2020年、パラダイムシフトの行方―新型コロナ以後の世界―

 敗戦の1945年以後、25年ごとに社会は大きな変化の局面を迎えており、1970年、1995年を時代の節目と捉える。社会学的にはそのような考え方がある。それに従えば、2020年、今年は25年ぶりの変化の年ということになる。もっとも、第一子の平均出生年齢が30歳を超えている現在、25年周期はもう少し長くなるかもしれなとも言われているが、それでも本来なら二度目の東京五輪が開催されるなど、今年2020年は新たな時代の幕開けになるのでは、という思いはあった。2045年のシンギュラリティ説からも逆算して、今年は特別な年になるのかも知れないと。

 阪神大震災、そして地下鉄サリン事件という、大きな天災と人災で幕が開けた1995年。マクドナルドが低価格路線を打ち出しそれまで一つ210円(!)だった通常のハンバーガーを130円にした。あくまで肌感覚であったが、社会全体が少し前、バブル期のような好景気への回帰をあきらめ、デフレの中でいかに快適に生きていくのか、という路線に舵を切ったように思われた。またwindows95以降、IT機器が個人の思考、表現、拡散のツールとして普及し、直接的に現代のメディア環境を形成していることもパラダイムシフトの一面であった。

 2020年、新型コロナウイルスの流行により、世界は既にかなり暴力的なかたちでのパラダイムシフトを余儀なくされている。技術の進歩に比べて社会システムは驚くほど旧態依然のスタイルを保持しているが、他者との物理的接触の回避を強制される中で、遠隔授業や遠隔診療、時差出勤、テレワーク等が突貫工事のように実行されている。急場しのぎで行っている今のスタイルからの調整は必要なものの、今までにはない新たなやり方を提示するに至ったという意味では、今回の災禍からの回収物とは言えるだろう。

 でも、大きなパラダイムシフトはやはりこの後だろう。僕は、その方向性は二つあり得ると思っている。

 一つ目。これはグッドなシナリオだ。

 中学生のころ、藤子・F・不二雄の「憎まれ屋」という小品を読んだ。互いに敵対しあう間柄であっても、共通の敵を見出すと、人は結束するというアイロニーだ。実際にそういう局面を見る機会はいくらでもあった。だから生徒にはよく言っていた。バルタン星人でも襲来してきたら、世界は協力するだろう、と。バルタン星人に地球を征服されるか、あるいは世界中の武器を持って、バルタン星人を撃退するかの二者択一があれば、おそらく西側とか東側とか、テロリストといった立場を捨てて、協力して後者を選ぶだろうと。これは理想に基づいた平和主義を唱えたものではない。むしろ、そういう荒唐無稽な想像力に依拠するような機会でもない限り、人は協力や平和など求めないだろう、と。

 だが今回、世界には共通の災厄が降り注いだ。それが新型コロナウイルスだ。バルタン星人が来なくても、この目に見えないエイリアンは、人類が協力し合わなければ撲滅の困難な大敵だ。人類にとっての共通の敵との戦いは、戦争のように「正義を掲げる者同士の対立」ではなく、少なくとも人間の立場からすればそれは絶対悪との戦いである。だから、共闘の中で、対立しあう国家間の緊張緩和が生じる可能性もある。大澤真幸がその点について詳しく述べた記事が興味深い。あるいは、ナショナリズムと、グローバルな市場原理が手を組む可能性もある。すでにいくつかのグローバル企業は、技術をもって、コロナ対策に力を貸している。

 二つ目。これはバッドなシナリオだ。

 緊急事態の名の下、今私たちの行動は制限されている。監視、管理、統制の秩序の中で従順に過ごすことが、命を守ることにつながっている。これが、管理社会を好意的なものとして受容する予行演習として機能してしまっている面はないだろうか。先に述べた、グローバル企業によるコロナ対策も、管理社会の情勢の一助となりえるものではある。今回のコロナ騒動を通して、私たちは先進の技術によって高度に管理、監視される。

 2020年前後が節目だった。そんな言い方がされるようになることはほぼ確間違いないように思われる。それは世界が建設的な方向に向かう序章という意味になるのか、あるいは悪夢の序章という意味になるのか。

 世界のありようを決める上でも、”今が正念場”なのではないか。 


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