仲間と大好きなサッカーに夢中になれる場所 4年板倉洸
初めまして。
東洋大学体育会サッカー部4年の板倉洸です。
「洸」はタケルと読みます。
海外や日本代表で活躍している板倉滉選手と字が似ていてビックリされた事が何度かありますが、全くの別人です。
みんなからは「タケ」と呼ばれてます。
ポジションはセンターバックです。
今、コロナウイルスの影響で思ったように活動ができない中で何かやってみようということで、今回部員ブログを始めることになりました。
名前の順で1番からという安易な考えで僕からスタートしますが、最初にお断りしておくと普段文章を書くことも読むこともあまりしないので、つたない文章だと思われるかもしれません。
その点はどうかご容赦お願いいたします。
そして最後まで読んでいただけると嬉しいです!!
テーマは『僕が東洋大学サッカー部を選んだ理由』です。
東洋大学を選んだ理由はいくつかあります。
大学でも「プロになるためのサッカーがしたい」と思っていたので、関東1部あるいは2部所属の大学に行きたいと考えていました。
実際、高校3年の時にそういった大学のセレクションをいくつか受けたのですが見事に落ちまくりました。。。
そんな時、東洋大学の練習に参加させてもらい、その場で監督に「東洋に来てほしい」と言ってもらえたことが一番の決め手です。
当時、東洋大学は関東2部リーグで戦っていたので、入部して1部昇格したいと思っていたし、いずれは自分がセレクションで落とされた大学に勝ってやろうというリベンジの気持ちもあり、モチベーションとしては充分でした。
また、埼玉の自宅から通学できる大学だったというのも理由の1つです。
僕は小学生から高校まで横浜 F・マリノスの下部組織に所属していて、小・中学校は自宅から横浜まで電車で通っていました。
高校ではクラブの寮で生活していていたので、大学ではもう少し通いやすいところがいいかなと思っていました。
グランドがある朝霞キャンパスも講義を受ける白山キャンパスも横浜に比べて近くて通いやすいのでよかったです。
他にも東洋って箱根駅伝とか陸上の桐生選手がいて部活動が有名な大学だよなとか、仮にプロになれなくても東洋でしっかりと勉強していけば就職して1人の大人として生きていけそうだとか、そういったことも考えながら決めました。
そんな経緯で東洋大学に入学することとなり、プロになるためサッカーに没頭してきました。
ただ現実は甘くなく、1、2年時は全く公式戦に絡めず、怪我も何回もしました。
3年になってある程度試合に出られるようになっても、なかなか結果が出ずに2部降格も経験する事になりました。
それでも最終学年を迎えるにあたり「今年は1年で1部復帰するぞ」と意気込んでいたら今度はコロナウイルスで活動自粛が続いていてどうなるか分からないし。。。
その他にもたくさんの苦い経験をしました。
でも、仲の良いチームメートと切磋琢磨しながら上手くなれて、サッカーを続けてこられて、東洋大学でサッカーができてとても良かったと思っています。
最後に全く内容と関係ないですが、最近動画配信サービスで一昔前の「JIN-仁」というドラマを見ました。(放映当時も観ていました)
医者である主人公が江戸時代にタイムスリップして、そこでいろんな人と出会い支えられながら現代の医療技術で人々を救っていく話です。
そのドラマの中に「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が何度も出てきました。
僕もその言葉のようにコロナウイルスの影響でサッカーが思うようにできないという試練を受け入れて、この状況でもできることを見つけてレベルアップしていきたいと思っています。
幸い今はテレビ電話など、会えなくてもコミュニケーションがとれるツールがあるので、仲間と支え合いながらこの状況を乗り越えていきます。
笑いも落ちもなくて面白くない内容だったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
これからも部員がブログを更新していきますので引き続きよろしくお願いいたします。
次回は、爆発的なスピードと高い身体能力を兼ね備えたサイドバック、市原亮太が担当します。お楽しみに!
東洋大学体育会サッカー部 4年 板倉洸
板倉洸(いたくら・たける)1998年4月6日生まれ
大宮流星→横浜F・マリノスプライマリー→横浜F・マリノスJr.ユース→横浜F・マリノスユース