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読みやすい文章はどう書くか

ありがたいことに、僕の書く文章は読みやすいと言ってもらえることが多い。
全然そんな話をしていない友人からも「実はnote読んでるんだよね」と言ってもらえることが度々ある。
正直自分では大して他の文章ともそんなに差があるとは思っていないのだが、実際様々な界隈の友人からそういった声をかけてもらえている。
と、いうことはあながち全部が全部世辞でもないのだろうと少し真に受けてみて、今回は文章を書く上で気を付けていることなんかをアウトプットしてみようと思う。
以下、一部本文をそのまま例に充てて、実際にどういう形で文章を推敲しているのかを記す。
修正前は一発書きした文章で、そこから色々と手を加えたのが修正後である。相違点は太字にしてみた。

--修正前
僕が文章を書く上で一番気を遣っているのは「語呂と語感」である
例えば文章を何個か続ける時に、同じ文末を重ねないようにしたりだ。
それが効果的な場面ももちろんあるのだが、狙ってやるのとそうなってしまうのでは雲泥の差がある。
文末以外にも、僕は自分で書く文章を常に頭の中で音読しながら記述している。
次に書くことを迷っている時には無意識的に直前の文章を何度も脳内で読み返している。
そうすると、音に変換した時に流れが滑らかでない文章が出てくるのである。
そういうところが見つかったら単語を別のものに置き換えてみたり、比喩表現を削ってみたり、接続詞を変えるために単語の位置を入れ替えたりしてみる。
最終的に音として読んだ時に流れが良くなれば解決である。

--修正後
僕が文章を書く上で一番気を遣っているのは「語呂と語感」
例えば文章を何個か続ける時に、同じ文末を重ねないようにしたりすることがそれにあたる。
もちろんそれが効果的な場面もあるのだが、狙ってやるのと意図せずそうなってしまうのでは雲泥の差がある。
文末だけではない。僕は自分で書く文章を常に頭の中で音読しながら記述している。
次に書くことを迷っている時には無意識的に直前の文章を何度も脳内で読み返している。
すると、音に変換した時に流れが滑らかでない箇所がだんだんと浮かんでくるのである。
が見つかったら単語を別のものに置き換えてみたり、比喩表現を削ってみたり、接続詞を変えるために単語の位置を入れ替えたりしてみる。
最終的に脳内で読んだ時に流れが良くなればその文は解決である。

こうして文をカスタマイズしていると、更に前後の文との関係性が変わってくるので、それらも芋づる式に順次直していく。
つまり僕は文章を書いている時に頭の中を文章として絶えずアウトプットすることと並行して過去の文章の推敲をすることを絶え間なく反復しているのだ。
我ながら意味不明なことをしている。
とにかく、文章を音として捉えるのは結構効果的なのかもしれないと感じている。
特に僕は本を読むことをライフワークとしているので、目と頭で文章を追うことにはかなり慣れている。
自分の中に何となくしっくりくる言葉の流れがあってそれをテンプレートとして使っているのかもしれない。
多くの場合人は文章を脳内で音読して取り込むので、そこでの躓きがない方が読みやすいという感覚になるのだろう。

逆に言えば、文章内の語彙や文自体の構成には僕は全くと言っていいほど気を遣っていない
文の書かれる順番はほとんどが僕の脳内から思考がこぼれた順番そのままであり、語彙もその場で浮かんだものを節操なくぶち込んでいるだけである。
ターゲットにしている読者とか、読み取りやすい構成とか、そういったものは一切ない。
僕の思考は飛び石的にワープするので前後が繋がっているように見えて実は繋がっていないということも珍しくはない。
だから読みやすさそのものにはそれらはあまり関わっていないのかもしれない。

反面、文章全体を理解させたいと思うのであれば構成に気を遣うことは必須と言える。
ご存じの通り僕の文章は大半だ毒にも薬にもならない益体のないものであり、読むことそれ自体が娯楽になっているような文だ。
だから別にセンテンス全体から何かを学び取る作りにもなっていないし、一本筋の通ったテーマがある訳でもない。
僕が語りたいと思ったテーマが最初にあって、あとは僕の脳内が勝手にアウトプットをしていっただけのものである。
学び取ろうという姿勢で読むとどうしてもわからないところで止まったりすることが多くなる。
だが、僕の文章ではそういうところがない。何を言っているのかわからなければ飛ばしたっていいし、実際何割かは何を言っているのかわからないだろう。何を隠そう俺だってわからない
裏を返せばそういう「構えて読む必要がない」という事実というか雰囲気そのものが読みやすさの一助ということもあるかもしれない。

その他に気を付けているのは結構一般的な部分だ。
例えば一文の中で主体がごちゃ混ぜになっていないか、とか並列して挙げる要素はきちんときちんと並列のものとして成り立っているかなどだ。
文の集合自体にはこだわりはないが、文そのものの構成はとても気にしている。僕の頭の中にすんなりと入ってくる形が必須なのだ。
書きたいことがある文章ではないので、読んでいる最中の感覚が一番重要である。
料理の栄養は気にしていないが味は重視する、みたいなものだろうか。
あとは句読点、特に読点は位置に気を付けている。
読点の位置が一単語分ずれるだけで文の印象はかなり変わる。入れるか入れないかも重要だ。
入れないがために冗長な文章になる場合もあるし、逆に入れたがためにテンポの悪いぶつ切りの文章になる場合もある。
この辺も音読の感覚で適当に入れていることが多い。

また、これは直接的な文章のテクニックではないが、僕は意図してインプットは多めに取るようにしている。
文章を書くことは大好きだが、アウトプットばかりではきっといつか歪んでくるような気がする。ネタがなくなるとかそういう表層的なことばかりではなく、インプットがなくなると自分の中の文章の物差しがずれそうな感覚があるのだ。
本を読むことだけでなく、人と話すことも重要なインプットだ。
会話を重ねる中で、テンポのいい文章や単語の組み合わせなどをなんとなく吸収している気がする。
覚えた新しい語彙を使い、言語化が難しい話題を積極的に言語化してみるのもいい。
僕自身は話す時と書く時では頭を使っている箇所が全く違う感覚があるが、それらが相互の作用として繋がっている実感はある。
会話は作文の役に立ち、作文は会話の役に立つのだ。

あとは比喩表現、これも結構扱いが難しい。
会話でも例え話はセンスが問われるものであるのは周知の事実であるかと思うが、文章も同じである。
いきなり別の話に飛んで、そこからまた帰ってくる。そのめんどくさい過程の中で元の話の理解を助けるエッセンスを差し込んでいないと例え話として機能しないのである。そう考えると難しさが何となくわかるだろう。
僕のアウトプットの仕様上、文章の中に例え話が差し込まれるのは比較的珍しい。理解させようとしていないから入る余地がないのだ。
ただ、この内容をどう表現しよう……と考えた上で入ることならたまにある。
もしくは「お、良い例え思いついたし使ったろ」という場合だ。
この文で言うと上にある料理云々のくだりである。
これは「摂取しようとする中身」「摂取する瞬間の感覚」をより身近なもので表現しようとして料理という比喩が浮かんだので挟み込んだものである。
実際にわかりやすいのかどうかは知らない。

また、文章は会話と違いタイミングを選べないという点が大きい。
会話の場合はその時の流れや雰囲気、そういったものを加味して言葉を選ぶことが重要になるが、逆に言えばそこがわかればかなり省エネで行うことが出来る。
面白いジョークがあるのではなくジョークが面白いタイミングがあるだけ、というのは至言だと思う。
反面、文章というのは書き手と受け手の間に時間的な開きが特に大きい。
書き手が忘れているくらい前のものでも読み手にとっては「今」なのだ。
だからなるべく前提条件をフラットにして普遍的な論理をベースに組み立てていくことが重要でもある。僕が文章を好きなのはそういう組み立て方が性に合っているからかもしれない。
会話では特に対面だと主語がなくてもある程度は成り立つが、文章でそれをやると途端に破綻してしまう。
多くの人が無意識的に行っていることだとは思うが、今一度考えて意識してみるのも面白いと思う。

さて、相も変わらずまとまりがなくなってきたのでこの辺りにする。
散々書いておいてなんだが、文章なんか下手でも伝わる
一番重要なのは書いて、それを表に出すことだ。
僕は他人の文章を読むのが大好きなのでみんなアウトプットする習慣が付けばいいのにな、とずっと思っている。
是非みんなの文章を読ませてほしい。

以上、リコでした。

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