嗤うバットマンとはなにものなのか?
「Year of the villian:Hell arissen」が完結を迎えた。内容としてはパーペチュアと共に世界を作り直そうとするレックスルーサー(Apex Luthor)と世界そのものを破壊しようとする嗤うバットマン(Batman who laughs)が激突するというものだ。
この作品での主な二項対立としてレックスルーサーの悪が勝つか、それとも嗤うバットマンの悪のどちらが勝利するかというものである。
では両者の悪の違いというものはなんであろうか?
ルーサーの悪は基本的に自己中心的な世界観で構成されている。彼がスナイダー期ジャスティスリーグでしめしたものはある種、一貫している。
彼にとっては自己の世界を拡張し、世界そのものを浸食し制圧するという、覇道としての悪なのだ。
ルーサーの示す悪は強者的な視点のみに立つ。彼の世界観でいうと、凡人というのは成長を諦め、自らをみじめに嘆く弱者として切り捨てようとするものだ。
一方で嗤うバットマンの悪は非常に複雑だ。
そもそも嗤うバットマンとはなにものなのか?
嗤うバットマンの初登場はスコットスナイダー/グレック・カプロによる「DC:Metal」という作品だ。嗤うバットマンはダークマルチバースと呼ばれるDCの正史に存在する世界からこぼれた希望や恐怖が偶然にも形作られた宇宙(バース)の集合体なのだ。(といっても、最近だと設定はあやふやなため、希望のある宇宙はそもそも誕生しないと断言する作品もあったりするのだが)
嗤うバットマンはダークマルチバースにおける「ジョーカーの倫理観に支配されるバットマンの恐怖」から誕生した存在だ。
嗤うバットマンが嗤うバットマンになる。その契機として、彼はジョーカーとの戦いに敗れ、ゴッサムは徹底的に破壊され、ブルースウェインとしての恐怖を何度も何度も嘲られた。その結果、バットマンは激高し、ジョーカーを殺害してしまったのだ。
ジョーカーは殺された時、自分の意思をこの世に残すために、殺害した人間にジョーカートキシンと呼ばれる、ジョーカーがジョーカーと化した毒薬を浴びるように仕組んでいたのだ。
その毒薬を吸い込んでしまったバットマンは、今まで持っていた倫理観が消失し、一切の良心の呵責のない、嗤うバットマンが誕生したのだ。
ここで嗤うバットマンを複雑にしているのは単純にジョーカーと同一の価値観を共有しているわけではないという点だ。
ジョーカーの基本的な行動原理はこの世界の無意味さを人々に証明し、共に笑うということだ。ジョーカーにとって他者というのは非常に重要だ。その最たる例として、バットマンがいる。ジョーカーは凡そな彼の作戦においてバットマンへこの世の無意味さを証明するような行動が多く存在する。
このことは彼の本質的なところに道化師というものがあるからだ。ジョーカーは彼自身、よく笑うが、道化師を笑う存在もまたいなければ意味をなさない。彼の場合、笑われた場合の対処は殺害だが、それでもなお、笑うもの(Who laughs)がいなければ、彼の基本的な行動の理念がたちまち、崩壊してしまうのだ。
だが嗤うバットマンはその価値観を共有していない。嗤うバットマンも確かに世界の無意味さを笑う。だが、彼はそれを他者と共有しようとは全く思っていないのだ。嗤うバットマンの嗤いは彼一人で完結しているのだ。
この自己完結は実はバットマンと共通している。それは理念や倫理観として面ではなく、彼の実行力にある。
極論していうと、バットマンはたった一人になっても理念を貫き行動する。それによっておこる弊害は多々あるが、それでもいざとなれば彼はファミリーを形成しなくとも問題に対処しようと動けるのだ。
むろん、バットマンは自らの倫理観と理念の結果、家族を構成し仲間が集う。それが彼の精神的な面でも良い影響を与える。しかしバットマンを構成する条件において、家族や仲間は必須ではないのだ。
そのバットマンの「理念のために一貫して動く」という行動とジョーカーの「世界を嗤う」という価値観。その二つを嗤うバットマンは混ぜ合わせて保持しているのだ。
では結局のところ、嗤うバットマンとレックスルーサーがどちらが悪としてすぐれていたのだろうか?
それは嗤うバットマンだ。というのも実はルーサーの覇道というのは根本的に問題がある。彼の悪には他者が必要なのだ。
一見、ルーサーの悪は自分のためだけにすべての者たちが奉仕するという自己中心の極致にみえる。しかし、そこが問題なのだ。ルーサーの悪は他者がいないとそもそもとして成立がしないのだ。ルーサーの悪は他者をどれだけ取り込み自らの力に変えるか。だからこそのギフトであり、レギオンオブドゥームであった。しかし、彼はジャスティスリーグとの最終決戦の時、自らの仲間を保護するどころか、パーペチュアに捧げるという大失態を犯している。これは彼にとっては弱者を切り捨てたという形になる。しかし、切り捨てれば切り捨てるほど、同時にルーサーも自らの力を捨てること同義であり彼もまた弱まっていくのだ。そのことに彼は気が付いていなかった。
そして、今まで弱者を切り捨てるという方針を取っていたがゆえに、ルーサーもまた弱者としての部分を露呈した時、パーペチュアに堕とされたのは必然であったのだ。
一方で、嗤うバットマンは先にも言った通り、彼一人で総てが完結し、完成している。そして彼にとってはそれ以外のものなど屑芥でしかないのだ。嗤うバットマンはある意味、能動的なニヒリストであり、つまりニーチェでいう所の「超人」に最も近い存在でもある。(といってもニーチェの能動的ニヒリストはより前向きな意味で使われているので、微妙にずらされてはいると思う) 実際に、嗤うバットマンはバットマンの中で最も最強であるかもしれない。元々として彼には精神的に砕かれるという要素、恥や倫理といったものが完全に存在しないのだから。
そしてこの他者を一切合切、価値を見出せない姿勢はDCヒーローズたちと最も敵対的にならざる得ない関係である。DCのヒーローたちは「人助け」を根幹にしている。それに対して嗤うバットマンはありとあらゆる価値観を虚無的に捉え、嗤っている。他者が一切いない世界観とは決して相いれないのだ。
そんな嗤うバットマンを強者と認めたパーペチュアは彼の価値観と行動を基準に世界を作り替えていく。悪い意味でニヒリズムに支配された世界が、今誕生する。そして、そんな世界でDCヒーローたちはどうなるのか。非常に気になる所である。
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