体験談(胎児共存奇胎)
数年前、胎児共存奇胎になり、手術、抗がん剤治療を経て
再び第2子を妊娠・出産した経験を書きます。
・発覚
・治療(手術、抗がん剤)
・経過観察通院
・再び妊娠、出産
の4段階に分け、長くなると思いますがこの記事1本で書きます。
【発覚時の状況】(★ : 今思えば胞状奇胎の兆候)
授かりにくい自覚があり、生理再開後すぐにクリニックを受診。
卵胞チェック+タイミング法により、2,3周期目で妊娠。
25歳で結婚、最初の子供を産んだのが30歳なので、
今回は早くてラッキー、と思いました。
★フライングにも関わらず、検査薬の線がみるみるとくっきり出ました
★4週の時点で、すでに重いつわりがありました
★胎嚢は2つ→その後1つに。バニシングツインといわれる
クリニック併設の鍼灸院で鍼を受けるも、一向に治まらない吐き気。
しかし、双子はつわりが重いと聞き、そういうものかと思う。
不妊専門院から分娩病院に移るタイミングはさまざまですが、私の
ところは11週まで受診が可能でした。
つわりに加え、この頃には動悸が酷く少し歩くだけでもフラフラ。家から近いこのクリニックにギリギリまで通うことにします。
11週3日目、分娩予定の病院へ。
エコーで心拍を確認、元気な音ですねと言われた直後、先生の手が止まる。もう一人の先生を呼ぶ。
そして、病名を告げられ、
・中でも珍しいケースであること、
・動悸やバイタルの状況から、母体が危険であること
・即入院すること
・ここでは対応が難しく、提携の大学病院へ移ること を告げられます。
夫を呼び出し、上の子を預け、慌ただしく入院の手続き。到着した病院では、たくさん検査もしました。
私は、胞状奇胎による過剰なhCGにより、
一時的な甲状腺機能亢進症になっていました。
夜、もう19時になっていたと思います。(妊婦健診は朝9時〜だった)病室に先生が来て、
・このまま妊娠を継続するのはかなりリスクが高いこと
・12週になると、中絶方法や、死亡届など手続きが変わること
・本来ならあと3日猶予があるが、私の場合、このバイタルでの手術は不可なので、今すぐにでも決断し、甲状腺の亢進状態を抑える薬飲んでほしいと告げられます。
上の子はまだ1歳。このまま妊娠を継続すると高確率で癌になります。
夫や病院の方針としても、答えは一つ。私自身もそれが良いとわかっていても、心が追いつきません。今朝、あんなに元気な心音を聞いたばかりなのに。
【手術〜抗がん剤治療】
投薬によって、なんとか手術ができる程度に諸々の数値が下がる。
しかし、危険には変わりなく、手術中に命を落とす可能性もある、という同意書にサインをする。
大学病院だからなのか、手術の時には20人近く部屋にいました。
術後、夫は、病体(ぶどう)を見たそうです。私は見ていません。
術後3日で退院。トータルで7日、入院しました。お会計は80万でした。
もう一度子宮内を掻爬するため、1週間後に、再び入院します。
酷かったつわりと動悸はすっかりなくなっていました。
ここに来た時は、フルマラソン走った後くらいだったよね、と先生。
例えがわからない。ひとまずその脈拍が120。脈拍。
そんな状態で、どうやって生活していたのか。(今でも不思議)
クリニックは異常だと思わなかったのか。
バニシングツインの診断や、発見が11週になったことに対し、クリニック側の責任はないか、夫が聞きました。今回のような胎児共存奇胎はかなり珍しい。その医師は見たことがなかったんじゃないか。さらに、胞状奇胎自体、この病気をあらかじめ疑ってエコーしない限り、妊娠初期での発見は難しい、とのこと。
いくらか忘れましたが、2回目の入院費用もぎょっとする金額でした。もはや誤差感覚だったけど、研究のために組織をアメリカに送りたい、といわれ、数万払いました。全胞状奇胎でした。
のちに受ける抗がん剤、最初の1クールは副作用などの危険から入院して投与したので、胞状奇胎による入院は計3回、手術2回、抗がん剤(+通院5年)。
後々、高額医療費助成や、保険によってカバーされた分があるものの、辛い目に遭った上、どうしてこんなにお金を払わなければいけないのか、と思いました。でも、こうして今生きているんだから、もういいんです。
2回手術をした後は、1週間毎に通院し、hCGの推移をみます。
私は、甲状腺にも異常が出たので、内分泌科も受診していました。
大学病院は、とにかく時間がかかります。コロナなどを経て、今は違うのかもしれないですが、当時は診察5分、待ち2時間みたいな感じ。初めのうちは子供も連れて行ってたのですが、移動が大変で、最終的には一時預かりを利用して通いました。(分娩予定の病院は家の近くだったが、提携先であるこの大学病院は乗り換え+駅からバスで微妙に遠かった)
hCGの推移を祈るように見守る中、ヒットしたブログの値を見てショックを受けます。桁が違っていたからです。11週まで進行させてしまったので、抗がん剤治療になる可能性は、最初から高かったのだと思います。
それでも、希望を捨てきれず、あともう一週だけ、様子を見ても良いですか、と言ったりもしました。先生、ダメです、とバッサリでした。
MTXは、抗がん剤の中では副作用が少ない、と言われています。
それでも、髪は抜けました。ツルツルにはなりませんでしたが、シャンプーした時、朝起きた時、ブラシでとかしたとき、声が出るほど抜けました。
口内炎も辛かったです。熱いもの、固いものは食べられませんした。寝返りを打った時など不意に、口の中でイクラが潰れるような音がしました。左右のお尻には、今も筋注の不自然な凹みがあります。
友達とスパに行った時、「ねぇ、脂肪吸引したの?跡が残っちゃってるよ」と言われました。人にはそう見えるのか、と思いました。
MTXは6クール、約5ヶ月ほど行いました。
【経過観察期】
手術で取り除き、抗がん剤で叩いても、絨毛性疾患というのは体のどこかで再発する可能性がある。経過観察で5年間は通院してほしい、とのことでした。自由にしていいと言われても自由でない。まるで執行猶予中のような。長いことずっと、そんな気持ちで暮らしていました。妊娠の許可は、割とすぐに降りるのですが、あんなに副作用のある薬が、本当に影響はないのだろうかと思ったし、そんな気持ちにもなれませんでした。
家族は、辛い思いをしたんだから、好きに楽しみなよ、と応援ムードでした。一人旅(海外)にも行かせてもらいました。でも、自分が助かるために一つの命を犠牲にしたことは、私をまるで前科があるような気持ちにさせ、何をしても楽しいと思えませんでした。
今では、この考え方は、間違っていると思います。あの状況では、最後まで妊娠を継続すること自体、難しかったろうと思います。
でも、そう思ってしまうくらい、辛かった。
「つわりやばいと思ったら双子だったわ!」と報告し、その後を言ってなかった友人から、双子ちゃんとの生活はどう?とLINEが来たりしました。返信ができませんでした。SNSも全消ししてしまいました。
私の場合、自分の生活の他に、子供の母親としての人生がありました。
罹患当時、1歳8ヶ月だった娘は、イヤイヤ期の真っ只中。
それが、入院した日から、ずっと良い子で、一時預かり先でも良い子といわれて、そのままイヤイヤ期が戻らないままでした。私の精神状態が、娘にも少なからず影響を与えている、と感じました。
なんとか心を立てなおさなければ、と本を読んだり、カウンセリングをうけたり。スカスカになった髪や、いろんな負い目から底辺を突き抜けた自己肯定感を上げるべく、資格をとったりもしました。
経過観察5年のうち最初の2年間は、なんだか色々やりました。
【再び妊娠】
したのは、そろそろいいんじゃない?という周りの影響からです。
手術から2年が経とうとしていました。
病気を乗り越え、再び妊娠できたのはとても幸運だったと思います。
(ありのままを書いているので、以下は当時、私が考えていたことです。もし、なにか、ヒリつくものがあったらどうか読むのをやめてください。)
検診で心拍を確認した時、あの機械音と、鼓動に、時間を引き戻されました。つわりの時には、どうして違和感に気付けなかったのか、という思いが渦巻きました。胞状奇胎のつわりは、普通の妊娠と、明らかに違った。
一度胞状奇胎になると、次の妊娠でもなる可能性がやや高くなると言われています。「胞状奇胎じゃないですよね」と何度も確認しました。
2020年、ちょうどコロナ禍だったので、妊娠中は、そのあたりの大変さもありました。
これは、我が家の事情になりますが、
この妊娠中に、夫にガンが見つかります(メラノーマ)
早期発見、手術をして事なきを得ますが、2人目に備えて進めていた家のローンに影響がありました。
皆さんも記憶に新しいかと思いますが、この時期はとにかく、すべてコロナに振り回されました。胞状奇胎を考える時間や、その辛さが相対的に減った感じです。産まれてからは、その育児にも必死でした。娘には、私の闘病で寂しい思いをさせてしまったので、上の子のケアにはかなり気を使いました。そうして2023年10月、5年間の経過観察期間を終えました。
抗がん剤の投与期間は月〜金の毎日。次は週に1回。
それが1ヶ月に1回、2ヶ月に1回、最終的には半年に1回の通院となる度に、
前進している感覚がありました。
先生には2022年10月の時点で、もう終わったと思って過ごしていいからね、と言われていました。経過観察は3~4年という病院も多い。うちは厳しいだけ、あと2回我慢して来てねと。
これで再発したらどうする気だったのか、と思います。笑
でも、この一言で、やっと執行猶予が明けた気がしました。
この先生の大雑把さ、面裏のなさには、時に傷つき、時に大いに救われました。(結局、残り2回の診察をする前に、緩和医療に携わりたいとこの大学病院をやめていかれました)
なんか、好きに生きていいんだな、と思いました。
そんなこんなで、長くなりましたが、私の体験談になります。