので、旅行中はなるべく日記に見た夢を書くようにしている。
おかげで、他人が読んでも何がなんだか分からない内容の日記が全体の四分の一を占めるくらいになってしまった。
読み返してみると、だいたいにおいて上記のように楽しそうな夢は見ていない。
「旅夢日記」はともかく、旅に出たら毎日とは言わないけど日記くらい書いたほうが良いと思う。
人の記憶と言うのは実に曖昧で自分に都合がいいため、後日他人とのツジツマ合わせには苦労させられる。
その時には日記が役に立ったり、立たなかったりする。
それ以外で日記を読み返したりする事は 私はめったにない。
基本的に思い出に引き篭もったりする趣味はない。
また他人の話で申し訳ないが、「旅未来日記」をつけている長期旅行者の友人もいた。ノートの上半分に一ヵ月後の日記を前もって書いておき、当日になってノートの下半分に本当の日記を記す。やっている意味は把握しかねるけど面白そうなので読ませて貰った事があるが、ちょうど一ヵ月後のページの上半分に「、、、今朝、ようやく〇〇へ到着した。朝早くなのに駅にはフクゾウさんが迎えに来ていてびっくりした、、、」と書いてあった。「あほかーっ。何勝手に俺の旅の予定まで組み込んでんねん?!〇〇なんかに行かねぇっつーの!しかも早朝出迎えだぁ?」と、とりあえず突っ込んでおいた。今思えば、読ませて貰った事自体が罠であったように思われる。
まったくどいつもこいつも油断ならない。
本日ようやくラオスVISAが昼過ぎに出来上がる。貰ったらその足で昆明の北西400kmにある古都「大理」に夜行バスで向かう予定だ。明後日の「春節(旧正月)」の「白熱大爆竹バトル in DALI(大理)1998」には間に合いそうだ。
何年も昔から噂に名高い中国でのヒッピーの聖地「大理」。
昆明ですれ違った留学生たちには「ダーリーズには注意してくださいね。」と何度も念を押された。ダーリーズとな?いったい如何様なものなのか?楽しみだ。
大理では美味しい和食も食べられると聞く。それがなにより楽しみだ。昆明では、ホテル周辺のツーリストカフェでしか食事をしなかった。主にピザ。あれほど輝いていた中華料理に少々飽きていたのだ。あれほど輝いて見えたのは油でギトギトに炒めてあったからだ。
昆明の街は1999年に開催される「世界花の博覧会」の準備で高速道路や、鉄道をどんどん作っている最中だ。そんな大都会にも少々飽きてきたので田舎でまたまたのんびり昼からビールとかにしようと思う。
既に街のどこか遠くでで新年を祝う爆竹の響く音が聞こえる。