今は未来の過去 4年 市原亮太
宇宙兄弟 (c)小山宙哉/講談社
はじめまして。
板倉洸(タケル)から紹介いただきました、東洋大学体育会サッカー部副主将を務めます4年市原亮太です。
プレーではサイドバック、普段はツッコミ&ボケ(比率は7:3を意識)を担当しています。
クサいタイトルですみません。思いつかなかったので!
今、コロナウイルスの影響で思ったように活動ができない中で何かやってみようということで、今回部員ブログを始めることになりました。
初回のテーマは『僕が東洋大学サッカー部を選んだ理由』です。
自分語りが好きじゃない自分ですが、語ろうかと思います。
他のチームメイトとは少し違ったキャリアを歩んできたので参考になるかわかりませんが、是非読んでください!
これを読んでリバプールファンになって頂けたらそれはもうこの上ない喜びです。
まず初めに東洋大学を選んだ理由は単純に「合格した中で1番レベルが高かったから」です。
当時からプロを目指していて、「より高いレベルの環境に身を置きたい」と思っていたのですが、出身校である横浜創英の知名度を高める事にも失敗し、抜きん出た能力も無かった私には関東リーグからの声が殆どかかりませんでした。
自分でもどうしたら良いのか迷っていた確か7月の終わり頃だったと思います。
全国大会間近にもかかわらず怪我を抱えてた時に、「監督から明日東洋のセレクションあるから行ってこい」と言われました。
練習会には参加出来なかったので、激痛に耐えながら一発勝負のセレクションへ向かいました。
紅白戦は1人2本だったのですが、足りないポジションがあった時に手を挙げて結果的に5本くらい出ました。
それが合格の要因だったかなと思ってます。笑
帰路のJR横浜線で気づいたら八王子ー桜木町を往復しました。
記憶にスゴく残ってますが、特に面白くもないので誰にも話すつもりはありません。
入学し、気合も充分でしたが見事にへし折られました。
格上のチーム出身の選手しかいないし、覚悟して望んだ環境だったけどみんなめっちゃ上手いし、全然通用しませんでした。
そして初めてオープン(寄せてくる相手に対して、ボールと相手の間に自分の体を入れるタッチの事)という技術を知りました。笑
焦りと不安はありましたが、それと同時に高いレベルの環境に身を置けている事の喜びも実感出来ていました。
サッカーにも笑いにも貪欲な同期にも恵まれ、楽しく充実した日々の記憶しかありません。
そしてあっという間に最終学年の年がやってきました。
これまで思うような活躍が出来なかったこと。
大好きな仲間達と戦う最後の年。
様々な想いがあり、今年にかける思いはとてつもなく大きいものでした。
自分が出来ることをするしかない。
わかってるし、自分に言い聞かせてるけど、色々考える度に本当にショックを受けました。
最後に、そんな僕を支えている人生のバイブルとなっているものを1つ紹介したいと思います。
覚えている方もいるかと思いますが、4年前くらいの「アナザースカイ 長友佑都編」です。
その中でこのような言葉がありました。
「成長している自分っていうのを楽しんでる」
「まだ見えない未来の自分が、どこまでやれるのか。最高の自分が見たい。」
当時、胸の高鳴りが止まなかったのを覚えています。
自分は小学校からサッカーをやっていますが
東京町田成瀬SC→都大会は夢。町田市で下から数えた方が早い。町田は東京。
コンフィアール町田→Jユースには歯が立たない。東洋では誰も知らない。
横浜創英→神奈川県2部
特に選抜も入ったことのない自分が、プロ予備軍ばかりの大学サッカーに身を置いてる。
自分より上手い人なんて腐るほどいるし、今このレベルでサッカーが出来ている事なんて昔は正直想像も出来ませんでした。
想像出来なかったけど頑張ってました。
今はコロナウイルスでどのような未来になるのか誰も想像出来ません。
ファン・ダイクは25歳までほぼ無名の選手でした。
誰がアンドリュー・ロバートソンの活躍を予想出来たでしょうか。
誰が町田駅前のコージーコーナーの閉店を予想できたでしょうか。
未来なんて想像できないけど、今できる事をして最高の自分を目指したいと思います。
苦しい時、自らの成長を楽しみましょう!
読んでいただいた方、ありがとうございました。
次回は長身、イケメン、レフティー、料理男子、多くの魅力を持つストライカー浦山雄介が担当します!
彼の弱点をみなさんで探してください。。お楽しみに!
東洋大学体育会サッカー部 4年 市原亮太
市原亮太(いちはら・りょうた) 1998年5月25日生まれ
東京町田成瀬SC→コンフィアール町田JY→横浜創英高校