学校×NVC なんか誤解されがち

NVC(非暴力コミュニケーション、共感的コミュニケーション)とも呼ばれるものがある。私は多様性関連、感情・情緒の関連で知った。最近は、聞いたことがあるという人も少なくないかもしれない。

 その中のアクティビティに、共感サークルと呼ばれるものがある。感情とその奥にある願いを、自分自身で、また他の人の力も借りながらみつめるもの。
 すごく誤解されがちなのだが、ここでいう「共感」は、「あーワカル―」「そういうことあるよねー」というものではない。聞き手の経験やジャッジやらアドバイスやらは乗せずに、話し手が何を感じているのか、話し手の感情や、その奥にある願いに、ひたすら耳を傾ける。単なる傾聴とも違う。話し手本人も自分を探るけど、聞き手も体で感じながら聴く。話し手本人が気づかなかった、言葉でつかんでいなかったところを、聞き手が差し出すことがある。個人的には、このアクティビティは、「みんなの力を借りて自己理解を深める」というほうが近いようにも感じている。

 1人が、心の動いたエピソードを話す。聞いていた人たちは、どんな感情になったかを、目で心で体で聴いて推測し、話し手に伝える。口頭で伝えることもあれば、感情の言葉が書かれたカードを差し出すこともある。話し手は自分の体でその感情があったかを感じながら確認していく。聞き手は、ジャッジやアドバイスなく、ただただ感情をニーズを聴きとり伝える。聞き手が感じ取ってくれた感情が、自覚していなかったけれども実は自分の中にあった、という体験をすることがある。それは自分では無意識に抑圧している部分という場合もあって、その瞬間の「ドキッ」は、心臓が文字通り射抜かれたり、鳥肌が立ったり、やっとのことで泣けてきたりと、また身体で感じるものになる。自分自身よりも他者が自分を分かってくれること、他者を通じて自己を理解していくことのおもしろさ、こうしてつながる温かさがある。

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 先日、学校の先生方向けにNVCを紹介するような講座があった。その中で、界隈では有名な活動的な先生が言った。
 「私は生徒に対して感情を推測して差し出すことはしません。生徒は、自分の中にその感情がなくても『ああ、言われてみればあるかもしれない』と誤認してしまう可能性があるから」

 この先生が言うことは分からないでもない。
 自分の感情がわかりづらい子は、「ああもしかしたら、その感情あるかもな」と、「先生」の言葉に流される可能性は大いにあると思う。私自身が自分の感情にフタをしてき続けた人間だから、よく分かる。その子その子の特性、性質、性格によるところもとても大きいし、安易に推測して差し出すことが危ない可能性があるというのは、特別支援的な視点がある人ならなおさらかもしれない。
子どもが関係性をフラットに捉えていない場合は、「先生が言ってるし、そうなのかもな」とさえ思わせてしまうかもしれない。先生っていうのは、先生本人にそのつもりがなくても、自覚するよりも重めの圧をかけてしまうことがある。プロセスワークでいう「ランク」概念だと思う。それを自覚していますのでなおのこと、私は子どもに感情を推測して差し出したりしません、と、言っているのだと理解した。同時に、やっぱり誤解されやすいな、伝わりにくいな、とも。

必ずしも聞き手が推測しなくても、自分自身でカードやポスター、リストを見ながら、自分の感情はどうだったかを探れたらそれも良いと思う。それでも私は、推測して差し出し合う活動もできるとなお良いとおもっている。そこに至っていないと感じるのであれば、急にはできなくても地道にスモールステップで、自分の感情を探る練習をしていけばいい。特性的にどうしても難しい場合は無理やりにとはいわないけど。。

 自分の感情を探る練習の例として思いつくままに挙げてみると
①     実際に起きた出来事に対して、快・不快のどちらかを自分で示す。
大勢の子どもたちでやるのもおもしろいと思う。好き嫌い、いい・いや、その表示だけしておいて、お題に対して自分ならどのあたりか動く、みたいな。
②     表示は2つのまま、グラデーション状に、たとえば「どっちかといえばイヤ寄り」みたいな位置にいられるようにする。
③     快・不快を3段階、5段階、、、のようにしていって、どのあたりかを自分で示せるようになる。2年生は不快の5段階くらいから始めてちょうどよかった体感。
④     感情を、4つ、8つ…と増やしていく。喜・楽、哀・怒、驚、…。
たとえば「楽しい」と聞いたら楽しい時の顔をする、お互いに顔を見合う、など。音声や文字よりも簡易的な表情の絵や色がしっくりくる場合はそちらを使うか併用。どのケースにどの感情に「なりがちか」は人によって違うので例示に適さないと思うけど、場合によっては絵も使えると思っている。
⑤     年齢が3年生以上くらいなら、お題を聞いてどの程度の怒りを感じるか、1つのスケールに4~5人で自分の怒りの程度を示すあたりに消しゴムを置くような簡易的なワークも楽しい。
⑥     身体の感覚のどこで感じるか
⑦     身体のどこがどんなかんじか
⑧     身体でその感情を表現してみる
⑨     感情の語彙をもっと増やしていく

 あと、感情を推測する練習の例。
① 上記のように快・不快から始めてもいいと思う。エピソードを聞いて・簡易的な劇化、ロールプレイ、それを演じる・観ることを通じて、想像することに慣れる。「同じだったね」の時もあってもいいけど、「あー人によって違ったね」が日常的になっていくのが大切だと思う。
  ② さらに、教師自身がエピソードを語り、教師の感情を子どもに推測してもらうのもいいと思う。「その感情はあった」「ああ、言われてみるとその感情もある」「それはあんまりないかも」など、自分の心と体に聴きながら答える姿を見せ続ける。「こうして表現していいものなんだな」「自分の場合はどうかな」と慣れていくように日常的に行う。

 突然やるのではなくて、上記のような下準備的な(でも大切な)ことを1~2年くらいじっくりやってみてからなら、感情を推測して差し出し合う活動もできるんじゃないかな、あのつながりかたの良さを感じることができるのではないかな。そのつながりは教師と子どもの、また子どもどうしの関係基盤を作ると思うし、学級経営や教科学習の基盤としてとても有効にはたらくのではないかな。
(全員にとはいわないけど、、。それでもなお感情のあたりは触れるのが難しい子もいると思うからそれは目の前の子に応じて、その子をよく知る方の判断で接するのがいいとは思う。)

感情について、表現や伝達について、愛着、コミュニケーションについて、自分が山ほど悩んだから、苦手な方の子の苦手感には寄り添いやすいのかもしれない。いくらでも手立てが思いつく。

共感サークルの良さを感じてくれる人がひとりでもふえるといいなとも思ったのでした。


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