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見えない暴力について考えてみたい。


SNSでの誹謗中傷について、やっと法的処置がまともな対処法であるということが浸透してきたように思う。芸能人ではない有名人は事務所にも何にも守られていない。そんな人たちを攻撃することが、もはや現代文化のように染みついているのが現状だ。

この世には見えない暴力が存在する。言葉は人を傷つけ、態度は自我を殺す。


自分が生きていると感じる瞬間は人それぞれだが、怒りや悲しみ、苦しみや欲求はとてつもないエネルギーを持っていると私は思う。彼氏と喧嘩して怒りながら大声で泣いているときこそ、一番人間らしかったりするわけだ。

そういう瞬間があるからこそ、私は私を生きている自信がある。人生の主体性とでも言えるだろうか。それは親が愛情を注いで育ててくれたからかもしれないし、周りの人に恵まれていたからかもしれない。どちらにしても私は主体性を”自ら持った”のではなく”持たせてもらった”のだ。

残念ながらこの人生の主体性は1人では、ましてや子供には得難いものだと思う。周りの環境や人とのコミュニケーションを介してのみ受け取ることのできる貴重なもの。海外では決められた人生を送らざるを得ない子供たちが大勢いるし、日本でも他人事にできるような話ではない。

自殺というものが結局は環境による殺人であるように。日本の自殺者数を世界と比べたら比にならないように。


「愛情の反対は無関心」とマザーテレサが言った通り、自我というものは自分を他人に認識してもらって初めて生まれるものだ。誹謗中傷の原因は憎しみや嫉妬かもしれないが、確実に「その人を認めてやらない」というエゴだと感じる。

正直、面と向かって『あぁこの人苦手な感じだー。。。』と思ってしまう気持ちは分かる。だが会ったこともない赤の他人をどうして憎んでしまうのか。その人の存在によって自分にどんな迷惑がかかったのか。確かに赤の他人だからこそ伝えられる言葉もあると思うが、それは本当に自分のエゴではないのか、しっかりと心で解いてから発信をしなければならないと思う。


短文だが以上、

mito





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