ここで花を咲かせて、夢を届けたい #FC今治でプレーする 西袋裕太
30歳を目前にして、ついにJリーガーとなった西袋裕太選手。昨年、初めてのJFLで2位に躍進したブリオベッカ浦安の守備の要として活躍し、リーグのベストイレブンに選ばれると、今シーズンから戦いの舞台をFC今治に移して、夢の先を追い続けます。ここまで、決して回り道してきたわけではない。それをプレーで示そうと、闘志は燃え上がるばかりです。
■ 胸が熱くなった「22」のサイン
JFL(日本フットボールリーグ)のブリオベッカ浦安から完全移籍で加入した西袋裕太選手にとって、FC今治での新しいキャリアは試練のスタートとなりました。開幕前、3月、そして6月と負傷離脱が三度。チームに再び合流して、リーグ中断をうまく生かしながらコンディションを上げていきたいところですね。
6月のけがは2度目のけがから復帰した直後のトレーニングマッチ中で、久々の実戦復帰ということもあって、少し気持ちが空回りしてしまったかもしれません。アップの段階からしっかりモチベーションを高めて臨んだ最初のプレーで右太ももに違和感が出て、少しプレーを続けたのですが、痛みが強まったこともあって自分から交代を申し出ました。
大事に至る前にうまく対応できたと思います。復帰も思いのほか早くて。ただ、戻ってみたらいきなりこの暑さなので、そこはかなり参っています(笑)。他のチームメートに比べると、自分にはキャンプやトレーニングでの積み重ねがない分、急にこの暑い環境に放り込まれるのはきついですが、懸命にコンディションを上げているところです。
チームがすごくがんばってくれていることも、精神的に大きいです。苦しい時期を乗り越え、5連勝して中断を迎えた勢いの中で、自分もしっかりやっていけたらと思っています。まだまだ足りていないところはありますが、ネガティブになっても前に進めませんからね。少しでも良くなってきているところを意識しながら取り組んでいます。
けがした箇所は、いずれも太ももでした。
三度とも肉離れだったのですが、これまで肉離れをしたこと自体なくて。繰り返してしまったこともあり、正直、初めて経験する難しさがあります。
3月のけがは練習中、6月のけがは練習試合の途中で、いずれも取材していましたが、特に3月のけがは見ていてとてもつらいものがありました。開幕前のけがが癒え、ようやくプレーできるようになった紅白戦のラストプレーで負傷。スライディングでクロスを止めに行った後、立ち上がることができませんでした。
足を伸ばし切ってしまった感じですね。ドリブルする目の前の相手をうまく誘導して、スライディングで止めるところまで持って行けた感覚があって、左足を伸ばした瞬間に『ブチッ!』という音が聞こえました。プレーが続いていたので立とうとしたのですが、もう左足の感覚がなくて無理でしたね。
次の試合のおおよそのメンバーは、紅白戦で分かるじゃないですか。先発は分からないにせよ、試合に臨む18人に入るかどうかは。その日は、僕が今治に来て初めて試合メンバー側に入った紅白戦だったんです。
練習中に、すでに違和感があったのですか?
まったくありませんでした。むしろ、よく体が動いていました。良いパフォーマンスだったし、『ここから上げていくチャンスだ』と思って臨んだ紅白戦でしたが、むしろ調子が良すぎて、そのときの自分のキャパシティーを越えていたのかもしれませんね。
けがは自分と向き合い、自分を見つめ直すきっかけになりました。練習の強度がこれまでより上がっているし、ずっと人工芝のピッチで練習していたのが、今治では天然芝のピッチという環境の変化も関係していたと思います。天然芝のすばらしいピッチで毎日サッカーができるのは喜びでしかないのですが、やはり最初は筋力、体のバランスが足りていなかった。それに気づくことができて、下半身を中心に地道な筋力トレーニングを続けています。
まだまだ思うようにいかない筋トレのメニューもあります。“体が追いついていない”と言い訳にするのではなく、それだけ伸びしろがあると捉えているし、リハビリは自分にとって大事な時間になりました。
気持ちを切り替えざるをえないとはいえ、けがをした直後は難しさもあったのでは?
2度目にけがしたときは、コンディションがグッと上がってきているところだったので、メンタル的にかなりきつかったですね。試合に絡むチャンスが絶対に来るはずだという思いで、ずっと準備をしてきたので。
その日はめちゃめちゃ晴れていたんですよ。スライディングして、立ち上がれなくなって、ピッチにあおむけになって空を見たとき、『めっちゃ青空じゃん』と思ったのをよく覚えています。けがしたことを忘れてしまいたかったんですよ。
パッと気持ちを切り替えるのは、さすがに無理でした。数日間は本当にきつくかった。だけど(伊藤)元太やテツ(加藤徹也選手)がすごく気を使ってくれて。彼らは練習、僕はリハビリがあるから車で迎えに来てくれたり、食事に誘ってくれました。いろいろ考え込みそうになるところでしたが、とても助けられましたね。
それで、もうやるしかない、と。今できること、まずは安静にするところから始めて、できることを一つ一つ増やしていこうと考えながら、再びリハビリに臨んで、乗り越えました。
今はホームゲームをアシックス里山スタジアムのスタンドから観戦しつつ、チームとともに戦う西袋選手ですが、ここまでで胸が熱くなった試合を上げるとすると?
まず開幕戦ですね(第1節〇1-0鳥取)。アシさとのスタンドいっぱいにサポーターのみなさんが集まって、その前で完封勝利を収めることができたときの、あの盛り上がりは忘れられません。ピッチで戦う仲間たちの気持ちもすごく伝わってきたし、センターバック目線でいえば、ゴール前でのシュートブロックや球際のバトルもとても見応えがありました。
それから長野戦の印象も強いです(第8節△3-3)。テツと(日野)友貴に今治初ゴールが生まれ、それから最後の元太のゴールに興奮したのは言うまでもないです(笑)。
どのゴールもうれしかったのですが、特に友貴のゴールですね。去年、JFLではライバルだった友貴は今年、今治でチームメートになりましたが、彼もまた開幕前にけがしてしまいました。新天地で『やってやるぞ!』と意気込んでいるにもかかわらず、けがをしてしまう辛さを僕はよく分かりますからね。長野戦で途中出場し、今治でのデビュー戦できっちりゴールを決めた友貴はベンチに向かって走ってくる途中、スタンドに向かってダブルピースのように僕の番号である『22』というサインを送ってくれたんです。胸が熱くなりましたね。
■同じJFLであれば移籍はしなかった
西袋選手とFC今治との縁は、どのように生まれたのでしょうか?
僕は浦安で3年間プレーしましたが、去年、関東1部リーグからJFLに昇格して1年間戦って、どこかに移籍することは考えていなかったんですね。2024年も浦安でプレーするつもりでした。
昨シーズンが終わり、JFLのベストイレブンに選んでいただいたのですが、表彰式の翌日に浦安のGMから「話をしたいというクラブがあるのだけれど」という連絡が来ました。それがFC今治だったんです。
同じカテゴリーのJFLであれば、そもそも移籍する気持ちはありませんでした。それは、浦安でサッカーをする毎日が充実していて、仕事にも刺激があったからなんです。
仕事は二つありました。『アレスアスナロフットボールクラブ』という、千葉で活動する小中学生を対象とした街クラブのコーチと、クラブのオーナーである安藤義哉先生の病院、『明珠歯科クリニック』を手伝うことです。
病院の手伝いというのは、事務作業ですか?
そうです。安藤先生は院内で治療するだけではなく、訪問歯科ということもされていて。介護施設など、病院まで来るのが難しい方のところにうかがって、治療やケアをするんですね。僕がやっていたのは先方と病院とのスケジュール調整だったり、他に病院内にホワイトニングサロンがあって、自らモデルになってSNSを通じて発信したりしていました。
安藤先生に出会ったのは、6年ほど前のことです。それまで、サッカーをプレーすることと並行して介護の仕事をしていたんですね。生活していかなければならないから。働いてお給料をいただきながら、両立させて何が何でもサッカー選手としてやっていこう、という日々でした。
だけど、介護の仕事は本当に大変なんですね。作業によっては腰にも負担が掛かるし。
そんなとき、縁あって出会ったのが安藤先生でした。先生は、「本気でサッカー選手としてやっていきたいなら、もう少し環境を考えないといけない」と、街クラブのコーチと病院の事務という仕事を紹介してくださいました。それで、いっそうサッカーに専念できることになったんです。
先生自身、サッカー経験者で、とても情熱的にサッカーの活動にも取り組んでいました。コーチに誘っていただいたときも、「現役選手にしか伝えられないものがある。子どもたちに夢と刺激を与えてほしい」と言われました。当時の僕は、関東1部のVONDS市原FCでプレーしていましたが、「地域リーグの選手にも、それができる」と。
子どもたちに教えること自体、僕にも学びがありました。教えるためにはプレーを言語化しなければならず、それによって自分のプレーを客観的に捉えられるようになっていったんです。子どもたちにサッカーを教えているはずが、いつの間にか自分が教わっていました。そのうちにコーチだけではなくクラブの運営にも関わるようになって、やりがいしかなかったですね。
サッカーと仕事と。しっかり根差して、生活しながら取り組んできた中での、FC今治からのオファーだったのですね。
同じカテゴリーであるJFLの他チームに移籍するつもりがなかったというのは、そういう事情があったからなんです。ですがFC今治はJ3のクラブで、自分の中にまだまだステップアップしたい気持ちもありました。それで「ぜひ話を聞かせてください」と浦安のGMには返事をして、FC今治の小原(章吾スポーツダイレクター)さんも千葉まで来てくださいました。いろいろ話をする中で、僕のことをとても高く評価していただいているのが分かって、本当にうれしかったですね。
ただ、一方で仕事のことがどうしても自分の中で引っ掛かっていたのも事実です。周りのみなさんにずっと支えられながらサッカーをしてきて、コーチを務めるサッカークラブでも『来年どうしていこうか?』と運営についての話が進む中で、あっさり今治に移籍してしまうのは無責任じゃないのか。オファーから返事をするまでに1週間ほどありましたが、いろいろ悩みすぎたせいか、インフルエンザにかかってしまいました(笑)。
悩みすぎて、免疫力が下がって(笑)。
最終的には、自分で決断しました。安藤先生に伝えると、「サッカー選手として評価され、Jリーグに上がれるチャンスがあるのに、それを手放す意味がそもそも分からない。もし残ると言ってもこちらからお断りだし、激怒していたよ」と軽くキレられました(笑)。
今治で花を咲かせることができれば、教えていた子どもたちに夢を与えることができる。刺激を受ける子どもたちも出てくると思うんです。僕は今年、30歳になります。今回のような移籍のお話をいただけるのは、なかなかないことです。覚悟を持って、移籍を決断しました。
■ サッカーだけで生活できる幸せ
FC今治では、うれしい“再会”もありました。
タカさん(渡辺隆正コーチ)には、子どものころ、サッカーを教わっていたんですよ。
西袋選手は浦和レッズの育成組織出身です。ジュニアユース時代に教わったのですか?
いやいや、もっと前です。レッズには、小学生以下の子どもたちを指導する浦和レッズハートフルクラブがあって、僕もそこに通っていたんです。当時、めちゃめちゃ元気なコーチがいて、それがタカさんでした。
元気いっぱいなところは、今でもまったく変わってないですね。FC今治では、主にディフェンスの練習を担当するタカさんですが、誰よりも次の試合に出るためにアピールしているのでは? というくらい、エネルギッシュに動いています(笑)。そんなタカさんのキャラクターもあって、子どものころの自分はサッカーが大好きになって、スクールに通うのが楽しくて仕方ありませんでした。
実は、僕は7年前にも一度、FC今治の練習参加をしているんです。そのとき、タカさんはFC今治U-15のコーチでした。だから、すでに今治で再会していたんですよ。
一度目の練習参加では、契約に至りませんでした。シンプルに僕の力が不足していましたね。今回、移籍が決まって今治に家を探しに来たとき、タカさんに食事に連れて行っていただいて、いろいろ話をしました。こうして、また一緒にサッカーができるのは本当にうれしいです。サッカーに対する熱量も相変わらずで、刺激を受けます。
浦和ユース時代の2011年、西袋選手は天皇杯の東京ヴェルディ戦で途中出場しています。大きな自信となり、『このままトップ昇格に――』と夢が膨らんだのではないでしょうか?
おっしゃる通り、トップに昇格することだけを考えて取り組んでいました。当時のレッズは厳しいJ1残留の危機にあって、シーズン途中にユースの監督だった堀(孝史、現横浜FCコーチ)さんとコーチの天野(賢一、現岐阜FCヘッドコーチ)さんがトップの監督、コーチに就任し、タカさんがユース監督を務めるようになるなど、体制の大きな変化もありました。
そんな中、天皇杯のヴェルディ戦はけが人もいてフルメンバーで臨むことが難しく、ユースの選手も含めようということになりました。その1人に選ばれた僕はベンチスタートでしたが、先発していたセンターバックが足をつって、自分がピッチに立ちました。
それがきっかけとなって、トップチームの練習に参加することが増えていきました。まさしくレッズのトップ昇格に向かって順調に進んでいる、少しずつ夢が近づいてきている実感があったんです。
僕が高校3年生になる2012シーズン、ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ現札幌監督)が来たのですが、トップチームの大きな変化にユースは無縁ではありません。僕たちの代はユースから1人もトップに昇格せず、僕は大学に進んで、卒業後は仕事をしながらサッカーをするというキャリアを歩むことになりました。
目の前まで来ていると感じたJリーガーになる夢が、いったん遠ざかったのですね。
Jリーガーになることは子どものころからの夢で、大学サッカー、地域リーグ、JFLでプレーしながらも、ずっと追い続けていました。そしていろいろな経験を積んで、サッカーだけで生活するJリーガーが、どれだけ幸せなのか改めて感じるようになっていったんです。
でも、自分が回り道したとは思っていません。Jリーガーであろうがなかろうが、現役の期間は限られています。引退してからの時間は長く、生活していかなければなりませんから。そんなとき、たとえば地域リーグでプレーしていると、地元とのいろいろなつながりが生まれ、それが仕事につながっていく可能性も出てくるわけです。
浦安時代の西袋選手が、実際、そうであったように。
そうなんです。サッカーをしながら、いろいろな社会経験ができる。地域リーグの良さの一つだと思います。自分は、それを若いうちに知ることができました。
現在は、Jリーガーとして本当にすばらしい環境でサッカーに打ち込める幸せ、ありがたさを、この今治で実感しています。自分にできるところまでサッカーをやり切りたいという思いが、日に日に強まっています。FC今治に加入して、まだ試合のピッチに立ててはいませんが、ずっと応援し、僕を支えてきてくださったみなさんの思いも一緒に取り組んでいきます。
■ 好きな言葉に力を持たせるために
ステップアップし、Jリーガーになる上で大きな意味を持つのが、浦安での3年間です。
浦安に練習参加するところからスタートしたのですが、最初に都並(敏史監督)さんと電話で話したとき、「お前のプレースタイルは大嫌いだ。俺のサッカーには絶対に合わない。それでも練習参加したいのか?」と言われたんです(笑)。
いきなりですか!?
僕の本気度、熱量を試されたのだと思います。都並さんはディフェンダー出身ということもあって、守備を主体とするサッカーなんですが、正直言って、最初は都並さんの守備の捉え方をまるで理解できていませんでした。
僕はもともと、タイプ的に前に強くガッツリ行くディフェンスなんです。そういうディフェンスの良さがある反面、チームの穴を作ってしまうこともある。都並さんには、「自分たちからスペースを空けない、規律のある守備を」と求められました。でも、「ガッツリ行くときは、行っていいんだよ」とも言われて。どっちなの? という(笑)。要は、やられなければいいんですけれど。
最初は考えすぎるくらい、考えましたね。ずっとダメ出しされ続けていたし。でも次第に、『やられなければいいんだ』と開き直りのようなところも出てきて、都並さんの信頼も少しずつ得られていったのだと思います。ガッツリ行くところと、状況をしっかり見ながら我慢して守るところの使い分けを、都並さんのもとで3年間プレーして学ぶことができました。
浦安は3バックで、僕は基本的に真ん中でプレーすることが多かったので、先を読みながら全体を動かすための声掛けはとても意識するようになりました。共通認識を持って、組織として守ることの大切さですよね。周りとつながってプレーすることの重要さを理解し、それが成長につながったのかなと思います。
そして関東1部からJFLに昇格した1年目の昨シーズン、チームは2位に躍進。西袋選手もリーグのベストイレブンに選出されました。
昨シーズンは念願の昇格を果たし、都並さんに教わったディフェンスの集大成というか、ある程度、チームの中心としてプレーさせてもらいました。自分たちのやってきたことが、どこまで通用するのか楽しみだったし、チャレンジャーとしてうまく自分の持ち味を表現することができたと思います。それが評価され、今、こうして今治でサッカーをやれている。とてもうれしいし、充実しています。
昨シーズンは自分のプレーのどういうところが評価されて、リーグのベストイレブンに選ばれたと思いますか?
どうですかね。自分ではベストイレブンに入るとは、まったく思っていませんでしたから。
守備って、自分1人では守れないじゃないですか。それこそ浦安には都並さんのやり方があって、味方同士、互いに特徴を理解した上でカバーし合い、守ることができるので、守備はあまり評価の対象じゃないんじゃないかと思います。
自分としては、好きなビルドアップを含めて、楽しみながらチャレンジできたのが良かったのかな、と感じます。それが結果的にチームのチャンスにつながり、得点になることもあったので。失うものは別にないですし、『ミスしても自分が守ればいいや』という気持ちでプレーした結果です。
JFLのベストイレブンに選ばれて、Jクラブが関心を持つかもしれないという期待はありましたか?
少しは。ただ、年齢が年齢ですからね。たとえ一つ上のカテゴリーのJ3でも、下から引き上げるより、J1やJ2で実績のある選手が優先されるだろうし。ましてやセンターバックはチームの中心、ディフェンスの要ですからね。ベストイレブンになったからといって、30歳間近の自分のところに話が回ってくることは、そうそうないだろうな、というのが正直なところでした。
それがFC今治からオファーをいただいて、小原さんと最初に電話で話をしたとき、まず聞かれたのが「上のカテゴリーでプレーしたいか」ということだったんです。僕も、チャレンジしたい気持ちを素直に伝えました。そして直接、小原さんに会ったとき「JFLから上に上がりたいというハングリーな気持ちを持っている選手を、今治としても獲得していきたいんだよ」という話をされて、“ああ、JFLのこともちゃんと見てくれているんだ”と実感できてとてもうれしかったし、心に響きました。移籍を決断する決め手の一つにもなりましたね。
そして30歳になるシーズンに、ついにJリーガーになる夢を実現させました。
自分が歩んできた道は、Jリーグでプレーする他の選手とはかなり違うと思います。自分らしい道のりだし、何よりこれからが楽しみです。JFLや地域リーグにいても、Jリーグでプレーできる。そういう道の一つを作ることができたとしたらうれしいですね。これから僕がしっかり今治でプレーすることによって、『ああいう道のりもあるんだ』とJリーガーになる夢をあきらめず、追いかける選手が1人でも出てきてくれれば。
自分の好きな言葉に、「見ている人は、見ている。見てくれている人は、絶対にいる」というのがあるんです。FC今治で活躍することが、その言葉に説得力を持たせることにつながると思っています。
その言葉を意識するようになったきっかけは?
高校2年でレッズのキャンプに参加させてもらったとき、阿部勇樹さんに直接、言っていただいた言葉です。もともと僕は阿部さんのプレーが大好きで、心から尊敬する存在でしたが、キャンプということで食事のテーブルが一緒になったんです。
高校生活とかユースの生活とか、サッカー以外のこともいろいろ話すことができたのですが、その中で阿部さんに「これからトップに昇格できるかどうかというシビアな時期になる。トップの監督が変わることもあるし、みんなにとっては難しい1年になるだろう。個人的にサッカーがうまく行かないことも絶対に出てくる。ただ、どんなときも見ている人は見ているし、見てくれている人は必ずいるから、折れずに、ひたむきにサッカーをやり続けてほしい」という言葉をいただきました。
それ以来、阿部さんの言葉をずっと意識し続けています。尊敬している人からの直接の言葉ですからね。大きいですよ。
今シーズンの今治では僕だけでなく、友貴や(弓場)堅真といったように、JFLから上がってきた選手がプレーしています。活躍できると僕らが証明すれば新たに道が切り開かれると思うし、その分、責任も感じます。下のカテゴリーから上がってきた選手たちが熱量を持って戦える、やれると示したい。それを楽しみに、シーズンに挑みたいと思います。何が何でも、このチャンスを生かします。
取材・構成/大中祐二