#もう眠感想
『だから、もう眠らせてほしいー安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』
西智弘/2020年7月 晶文社
長女を寝かしつけて、自分もうとうとしちゃうのはいつものことで、目が覚めたのは1時くらい。習慣で、twitterを眺めていたら、いろいろまわって、幡野氏にたどりついて、そこから西氏にたどりついた。1時半には、本書と、『社会的処方:孤立という病を地域のつながりで治す方法』をポチってた。
翌々日には届いていて、その日も寝かしつけたまま2時までうとうとしちゃったんだけど、本を読むなら今しかない、と思って、結果的には一気読みした。いくつもの言葉が、頭と心に残ってちょっと混乱した。
いつもなら、なんとなく生活しながら反芻して、考えて、消化していくんだけど、#もう眠感想 の企画を知って、しっかり言語化しようと思った。著者に、自分の感想を聞いてもらえるのも、他の読者の感想を見られるのも、なんだかワクワクしたから。
緩和ケアは、余命幾ばくの患者さんたちの痛みをとるためにある、くらいの認識だった。あくまで本書を読む前の認識ですが、無知でゴメンナサイ。正直今も、実際どういうものなのかを調べてはないです。オススメの書籍や情報源などがあれば、教えてください。
ダラダラ書いていて、よくわからなくなったので、◆で見出しのようなものを作ってみた。
※引用・参照、人名において誤字脱字のないように細心の注意を払いましたが、万が一誤り等がありましたら、申し訳ありません。
※引用以外の「安楽死」は、私の力不足で定義づけができず、あやふやなものになっているものです。「この苦痛を取り除いてほしい」という願いを叶える手段としての「死」、という表現で精一杯ですが、このことについても、今後さらに考えを深めていきたいと思います。
※この感想を書くにあたり、投稿を終えるまでは他の方の感想を読みません。無事に投稿でき次第、いろいろな方の考えや言葉に触れ、学ばせていただきたいです。よろしくお願いします。
◆私は、「安楽死」の法制化に反対しない。
「死にたい」というか、「この苦痛を取り除いてほしい」という願いを叶える手段が、もはや「死」でしかないのなら、それを叶える選択肢があっていいじゃないかと思う。一方、法制化に反対する意見として、
①制度の悪用、濫用や死への同調圧力を懸念するもの
②自ら死を望む気持ちを許さないもの
があるように感じた。②に関しては、哲学や宗教、精神に対する考え方の相違であると、とりあえず今は理解している。①について、その懸念は理解できるが、制度が誠実に機能しない可能性を過大評価して、制度の実現そのものを阻止するのは優先順位が違う気がする。アフターピルの件でも、「安易な性交渉につながる」「薬の濫用が懸念される」「命の軽視」という反対意見があるけれど、同じ文脈ではないかと思う。現実にそれを心から必要としている人がいるのだから、実現させてほしい。
今もどこかで、現実に「死にたい」人がいる。一方で、同じ病気や障害、境遇にあっても「生きたい」人もいる。こんなこと、わかりきっている話なんだろうけど、「安楽死」の法制化は「生きたい」人を否定するものではないし、そうあってはいけない。そのために、あらゆる立場から知恵をしぼって、法制化を進めてほしい。
誰かの「死にたい」は、誰かの「生きたい」を否定しない。だから、「生きたい」誰かと比べて、「死にたい」誰かを否定するのも、やめにしないか。
ある日、「寝たきりになって、視覚や聴覚も失うとか、自分の意思を伝えることが難しくなったら死にたいなぁ。」と夫に言われた。そういう話をする人ではないので、さらっと言われてちょっとびっくりした。「えー、私はそれでも生きていてほしいって思っちゃうな。でも、反対の立場なら、たしかにわかんないや。見られたくない姿もあるよね。」と答えた。
「死にたい」気持ちの反対って、他者からの「死なないでほしい」なんだなって、本書に書かれたことを整理しながら、思った。そして、それが家族や近い人だと、ときに厄介な問題になってしまうんだな、と。
◆私は、医療行為としての緩和ケアが最大限に提供されたとしても、「安楽死」はなくならないと思う。そもそも、緩和ケアを十分にうけられるかは、運次第…?
緩和ケアとは、生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOLを、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチである。(日本緩和医療学会HPより)
と、WHOにより定義づけられている。一方で、
「がん以外の難病などの病気でもホスピス・緩和ケア病棟は利用できますか?」
回答「ホスピス・緩和ケア病棟の利用対象となる患者さんは、現在の保険上は「主として苦痛の緩和を必要とする悪性腫瘍の患者又は後天性免疫不全症候群(エイズ)の患者」となっています。したがって、現状では、その他の病気での利用は困難となっています。難病等の病気については、専門病棟を設置している病院もありますので、病院のソーシャルワーカーなどにお問い合わせください。緩和ケア外来や緩和ケアチームでは難病の患者さんを対象としている病院がありますので、お問い合わせください。(東京都福祉保健局HPより)
なんてQ&Aを見つけてしまった。診療報酬の問題らしい。日本では、「緩和ケアの対象=がん」というイメージ。WHOの定義には、「がんやエイズ等の〜」なんて文言は無いのにね。こんなこと書いてると、緩和ケア医やそこに関わる皆さんにお叱りをうけそうだけれど。
『格差はある世界』(p.100)と幡野氏は言った。本書の文脈においては『所得』の他に、『人脈』『人とのかかわり』『医療者の人間性』などが例にあげられていたが、そもそも緩和ケアにたどりつくのだって、自分がどんな「病気」かで格差があるじゃないかと、感じざるを得ない。そして新城氏が指摘する『患者のエリート集団』(p.188)。
自分の気持を表現するのに、ボキャブラリーであったり、表現能力だったり、そういう才能を持っている人たち。それは患者のエリート集団だよね。彼らはきっと、安楽死がなくてもきちんとケアが受けられる人たちなんだと思っている。仮に一時的にケアが受けられなくても、最終的には支援者が集まって、複数のケアの恩恵を受けられる。(p.188)
ここにも格差を感じる。自分の状態を理解して、じゃあ次にどうしたいかを考えて、伝えるのって簡単じゃない。
もうここまでくると、緩和ケアを十分にうけられるかって、運次第だなと思ってしまった。
数々の難関をくぐりぬけ、緩和ケアを十分に提供されたとしても、解決できない苦悩はあると思う。私は、食事をおいしく感じられなくなったら、絶望してしまうかもしれない。思考できるのに、自分の意思を伝えられなくなったら、絶望してしまうかもしれない。そうなったら、「死にたい」と思い、「安楽死」を望むかもしれない。
そうなったとき、緩和ケアをしてくれた皆さんに責任を感じないでほしいと強く願う。十分な緩和ケアを前提にしたとき、患者の「安楽死」は、緩和ケアの敗北ではないはずだ。同時に患者の敗北でもない。ただ、そういう選択をしたというだけ。
私の考え方の根幹にあるものを、明文化しなくてはならないと感じたので、書きます。私は、誰かの「死にたい」気持ちを、悪いこと、無くさなければいけないもの、とは思わない。だから、「安楽死」をゼロにすることを目標とするのは、賛成しない。減らせるように努めるけれど、ゼロが絶対的な正解とは思わない。
十分な緩和ケア=「安楽死」ゼロ、といわれてしまうと、「痛みもとった、苦しみも除いた、わだかまりも解消した。なのに、なんであなたは死にたいの?」と問われている気がする。それはちょっと、だいぶ、こわい。
…えらそうな文章になってしまった。
私は医療従事者ではないし、医療現場の実際もわからない。だから、好き勝手書いてしまって、不快な思いをさせてしまったら申し訳ないと思う。
◆やっぱり、緩和ケアは最後の砦
本書に出会って、感想を書くために、調べたり、考えたりした時間は少なくない。私がこれまであまりにも考えてこなかっただけかもしれないけれど…。
ただ、ここにきてようやく、「安楽死」が認められる社会において、家族や周囲の人々からの「世話できないから、死んでくれた方がまし。自分のことは自分で始末つけてくれ。」「苦しかったり、痛かったり、耐えられないなら、安楽死って方法もあるんだよ。」そういう視線や言葉に殺されていく人が出てくるのではないか、という視点に立つことができた。
私が、これまで目にしてきた「安楽死」を望む当事者は、自分のことを、自分で選んでいるように見えた。だから、どこか、たくましさ?のようなものを感じ、当事者が納得して「死」を望むのなら、選択できるべきだと考えていた。
でも、それは一部を全部と捉えていただけだった。
幡野氏は、「安楽死制度」が必要だと思う理由を次のように述べている。
これまで様々な方とお会いしていて、思いのほか男性でも女性でも、自分の人生を自分で決められない人っているなって思ったんですね。どうしていいかわからないって人もたくさんいて、そういう方から相談も来るんですけど、不思議なことにそういう人ほど他人の人生は決められることが多いんです。(中略)要は押し付けてしまう人がたくさんいるんですね。それは、患者と家族の関係性でもかなりあるなと思っていて。そういう人たちから身を守るためにも安楽死は必要なんだと思っているんですよ。『家族の意思』を尊重しちゃうでしょ、医療者っていうのは(p.89)
日本においては、自分の意思を尊重して保つ方法がない。それによって、望まない亡くなり方をしている人がいる。だから僕は、安楽死制度を作って患者自らが選んで死ぬことができるようにする、もしくは患者の意志に反した治療を求めた家族やそれに賛同した医師や病院を罰するようにしないとダメだと思います。法律的に。(p.89-90)
この『患者と家族の関係性』がはらむ問題は、「安楽死制度」を推進させる理由であるとともに、その危険性も如実に表しているのではないか。
患者に、耐えがたい苦痛を『押し付けてしまう人』がいるように、「安楽死」を『押し付けてしまう人』がうまれてしまうのではないか。患者のためを装って、自分のために。その自覚の有無にかかわらず、恐ろしいことである。
だからやっぱり、「安楽死」を法制化することに反対!とは思わない。
ここで大事なのは、患者が自分のことを自分で、納得して、決められているか、という点であるから。病気も障害も関係ない、生きていく上で大事な力。
ここでもう一度、緩和ケアについて思うことを書かせてほしい。
本書を読み終えて、「緩和ケアが充実すれば、安楽死無くせそう!緩和ケアすごい。もっと充実してくれ。緩和ケア医の皆さん、がんばって…!」と最初に感じた。我ながら、安易な感想である。
緩和ケアの発展や充実、その概念の普及を心から願うことに変わりはない。ただ、それは「安楽死」を無くしてほしいからではない。病気が発覚して一番苦しいとき、あらゆる絶望の瞬間、周囲に何かを『押し付け』られそうになるときの、最後の砦として機能してほしいからである。物理的に痛みをとったり、必要に応じて周囲の声を遮断したりすることで、患者が自分のことを自分で決められる環境を作り、維持してほしい。
ここまできたら、それは緩和ケアなのか、医療なのか福祉なのか、教育なのか、何なのかよくわからない。ただ、そうやって尽く、積極的に、患者の立場や権利を守る制度や体制があっていいじゃないか、と思う。
…◆2つ分も、緩和ケアに対して自分の理想を述べてしまった。不快な思いをされた方、重ねてお詫びします。すみません。
もうすぐ、私の#もう眠感想 も完走します。ここまで、他人に求めてばかりの文章だったので、最後は、自分の役割を考えます。
◆私の役割、「生きる力」を育むこと
本書のあとがきに、『あなたの役割は何だ?」(p.248)とあった。この問いに答えるのが、とても、難しかった。考えた、結構考えて、ようやく微かに見えてきた。
私は教育関係者である。広義でいえば、誰だって教育関係者というツッコミは置いといて。学校教育に従事している。自分の役割を問われたとき、とっさに答えられなかったのは、本書を読むにあたって、当事者意識が低すぎたなと反省している。「安楽死」の法制化も、緩和ケアの充実や発展も、どちらも必要なことだと思う。
しかし、本書をとおして、一人一人の「生きる力」の育成が欠かせないと強く感じた。制度が整っていても、そこにたどり着けない人がいる。そういう格差を減らしたい。
私の役割、それは「生きる力」を育むこと。
ここで言う「生きる力」とは、『知・徳・体のバランスのとれた力のこと』である。文科省では、具体的に『基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力』『自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性』『たくましく生きるための健康や体力 など』と記している。
医療の世界においては「患者力」と呼ぶのだろうか。それは、知識、自己理解、思考、表現…あらゆる要素が必要な力。何を望み、その成就のために必要なものは何かを考え、実行する力。柔軟さ。リテラシー。それぞれの言葉で無限に言い換えることができるだろう。
世の中には、あらゆる意味や価値観で、恵まれている人、そうでない人がいる。
教育はその差を是正する役割も担う。すべての国民に学ぶ機会を保証し、「生きる力」を育てていく。(ここに議論の余地があることも、重々承知している。)ただ教科書に書いてあることを伝えるのが教育ではないし、それを暗記するのが学習でもない。また、「生きる力」を育む場は学校だけでもない。
ただ、私は「生きる力」を育むことの専門家として、子どもたちの前に立つ。子どもたちが、自分のことを自分で決められるように。それぞれが、自分の人生を納得して「生」きられるように。
◆最後に
拙い感想文を最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
そして、知ってるけれど遠い話題だった「安楽死」や「緩和ケア」について、学ぼう、考えようと思う機会を与えてくださった、西智弘氏に感謝します。
◆次は『社会的処方』を読む
◆本書を購入した唯一の後悔は、密林から購入したこと