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〈風景〉としての建築物

―そのコンテクストとコントラスト―

 先日、近隣の市街にある公園へ行ってきた。

 写真のような抽象物や、その他の作りからも軽く30年以上は昔に作られた公園なのだろうなと直感的に感じた。

 僕たちは古い建築物や街並み、風景に時代錯誤を感じる。東京タワーが今もなお魅力的であるのは、それが時代の最先端を象徴するからではもちろんない。新たな事物、事象に溢れる東京の風景の中で、今日となってはレトロな佇まいが、新旧のコントラストを生み出すからだ。

 だが、東京タワーはかつて、時代の最先端を象徴する塔としてそこに屹立したのであった。まず一つには、新興メディアであったテレビの電波を送出するという現実的な意味で東京タワーは時代の最先端にあった。それまで日本で最も高い建造物は工場の煙突であった。それに対し、電波という情報化社会を象徴する不可視の物質を扱うという点でも東京タワーは最先端にあった。

 このように建築物とは、それが設計、あるいは建造された時代のコンテクストを帯びている。先の東京タワーであれば、「昭和30年代」「高度経済成長期」あるいは「戦後」という時代の一面を象っていると言って良い。しかし時代は流れ、建築物は古びる。それは建築物が物質的に朽ちてくるという面もあるが、それ以上に、テレビの電波塔である東京タワーを建てるというテレビ時代の草創期の精神こそが古びれてくるというのが主因と言って良い。何も時代遅れになるのは建築物だけではない。一般にファッションとしてくくられる服飾や食べ物、雑誌や広告、あらゆる意匠は更新される時代性から取り残されると言って良い。だが、これらはそもそもが数十年という経時的な耐用を求められるものではない。服は時代遅れになる前に擦り切れれば捨てられる。靴は履きつぶされ、食品、雑誌や広告は日々消費されていると言って良い。

 しかし、建築物は数十年はそこに現存する。だから、時代のコンテクストをまとっていた建築物はいつしか、そのコンテクストから引き離され、むしろ次第に訪れる新たな時代との差異を明確にし、やがてそこにはコントラストが生じるようになる。

 私たちが古い建築物、あるいはそれらを眼前に収めることになる風景に魅力を感じるのは、そのコントラスト故ではないだろうか。さらには、そのコントラストの奥に、その建築物がまとっていた往時のコンテクストを感得しているのではないだろうか。東京タワーに今なお魅了される人がいるのは、それはその意匠の秀逸さによるばかりではなく、映画『Always 3丁目の夕日』によって再現されるような昭和の風景を東京タワーを見る自身の眼底に浮かび上がらせているからではないのだろうか。

 『観光のまなざし』でアーリは「「観光のまなざし」は人々の日常体験と切断されるような風景や町並みの様相へと向けられている。」と指摘する。東京タワーが建てられた時代は、日常的な時間、つまり今という時間と切断されている。だが、そうは言っても、東京タワーはまた、東京都内に住む人たちにとって日常的な風景であることには違いない。アーリを補完するのが岡本健先生の意見だろう。岡本先生は『巡礼ビジネス』の中で、観光とは差異を売る商売なのだと言っている。東京タワーは日常的な風景であるに違いない。しかし、そこには先に述べたような現代との時代錯誤感、つまりコントラストが生じている。日常/非日常というコントラストではなく、日々接する日常の中に存在するコントラストもまた私たちを魅了する観光資源になると言えるのだろう。

 古びれた遊具や、一見するとそれが何であるのか、何のためにそこに存在するのかわからないオブジェのある公園を歩きながら、建築物、また建築物を含めた風景のコンテクストとコントラストということを思うに至った。

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