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第2章: 観測者たち
箱の中の闇は、生き物のように彼女を包み込んでいた。その静寂は、初めは無害に思えた。しかし、時間が経つにつれ、それは彼女の内側を掘り崩すようになっていった。自分がそこにいるのか、いないのか――その問いがどれほど重いものか、フィリスは初めて気づき始めていた。
足元の床に爪を立てる。硬く冷たい感触が、彼女の存在をわずかに現実のものとする。だが、その瞬間すらも、観測が消えれば意味を失うのではないかという恐れが彼女の心を締めつける。
「私は、誰なんだろう……?」
自問自答は箱の中に響くことなく、ただ虚空に吸い込まれる。その孤独感は、彼女の中に小さな空洞を生むようだった。
そしてある瞬間、箱全体がかすかに震えた。それはまるで、外の世界が彼女に合図を送っているようだった。振動が止むと、代わりに何かが聞こえた――低い声、足音、かすかな金属の音。それらはかすかすぎて言葉にはならなかったが、確かに「誰か」がそこにいると感じさせるには十分だった。
「誰かがいる……外に?」
その気づきは、フィリスの心を一瞬で掴んだ。箱の外に存在する未知の世界――それが彼女の好奇心を刺激すると同時に、底知れない恐怖を呼び起こした。もしその「誰か」が彼女を傷つける存在だったら?それとも、彼女をこの箱の中に永遠に閉じ込める存在だったら?
その想像が彼女の胸を締めつける。爪先が震え、視界のない闇の中で耳だけが頼りになる。彼女は息を潜め、音に集中した。
次の瞬間、箱の中に何かが変化した。それは目に見えない何かだったが、彼女にははっきりとわかった。自分が「見られている」という感覚――誰かの視線が、自分を包み込み、探り、固定しようとしているのだ。
「見られている……」
その気づきは彼女を動揺させた。誰かが自分を見ている。自分を見つめ、その存在を記録し、決めつけているのだ。その事実に反発しようとする感情と、見られることで自分が存在していると感じられる安心感が交錯した。
「見られることで、私はここにいる。だけど、それは私自身じゃないかもしれない……」
観測されるたびに、彼女は自分が何者かに縛られているような気がした。そして観測が途切れると、再び自分が不安定な存在へと戻っていく。それは、まるで自分の命が誰かの手の中で操られているかのようだった。
しばらくして、箱の中に光が差し込んだ。ほんの一瞬、まるで針の穴から漏れる月明かりのような微かな光だった。それが闇を切り裂く瞬間、フィリスの心は驚きと希望で満たされた。
「外に……光がある。」
彼女は光の方向に向かって前足を伸ばしたが、光はすぐに消えた。それでも、その一瞬の出来事は彼女に確信をもたらした。箱の外には世界がある――それは広大で、未知で、恐ろしいものかもしれないが、確かに存在するのだと。
その後も、観測者たちの声や動きが断続的に響いてきた。何を言っているのかはわからない。それでも、彼らがこの箱の中の彼女について何かを議論していることは察することができた。
「私を……どうするつもり?」
声の調子に潜む冷静さと緊張感は、フィリスの心をかき乱した。自分がただの観測対象であり、彼らの手によって自分の存在が左右されるという感覚。それは耐え難い恐怖だったが、同時に、彼女に行動を起こす力を与えた。
「ただ待っているだけじゃだめだ……」
フィリスは箱の中で小さな音を立てた。床を叩き、爪で壁をなぞり、その音が箱の外まで届くことを祈る。それは観測者たちに対する小さな反抗であり、自分自身を証明するための行動だった。
箱の中の世界は静かで閉じられているが、フィリスの心はその小さな空間を超えた広がりを求め始めていた。彼女は初めて、「観測されるだけの存在」ではなく、「行動する存在」として自分を捉えた。そしてその行動が、箱の外の世界に何か影響を与えるかもしれないと信じた。
観測されることは束縛でありながら、同時に彼女を解放する鍵にもなる――その矛盾に満ちた感情を胸に、フィリスは闇の中で目を閉じ、自分の次の一手を考え始めた。