幽霊的身体としての怪獣の表象性
1 幽霊とは何か―幽霊と怪獣
『ゲンロン5 幽霊的身体』は、幽霊論と演劇論を特集したものである。「幽霊と演劇」という組み合わせは必ずしもすぐに浮かび上がるものではなく、これを組み合わせると怪談や能楽のようなものがイメージされるかも知れない。
しかし、本書で言われるのはそういう狭い意味ではない。表象(つまり”representation”)というものが、元来、目に見えない抽象的な観念を象る意であるように、不可視であるものを束の間、可視化してみせるような(つまり、非現前のものを現前させる)働きを幽霊と呼び、その幽霊が描かれる舞台として演劇論が語られているのである。
演劇は、その一回性、あるいは視聴者と演技者が同一の空間にいるという同期性、場合によっては身体性において、怪獣の主戦場である映画やテレビとは違うが、それでも怪獣の表象性を考える上で、非常に示唆に富む内容であった。
東浩紀は、デリダが幽霊と時間の関係を意識していることに鑑み、『ハムレット』の「The time is out of joint」(時間のタガが外れた)という台詞があり、つまりは時間のズレから幽霊が生じるという点に注目している。幽霊とは「いまここ」に属さない。その意味で「シンクロニシティ(同時代性)」ではなく「アナクロニズム(時代錯誤性)」を持つのだという。
初の本格的な「ゴジラ論」であり、「怪獣論」を提出した川本三郎は、ゴジラを英霊であるとした。それは後に赤坂憲雄や加藤典洋、猪俣賢司らにも引用され、2001年には『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の作中にもその解釈が生かされることになる。また香山リカは、ユング心理学的な見地から、ゴジラをグレートマザーとして捉えた。ここでいうグレートマザーとは、西洋的な近代合理主義以前の時代を懐古する意識(他には、女性原理や、意識に対する無意識の意味として使われている)のことである。
前者と後者の論旨はまったく異なるが、旧来的なものの遺物としてのゴジラが時代錯誤的に現前しているという点では同じことであり、東がいうところの幽霊的存在である。
2 過去からも未来からも来訪する幽霊
特に興味深いのは同じ対談中の大澤真幸による、幽霊的存在は、過去の遺物ではなく、来たるべきものとして、未来から来訪してくることもあるのだという点であるだろう。「怪獣=旧来的な価値観の表象」のように私自身考えていたのだが、それははずれではなくとも、一面的であるということに気付かせれた。
大澤によるデリダの解釈では、幽霊とは「来たるべき救済」だということになる。今の社会を救済するものが未来のいつかの時点では訪れるという全体主義的な考えではなく、その救済は実際には生じてはならず、常に「来たるべき存在」という立ち位置に留め置かれられなくてはならないのだという。そして来たるべき存在を現前させるのが演劇等における幽霊的な存在ということになる。大澤は、デリダが民主主義社会の実現というコンテクストでこの幽霊の話をしていることを踏まえているが、そのコンテクストから離れたにせよ、「来たるべき理想的、完成された社会」を仮定し、それを現前させる機能が幽霊的存在にはあると言うことはできるだろう。
1960年代の『ウルトラ』シリーズには、ユートピア的未来につながる発展の最中(=高度経済成長)の現代という明るさがある中、ディストピア的未来社会も仮構されていた。2020年には、知性(≠理性)ばかりが発達して肉体と理性を喪失したケムール人が闊歩していることになっているし(『ウルトラQ』第19話「2020年からの挑戦」)、地球とよく似た第四惑星では、科学的技術と計算的理性がヒエラルキーの頂上に君臨し、人間、そして人間らしさは蹂躙され、そのような社会秩序に抗う者は葬られるし、その葬られる様さえもが、匿名的多数として描かれる観衆の娯楽的消費のためのコンテンツになっていた(『ウルトラセブン』第43話「第四惑星の悪夢」)。
これらは、高度経済成長期の日本が夢想し、やがて訪れる社会を、怪獣、あるいはサイボーグという虚構的身体によって現前せしめたものだと言える。この現前しないはずのものを現前して見せた虚構的身体こそが、大澤のいう「来たるべき幽霊」ということになるだろう。
3 敗者としての幽霊
木ノ下裕一は、「古典芸能の幽霊は、〈歴史を再現する〉ために現れるのだ。」「権力を有した勝者が書き記す「正史」では語られない、もう一つの真実を語る。〈敗者から見た歴史〉を克明に再現しながら、今を生きる者に「お前たちの住んでいる世界は、累々と重ねられた屍の上に在るのだ。忘れているかもしれないが、忘れたふりをしているかもしれないが、この事実は、なかったことにはできないのだ」と語りかける。」とする。
馬場あき子は『鬼の研究』の中で、鬼が敗者のメタファーであることを説いたが、木ノ下によれば幽霊もまた敗者なのである。
『ウルトラマンA』では、シリーズ初のレギュラー悪といえる「ヤプール」が登場する。これは、『仮面ライダー』のショッカーに相当する敵組織を描くというねらいもあったのかもしれないが、そうであったにせよ、ヤプールが(『ウルトラマンA』構想者にして初期のメインライターである)市川森一の怪獣観を象徴的に描いたものであることは間違いない。そしてそのヤプールは敗れても敗れても生き返り、「勝者は敗者の恨みを背負って生きているのだ」と呪詛のように告げる(その際、女性歯科医師の姿になるのは”歯医者”を”敗者”とかけたのだろうか)。
怪獣とは、「正史」を描く勝者によって葬られた敗者であり、忘却されつつある、あるいは忘れたことにされかねない真実を伝えるものだということになる。
4 幽霊のアナクロニズム・精霊的、幽霊的な怪獣
以上の論を統括的に述べたのが、東浩紀の「生者の喧噪は時代も地域も超えられないが、幽霊の呟きは時代と地域を超えられる。」という言葉である。
敗者(=当時の社会的秩序から外れた存在)や死者(例えば、戦死者は社会的秩序に則って行動していたわけで、敗者とは区別されるべきだろう)の怨嗟は、過去に埋葬されてしまうものだが、幽霊として、未来のある地に降り立つことで、現前させることができる(まさに”representation”であるだろう)。また、大澤が言うように、それは過去の遺物のみならず、いつか来る未来の姿を現前させることもある、という意味で、幽霊は時代も地域も超えられるのである。
『ギルガメシュ叙事詩』の森の精としての異形フンババをはじめ、怪獣は(精)霊的存在である(実相寺昭雄監督も怪獣を「自然の霊の具現化」ととした)。と同時に、出現したのも束の間、ほとんどの場合、エピソードの終盤で葬られることを、制作者にも視聴者も予め含みおかれる怪獣は、現前する(幽)霊的な存在である。
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