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星座になれたら 一考察

最終話、泣きました。
全話通して見て、アルバムを無限リピートしていたら案の定「星座になれたら」のオタクと化したので今回はこの曲の考察をつらつらと書き連ねていきたいと思う。
ただの個人の感想なので自身の思想と異なっていた時にはスルーするのが吉だ。断定している文の最後には「と思う」をそれぞれ補完してくれ。

さて、この「星座になれたら」は一般的にはひとりから喜多ちゃんに向けた歌であるとされている。
確かにあからさまなセンテンスが数々あるのでそれも無理からぬ事である。
しかし僕は、ただ単にそれだけの歌ではないと考えるようになった。いや、ぼ喜多の歌ではあるのだが、ひとりから喜多ちゃんに向けた歌であると同時にお互いの視点からお互いに向けた歌であったり、または結束バンドという共同体に向けた歌だったり、とも考えている。
頭から順番に述べていこう。

もうすぐ時計は6時
もうそこに一番星
影を踏んで夜に紛れたくなる帰り道

出だしは帰り道の情景から始まる。
いきなり時刻が出てくる、そして星を主題にしたJロックというと何よりもまずBUMP OF CHICKENの天体観測が浮かぶ。オマージュとまで言っていいのかわからないが、何かしらの意図はありそうだ。
さてそれは置いておくとして、午後6時とはいったいどこの情景だろうか。
バイト帰りか、バイトの無い日の練習帰りだろうか。STARRYはチケット販売が17時からであり、ライブ後は20時を越えているような描写がいくつかあるためバイトの日ではないだろう。
同じく放課後に集まって練習をしたとして6時に解散は少し早いような気もするが、まぁ部活のようなものと考えればそこまで不自然ではなさそうでもある。ひとりは家遠いしね。という訳で順当に練習帰りとしてみよう。
少し先取りする形になるが、2番の出だしは"もうすぐ時計は8時"である。
これを同一人物の異なる時間、と捉えるか異なる人物の同じ日、と考えるかで方向性が変わってくる。
今回はこれを後者として見てみよう。つまり、1番は練習を終えて家に帰る途中の喜多ちゃんの視点という訳だ。
そしてそれを決める根拠となるのは、設定された作詞者でもある。
この詞はご存知の通りヒグチアイさんによるものであるが、作中ではひとりが書いた詞でもある。今回は一旦作詞者をヒグチアイさんにして考えてみる。
即ちこれは「ひとりが書いた結束バンドの曲」ではなく「ぼっち・ざ・ろっくの劇中歌として書かれた曲」として読み込むという事だ。
以上の前提で進めてみよう。
夜に紛れたくなる、というのはみんなと分かれて独りになってしまった時の心情描写かもしれない。一人では何もできない、という自己イメージを喜多ちゃんは恐らく自分に対して持っている。

どんなに探してみても
一つしかない星
何億光年離れたところからあんなに輝く

これは喜多ちゃん視点の物語と仮定しているのでここも喜多ちゃん視点だ。
となると星はひとりの事だ。一つしかない、というのはひとりの強烈なギタリストとしての個性と、磨かれた技術を指している。
人と合わせる事ばかりが得意で自分という形が曖昧だという自己像を持つ喜多ちゃんにとってそれらは何億光年離れたところにあり、しかしまぶしい程に輝いている。

いいな君は
みんなから愛されて
「いいや僕はずっと一人きりさ」

ここは「」があるという事で視点外の人物からの返答と捉えることが出来る。
この場合回答者はひとりだろう。
みんなから愛されて、というのはバンド仲間と考えるのが自然だろうか。最終話での喜多ちゃんの「人と合わせるのは得意なんだけどね」や、9話での「冬休みはバンドのみんなだけで遊ぼう」という発言や、3話で吐露したバンドへの憧れを察するに、喜多ちゃんはバンドの繋がりを学校での友人達の繋がりよりも一段深いものとして捉えている。
そんな喜多ちゃんにとってひとりは自分を再びその結束バンドという場所に連れてきてくれた人で、尚且つヒーローとして数々のバンドの窮地を救った中心人物となっていて、それらに対しての羨望があるのは間違いないだろう。もしかしたら一度逃げ出した、という負い目はまだ残っているのかもしれない。
それに対してのひとりの回答は案の定というか、予期できるものだ。ひとりにとっては自分が受け入れられているという肯定感は以前よりも実感できるようにはなっているとは思うが、だからと言ってみんなから愛されている事をそうですと首肯できるほど享受できてもいない。

君と集まって星座になれたら
星降る夜 一瞬の願い事
きらめいてゆらめいて震えてるシグナル
君と集まって星座になれたら
空見上げて指を差されるような
繋いだ線解かないで
僕がどんなに眩しくても

ここでの君、はひとりだけともバンド仲間みんなとも読める。
きらめくのもゆらめくのも震えているのも、どちらの余地がある。
星座、という文からするとややバンド仲間の方が優勢だろうか。しかし最後の文はひとりに向けた言葉である方が妥当なように思う。やや「ひとり向け」寄りかもしれない。
最後の"僕がどんなに眩しくても"というのはこれは直球で、喜多ちゃん自身もひとりに無いものを持っていて憧れられているのはわかっているのだと思う。
でも、ひとりの強みはそこではないのだ。自分だって合わせるのが得意なだけで、それは別にすごくもなんともない。
だから例えあなたから見て眩しくてもこの繋がりを絶たないで、と言っているのだろう。

もうすぐ時計は8時
夜空に満天の星
何億光年離れたところにはもうないかもしれない

さて、2番に移るとこちらは8時。
下北沢から恐らくひとりの家がある金沢八景までは電車で1時間半くらいのようだし本人も片道2時間と言っているので、こちらはひとりの帰り道の途中という訳だ。
ひとり側に満天の星、がある意味については考察が不足している。単に時間経過を表すものかもしれないし、他に意味が潜んでいるかもしれない。
離れたところにはもうないかもしれない、というのは出会えたことが偶然という事や、未来は不確定だという悲観を指しているのだろう。ひとりにとって結束バンドとの出会いは他力本願の手段を取る事でしか出来なかった中で何とか手に出来た繋がりである。
また、ひとり自身のネガティブな未来予想ではバンド自体がなくなっている描写ばかりなので、「ずっと続いてほしいけどそうなるとは限らない」という気持ちは常にあるのだろう。

月が綺麗で泣きそうになるのは
いつの日にか別れが来るから

ここの歌詞もひとりらしくペシミスト感が出ている。
きらきらと輝いていて、自分には分不相応な出会いだからこそ、別れの時を考えずにはいられない。上に書いた不安がそのまま出ている。
ここはひとりの心情そのままの言葉と捉えて良いだろう。
リョウに背中を押された事はひとりの中にしっかりと残っていて、ひとりの気持ちそのままとして描かれているように見える。

君と集まって星座になれたら
彗星みたい流れるひとりごと
消えていく残像は真夜中のプリズム
君と集まって星座になれたら
切なる願い誰かに届いたら
変われるかな 夜の淵をなぞるようなこんな僕でも

すぐに消えてしまう彗星のようなこぼれてしまったひとりごと、消えていく残像などどれをとっても実体の曖昧としたものであるのはひとりの投影している自己像のように思える。
プリズム、という言葉から考えるなら消えていく残像というのは今一瞬のバンドの姿、と考えてもいいかも知れない。
発する一音一音も、お客さんの前でやるライブも、全てはすぐ側から消えて行ってしまう。まだ作品を残すような形でない「バンド」という繋がりのその儚さと輝きを歌ったものと考えるのもあながち間違いではないだろう。
切なる願い、というのは君と集まって星座になりたい、という願いだろうか。
これも見方によるがバンド仲間と取るのか喜多ちゃんと取るのかは割と委ねられているようにも見える。
最後の"夜の淵をなぞるような"は初めて聴いた時感動するよりも先に唸ってしまった。一生かかっても生み出せないフレーズな気がする。
星座になった星々が輝く夜空のほんの端っこにいて何とかついていこうとする自分が、みんなと繋がることが出来たら輝く星座に変わっていくことが出来るのだろうか。
ここに来て、「星座になれたら」というタイトルが急に意味を持って迫ってくる
僕はこのフレーズでこの曲にやられた。

遥か彼方 僕らは出会ってしまった
カルマだから 何度も出会ってしまうよ
雲の隙間で

ここはあからさまに入っているフレーズがある種のファンサービスでもある。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「遥か彼方」、BUMP OF CHICKENの「カルマ」。アジカンは論ずるまでもないが、冒頭の天体観測から察するにカルマの方も恐らくそういう意図であろう。
そして、"雲の隙間"というフレーズはひとりと喜多ちゃんの接点、晴れ渡る空である喜多ちゃんと曇天であるひとりが唯一の接点となる場所を表している。
2人の対称的でありながら非対称である関係性をこの4文字の言葉で表せるのは称賛しか出てこない。素晴らしい。

君と集まって星座になれたら
夜広げて描こう絵空事
暗闇を照らすような満月じゃなくても
だから集まって星座になりたい
色とりどりの光放つような
繋いだ線解かないよ
君がどんなに眩しくても

夜を広げて描く絵空事、は未来の出来事だろうか。この4人で、もっと大きくなっていきたい。そんな夢を4人なら見られる、そういう願いが込められているのかもしれない。
最後は繰り返されたフレーズが「なりたい」とはっきり願いになっている。
4人で、色とりどりの光を放つ、それこそプリズムのような集まりになりたい。そういう希望が込められている。
最後の最後で、星座になった自分たちはもうこの繋がりを離さない、それぞれがみんな違っていても、例え繋がっていられる時間が一瞬だったとしても、みんながどれだけ輝いていても、星座になっている今を離さないように。という言葉で締められている。

以上が僕の思う「星座になれたら」だ。
完成度の高い曲にこれだけの要素を詰め込んでいて、尚且つ耳触りの良いこの歌詞の完成度は異常である。
僕はこの詞で一気にヒグチアイさんという人のファンになった。
そしてこの曲は恐らく、「後藤ひとり作詞」としても違和感のない歌詞に仕上がっていると思われる。今回1番は喜多ちゃん視点と読んだが、これは帰路につくひとりの心情の移り変わり、即ち帰りながらこの詞を考えた、という形でも読み解けそうだと考えた。
というか恐らくはそちらの方が主流だったりしないだろうか。これに関しては他の考察を読んでいないのでわからないが。

そして今回この文を書きながらずっと僕の頭の中に浮かんでいた曲がBUMP OF CHICKENの「三ツ星カルテット」だ。
知らない方がいたら聴いてほしい。自分以外の3人を星と見立てた4人の曲だ。
4人の繋がりを歌ったこの歌は、星座になれたらを通じて発見した結束バンドの姿にも通ずるものがある。

星座になれたらという曲は一見するとぼ喜多の歌であり、確かにその要素も多いのだが、その底には結束バンドという形への信頼や望みが見えるし、最後の方は完全に4人の歌に聴こえる。
ひとりから結束バンドへ、という解釈もひとりから喜多ちゃんへ、という解釈も、喜多ちゃんからひとりへ、という解釈も出来る。好きなように解釈しよう。

ヒグチアイさんではなくひとりが作詞をしているという視点からの歌詞考察も書こうと思っていたのだが、そっちは何故か書いていたらSSになってしまった。
リンクを貼っておくのでもしよかったらこっちも読んでほしい。
https://note.com/fest4816/n/n5937b739af65

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