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どーしよ

作文の塊です。
読んでくれたらうれしいな。

バカほどしくじった話

久しく観劇をしていなかったのだけれど、どうしても見たい劇があったので、ぴあで争奪戦を勝ち抜き、チケットを入手することができた。

それからおよそ1か月後の土曜日、僕は心を弾ませて新宿へ向かった。
夜の新宿はギラギラしていた。
劇場は雑居ビルの5階にあるから、僕はエスカレーター待ちの集団に加わった。
すぐチケットを提示できるように、と僕は鞄の中に大切にしまい込んでいたチケットを取り出した。

僕は目を疑った。

チケットには「10月7日(金)19:00~」と書いてあった。
何も理解できなかった。
次の瞬間、あ、そうか、今日は金曜日だったんだな、と思い、スマホを確認した。
スマホ画面には「10月8日(土)18:40」とあった。

次の瞬間、僕は全てを理解した。もう新宿には何の用もない。
新宿まで往復700円かかっちゃった。どーしよ。せっかくだから一杯飲んで帰ろうかな。しかし、チケット代の4,500円+交通費700円を無駄にしてしまった以上、これ以上の無駄遣いができるはずもない。

まっすぐ帰って、最寄りのスーパーで炭酸水を買って帰った。
今夜くらいは酒飲んで寝させてくれ~。

あと、見たかった公演は配信で見ることにします。追加で2,000円払わなきゃね。

カラオケに行ったことない奴を尊敬しているぜという話

たまに、一回もカラオケに行ったことがないという大学生に出会う。
実際のところは分からないけれど、人前で歌いたくないから、カラオケに行かないということなのだろう。
そして、誰かとカラオケに行く機会がなければ、一人カラオケに行きたいという気持ちが喚起されることも少ないだろう。

人から誘われようが、それでも自分はカラオケに行かない、という選択ができる点を勝手に尊敬している。きちんと「自分自身」を保持してているような気がするから。
僕は、誰に何を言われようが絶対にこうだ!みたいなことが言えない。
口の上手い人に唆されたら何でもやってしまうんじゃないか、みたいな危うさが自分の中にある。
例えば、高いところはあまり得意じゃないけれど、今後も関係を続けていきたいと思える人に誘われれば、バンジージャンプにだって行くだろう。

僕の周囲の方々は、マルチとか違法薬物とかを勧めないでください。
うっかり手を出してしまいそうで怖いから。


子供の頃に何故か怖かったものの話

僕の地元、愛知県には稲武という山村がある。長野県との県境の方だ。
この地域にはカタカナ表記の由来がよく分からない地名が多くて、父親の車に乗ってその辺りを通りかかるとカーナビにこれらの地名が表示される。
(住んでおられる方には大変失礼な話だけれど)子供心にはなんだか怖かった。

三河地区は明治時代に独特な住所表記システムを採用したらしく、詳細は省くがその関係でそういった地名が多く残されていることは、大分後になってから知った。

豊田市稲武地区

今見ると怖いというより興味深いけれど、やはり異質ではある。

とはいえ、昔の人の息遣いやストーリーが伝わってくるような、古い地名は好きだから、残していってほしい。


寛容でありたいという話

他人に寛容でありたい。

他人と自分の中身が違うことにいちいち激怒するのはみっともないと思うから、そういう行動を見かけるたびに、寛容になろうよ~と思う。

だけど、僕が他人に対して寛容であることを求めれば、もはや自分自身が寛容とは呼べないという気もしているので、寛容さを他人に押し付けたりはしないようにしているつもりだ。
遠くの物陰から、寛容になろうよ~と思って覗いているだけ。


元も子もない話

吊り橋効果ってほんとなのかなって思ってネットで調べたら、アレは半分本当で半分嘘らしい。

なんでも魅力的に感じてる人と一緒にドキドキすればなおさら魅力的に感じるけれど、そうでない人と一緒にドキドキすると、逆効果なんだって。
※書いてあっただけで本当か嘘かは知らないよ。

あまりに元も子もないよね。そりゃそうだろって感じ。

でも、僕たちがなんとなく薄々そんな気がしていたってことが、科学的裏付けをもって証明されたのなら、それも人類の一歩に違いないのかも。
人類はクソだ。茶トラになりたいよおいら。


サバトラ


俺から予防線を奪わないでくれという話

人と話していて、こいつ露骨に予防線を張っていやがる、と感じるときがある。こういうとき、みっともないなと感じてしまう。
「できないかもしれないけど、頑張ります!」みたいなことを言うよりも、「てっぺん獲ります!」って言った方が良いに違いない、もちろんケースバイケースではあるけれど。

一方で、僕は予防線を張りまくるタイプの人間である。
どうやら自信の無さみたいなものが皮膚からにじみ出ているらしく、バイトの研修中も、自信なくてもいいから、自身ありそうにやりなよ!お客さんが不安になるでしょ!と言われてしまった。もっともだと思う。公共料金を払いに行ったとき、店員が不安げに首を傾げて、頭の上に疑問符を浮かべていたら、客の方も不安でしょうがないだろう。

日常生活のなかでも「できないかもしれんけど」、「とりあえず」みたいな定番の予防線はもちろんのこと、細かい行動の一つ一つに至るまで予防線を張っている自覚はあるし、僕とコミュニケーションを日々取ってくれている方々も、そのことに気が付いているかもしれない。

この悪癖を止められれば、それが一番いいに違いない。

だけれど、予防線を張るのやめてよ、と面と向かって言われたら僕は困ってしまう。

予防線を張ってしまうのは、率直に言って傷つきたくないからだ。
他人からの失望が怖いのである。
予防線は、能力の伴わない人間が長年の鬱屈した生活の中で築き上げてきた立派な防衛機制なのだ。
これを取り上げられちゃあ、弱者はもう縋り付くところがない。壊れちゃうかもしれない。
他人に迷惑をかけない範囲であれば、僕が見苦しい予防線を張っていても見なかったような顔をしていていただけますと恐悦至極に存じます。

やだなという話

日常の中で些細な気付きや、素敵な出会い、小さな感動、噴き出る愚痴があるとき、マジョリティは友人や恋人とそれを共有するらしい。

かたや僕は、一人暮らし、3日に2日は誰とも話さないので、Twitterの下書きに漬け込むしかない。
やだな。

書いてから思ったのだけれど、「マジョリティ」って単語に主格をくっつけて使うのもなんかやだな。

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ここまで読んでくれてありがとうございます。
写真撮影しているファミリーに気を使って、物陰から撮った鼓門の写真

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