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私たちの個人情報は盗まれている?

神から授かった本当の自分

私たちは誰でも、神から授かった本当の自分でこの世に生まれてきました。
本来の強くて美しい罪のない本来の自分です。
ところが、この世に生まれるや否や、意識する以前に親、兄弟、先生たちやら、自分と関わった人たちと接するうちに自分がまだまだ未熟な存在だと、周りに迷惑をかけてしまう役立たずな存在だと思わされることになります。世の中は危険がいっぱいで、気をつけないといけない場所だと思うのです。時間の経過とともに、そのような信念を持ち、本来の強く美しい自分に仮面を被り別の誰かとして生きていくようになっているというのです。
なるほど・・自分は何か足りない、価値のない自分という漠然とした感覚がこのように身についていくのですね。

宮殿と王女

幼い頃に誘拐された王女が、盗賊の一味と暮らしていた話があります。
盗賊の荒んだ暮らしに慣れた王女でしたが、数年後、王の召使が王女を発見し、宮殿に連れ戻されます。王と王女はたいそう喜び、彼女は盛大に迎えられ息をのむような絶景の広がる部屋へ通されました。そこには豪華なベッド、色とりどりの花々、香が炊かれた芳しい香りが漂っています。
いつでも、呼べるように召使が控えています。ところが王宮でのはじめての夜、どうしても眠ることができず、彼女は「家に返して!」と泣き叫んだのです。
本来、生まれながらに持っていた気品、富、王位などは彼女の権利なの
ですが、貧しい暮らしが当たり前になっていた彼女は宮殿を自分の家とは思えなかったのでした。

「当たり前」と「生まれつき」

「当たり前」と「生まれつき」は似て非なるものだと説いています。
私たちが「当たり前」にしている、名前、年齢、住所、性格や、身長や体重、そして、仕事、人間関係、通帳の残高、病歴などこれらは本当の自分ではないそうです。世の中の人がこの「わたし」を特定するための属性は「生まれつき」つまり本当の自分とは違うというのです。
私たちは、生まれてからの経験、見聞きした出来事から自分という存在を定義づけしていくようになり。
一方、「生まれつき」つまり神から授かった本当の自分は欠けたところのない完全な存在です。
ACIM(A in Miracles)はその生まれつきの存在として神が見るのと同じ視点で自分自身を見つめることを助けてくれます。

潜在意識は現実と想像の区別がつかない?!

心理学者によれば、潜在意識はマインドにイメージが植えつけられると、それが事実でも作り話でも実際に起こった出来事として捉えるそうです。
そのイメージに感情が伴うとなおさらそれは強化されます。
スポーツ選手がイメージトレーニングをすることが当たり前になっていることにも頷けます。これは、ポジティブなイメージを使った例ですが、反して自分自身に関する、あらゆるウソを真に受けた潜在意識は自分や世の中のネガティブなところを強調することになります。
経済状況、仕事、恋愛、健康など、人生における重要な分野で、こうしたウソに振り回されたら、疲れ果ててしまうことになります。
しかし、あなたが目にしているあたかも本当に見える状況は巨大な幻想の元に成り立っているのです。とても多くの人が多くの分野でその幻想に賛同して、それにしたがって生きているのでまるで現実のように見えてしまうのです。どうすれば私たちはこの幻想から抜け出すことができるのでしょうか。

うちへ帰ろう

このフレーズはACIMの中でいくつかの場面で使われる比喩表現です。
今、見ている幻想の世界から、神の視点で自分を見られるようになることを意味しています。そうすれば、自分が誰なのかを知り、神から授かった本当の自分を胸を張って生きられるようになるからです。
本当の自分を忘れて生きていると、虚しさ、苦しみ、焦り、疑いばかりを感じるようになってきます。そうなると人は、より高い次元の答えを受け取ろうと手を伸ばすようになります。すると自然に有益な情報にたどり着くようになっています。まるでうちへ帰るまでの道順を教えてくれるナビのようではありませんか。

「求めよ、さらば与えられん」

卑小さ(ちっぽけで価値のないこと)に甘んじてはならない・・・しかしながら、選択のたびにあなたが見落としているのは、あなたの選択は自分自身に対する評価だという点である。卑小さを選択すれば、平安はない。
なぜなら、それは自分を平安に値しない者と判断した結果だからである・・
どのような卑小さであっても決してあなたを満足させることはできないという事実を受け入れること。なぜなら、あなたは強い偉大さのなかでしか満足できないからである。
(テキスト15 抜粋)

まとめ

私たちは自分の本来の強さを思い出し、自分にその強さを信じられる時、
神が授けた本来の自分のパワーを発揮できる。
今までの経験で刷り込まれたように自分をちっぽけな価値のない存在だと認めるならば、平安は訪れないままである。

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