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凡人の存在意義|大石俊輔

Profile
#33 MF 大石俊輔
出身高校:都立三鷹中等教育学校

徹底したハードワークと正確な長短のパスで攻撃のリズムを生み出すMF。ピッチ上で常にチームへの声を絶やさず、さらに高みを目指す姿はチームを鼓舞し続けた。

みなさんこんにちは。
 
引退から2か月、ケニアから帰国して1か月が経ちました。何事もなく帰って来られるのかという周囲の心配をよそに、とても充実した3週間を過ごすことができたのですが、滞在中に秋学期の期末レポート1つといつの間にか始まっていた冬学期の感想コメント4つを出し忘れ、念には念を入れるつもりで申し込んでいた冬季集中講義に出席することが決まりました。
 
そのせいで最近は、卒業できなかったらどうしようという漠然とした不安を感じながら、卒論のためにケニアで収集したデータの分析に追われる日々を送っています。外国人が自分しかいないケニアの町ですれ違う人全員からじろじろと見られ、”Chinese!”と叫ばれ続ける日々の中でメンタルはかなり鍛えられたつもりだったのですが、さすがにこればかりは「ハクナ・マタタ(スワヒリ語で「心配ないさ」の意)」とはいきません。
 
さて、本題に入り卒部ブログですが、おそらく文才もなければ洒落た構成を考えるのも面倒くさいので、自分が思っていたことを時系列に並べて書いていこうと思います。誰かの心に刺されば幸いです。
 

期待

4年前、戸田さんが監督に就任しグラウンドが人工芝になったア式に、ほとんど迷うことなく入部した。高校最後の大会に怪我で出られなかったこともあってか、サッカーをやめる選択肢はなかった。中学から6年間一緒だった日向大がいたのも大きかったと思う。当時、戸田さんは技術で勝る相手にインテンシティで立ち向かうスタイルを掲げており、高校時代に献身的な守備を強みにしていた自分にはぴったりだと、夏までにはAチームに上がりたいと今思えば大層な目標を掲げていた。
 
そうして、初対面の人には壁を作りがちな自分にも気さくに話しかけてくれた優しい先輩方と、直紀さんが考えてくれる新鮮な練習メニューのおかげで、高校時代と何ら変わらないサッカー中心の大学生活が始まった。
 

怪我

ところが、というか、案の定というか、入部からまもなくして高校時代も苦しめられた股関節の怪我を再発してしまう。そしてこの怪我には大学3年の冬までの間、何度も苦しめられることになる。思えば高校からのサッカー人生は常に怪我の恐怖と隣り合わせだった。

練習中に痛みを感じて練習を抜けるとコーチに伝えに行く時、またしばらくサッカーはできないんだろうなと半ば確信しながらわずかな可能性を信じてアイシングをしている時、翌朝起床と共に痛みを感じた時、数か月のリハビリの末に復帰を焦り再発した時。こうした1つ1つの瞬間の絶望は、最後の1年間を怪我なく過ごし、さらに引退から2か月が経った今の自分が言葉で表すには申し訳ないくらいに深く、「あんなにリハビリを頑張ったのになんでまた」と何度も人知れず涙した。
 
また、怪我から復帰しても、高校までと違い特に守備面で明確な原則を持ち、周囲の選手との連動が重要になるア式においては苦労することが多かった。自分のところでプレスを剥がされることを繰り返し、得意なはずだった守備でチームの足を引っ張った。さらに、かつてBのスタメンや2チーム目で一緒にプレーした同期が次々にAチームに抜擢されていくのを見て、焦りや悔しさも感じていた。特に、中学から一緒にプレーしてきた日向大が公式戦で活躍し、中高の友達との間で話題になった時は悔しかった。
 
しかし、毎朝5時に起きて行っていたリハビリが意味をなさないかのように、1〜2か月プレーしては怪我を再発し、同じくらいの期間を離脱する、ということを3年のシーズン終わりまで繰り返した。
 

過信

一方で、怪我さえなければやれるという自信もあった。これらは後に過信だったと分かる時が来るのだけれど、「高太の守備は自分にもできるし、ボールの扱いは自分の方がうまいからいつでも勝てる」と思っていたし、「いくら周りから上手いと言われていても自分は日向大のボールを取ることができるし、相手にいても怖くないから大丈夫」と考えていた。
 
今思えば当時は自分の能力を客観視できていなかったし、仲間に差をつけられる不安を押さえるために自分に言い聞かせていた面もあったのかもしれない。高太の守備の鋭さが自分にはないものだと気づくのは3年生の終盤になってからだった気がするし、Aチームで日々レベルの高い練習をこなす日向大のボールはいつのまにか取れなくなっていた。
 

絶望

そんな中で迎えた3年の春。危惧していたことが起こる。ビルドアップの練習で新入生の慧がアンカーにコンバートされ、そのままポジションを奪われた。当時Bチームの監督だったフジが「慧、アンカーやってみて」といったあの日のあの光景は今でも目に焼き付いている。その週の練習試合でもBチームの2本目に回り、いざ出場した60分間でも悲惨な出来に終わった。
 
ボールを持っても何もできず、試合全体をコントロールするというボランチの理想からは程遠い現状を思い知らされた。サッカー選手としての限界が見えた気がして、目標としていたリーグ戦出場はおろか、Aチームにすら上がれないまま引退を迎えるのではないかと恐怖した。どうせリーグ戦に出られないなら今辞めても変わらないのではとすら思った。サッカー大好き人間の自分にとって、一瞬とはいえサッカーをやめることが頭によぎったのはこの日が最初で最後で、そのくらい絶望は大きかった。
 
その年はなんだかんだでBチームのキャプテンを任せてもらったり、夏オフ明けに初めてAチームに上がったりと様々な経験をしたけれど、一番印象に残っているのはこの苦しかった4〜5月のことだ。当然ながら、1個上の代の華々しい2部優勝までの道のりは全くと言っていいほど印象に残っていない。
 
 

決意

そんなこんなでついに最上級学年になると、自ずと残されたわずかな期間の中で自分は何を実現できるのか、自分の強みは何か、チームのために何ができるのか、などそれまで考える必要がなかったことも含めたくさんのことを考えるようになった。その結果たどり着いた目標は、精神面でチームに不可欠な存在になることだった。
 
決意が芽生え、固まっていくまではいくつかの出来事があった。かねてからチームの雰囲気について話題になるたびに「戸田さんがいた頃の練習はきつかった」と思い出を語る同期には「高い基準を知っているのになんで変える努力をしないんだ」と思っていたし、卒部ブログで「練習が緩いのは分かっていたけれど変えられなかった」と悔いる先輩方を見るたびに、自分は後悔したくないという思いは強くなっていった。2023年シーズンの終わり、いつものようにシ式と琳太朗で行った飲み会で琳太朗が涙をこぼしたのを見て、声には出さなかったけれど、「来年は自分がチームを変えよう」と心に誓ったのも覚えている。
 
そして、不運にも肘の怪我でBチームからのスタートとなった新シーズン、開幕から負け続けるチームを外から見ていて、落ち込む仲間を励ます資格もないとふがいなさを感じるのと同時に、自分ならチームの力になれるのではという思いは強くなっていった。
 
気持ちの変化は様々な所に表れた。去年までは面倒くさくて嫌いだった応援も、明らかに技術で上回る相手に対してスプリントを繰り返し、身体を投げ出して守り続ける仲間を少しでも支えようという気持ちでするようになったし、体力的にきつくもない応援で気持ちが切れているようでは、いざ自分が出場して苦しい展開になった時に戦えるわけがないと試合終了の笛がなるまで声を出し続けるようになった。
 
Aチームに戻ってからは、練習に取り組む姿勢や声かけによって練習の強度を高く保つことにトライした。いつかの木室さんとの話し合いで、「周りの目を気にせず声を出せるのは自分の強みだと思っている」と伝えていたし、やっとそれを体現できる機会が来たという気持ちだった。
 
前向きな声を出し、チームを鼓舞し続けることは難しい。特に、体力的にしんどい時、チーム内での序列が高くない時、相手との仲がいい、もしくは逆に関わりがない時など、躊躇するタイミングはたくさんある。多くの人はこれらに負けるか、周りからの目を気にし、自分が言っても説得力がないだろうと言い訳をしてしまう。真面目で優しい、自己主張の少ないシ式の中で、ここで馬鹿になれるのは自分しかいないんじゃないか。練習を重ねるごとにこの思いは確信に変わり、またそこに試合に出られない自分の存在意義を見出していく。ア式での4年間で、時にチームメイトから、時に対戦相手から、自分が凡人であることを何度も思い知らされた。自分には他人に誇れるような技術も、スピードも、フィジカルもない。消去法だったのだろうか、いつからかメンタリティが自分の最大の強みだと自覚するようになっていた。
 
それ以来、相手が誰であっても、真夏の地獄のような暑さの中でも、思ったことは指摘し、前向きな声をかけ続けることを心がけた。もちろん、高いレベルでのプレーに慣れた人たちにとってはまだまだ物足りない強度だったかもしれないし、さぼる余地は残っていたかもしれない。もしくは所詮試合に出ていない選手の言葉の説得力には限界があり、自己満と言えるような努力だったかもしれない。ただ、練習の強度を高められたと感じた週は試合でのパフォーマンスもよくなるという実感があったし、実際にリーグ再開後のチームには少しずつ結果もついてきた。

成長

そしてもう一つ、サッカーが上手くなることにも今までで一番真剣に向き合った。夏オフ中にノリからアドバイスをもらい、意識して身体の向きを変えたことで、後ろからのボールをターンしたり、ダイレクトで前線の選手につけたりできるようになった。文字通り見える世界が180°広がったような感動を覚え、毎日の練習が楽しかった。これほどの短期間で言語化できるほど成長を実感したのは、15年間のサッカー人生で初めてと言っていい。
 
このペースで成長すればリーグ後半戦は試合に出られるのではと思えるようになり、実際に3試合のベンチ入りを経て、再開明け4戦目の武蔵戦で20分間ではあるけど初めてリーグ戦に出場することができた。ベンチで名前を呼ばれた時の身震いと、初めて浴びたリーグ戦の声援は忘れられない。結局試合には1-5で負け、客観的に見れば降格がほぼ決まった試合だったのかもしれないけれど、うなだれる惇樹を横目に「ここからが勝負だ。残りの試合に全部勝って絶対に残留する」と強い希望を持っていた。
 
それだけに、何のFBもなく試合当日にベンチ外を告げられ、2人の退場者を出して大敗した東大戦の後は気持ちを保つのが難しく、みるみるうちに練習に身が入らなくなっていった。残留という目標がなくなり、何のために頑張ればいいか分からなくなって、何年も続けてきた練習前のリハビリもやらなくなった。最後は流行り病に感染し、グラウンドの脇でマスクをして引退することになったけれど、その頃にはすでにモチベーションも下がっていたのであまり悲しくはなかった。だから慧、安心してな笑
 
ア式での4年間に後悔も未練もないけれど、もし1つあるとすれば、もっと早くから「サッカーを上手くなること」に向き合っていればな、ということだと思う。怪我が多く、再発を防ぐための身体づくりやフィジカル強化に意識がいってしまうのは今考えても仕方のないことだけれど、筋トレのセット数のように努力量を可視化できず、成長を実感するのにも時間がかかるサッカー的な弱点の克服からは目を背けていた。今年の夏以降、あと数か月あればもっと上手くなれるのにと何度も思ったが、少し遅かった。
 
そうは言っても、やはり「やりきった」という思いが勝る。惇樹や高太が苦しい心情を語る中、自分が清々しい思いでいていいのかと思うこともある。自分が感じている一種の達成感は、チームを背負って立つ責任も、手も足もでないような強敵に立ち向かい打ちのめされる苦しみも知らなかった者のしょうもない特権なのかもしれない。もしくは、15年間のサッカー人生に後悔があってはいけないと自分に言い聞かせているだけかもしれない。それでも今は、リーグ戦出場を諦めかけた3年の春から這い上がり、チームを支える努力を怠らなかった自分を褒めてあげたいという思いが強い。
 

感謝

ここまでさんざん綺麗ごとを書いてきましたが、ア式での充実した4年間はたくさんの仲間の支えがあってこそのものでした。それぞれに感謝の言葉を伝えさせてください。
 
後輩、主にス式へ。まずはBフレンズ。Bチームで過ごす期間が長く「こんな練習じゃ上手くなれない」と環境のせいにしてふてくされそうになった時、応える人がいなくても声を出し続け、真摯に練習に向き合う松ちゃんや湧賀の姿を見て何度も立ち直ることができました。感謝しているし、心から尊敬しています。
 
Bチームの同期が少なくなり、孤独感で部活があまり楽しくなかった時期、ほぼ毎日一緒にご飯に行ってくれてありがとう。リスペクトと親しみをもって接してくれたみんなのおかげで笑顔でいることができました。寄せ書きで、俊輔がリーグ戦に出場した時は自分まで嬉しかった、誇らしかったと言ってくれた人が何人もいてとても嬉しかったです。来シーズンはBフレンズの中から自分の出場時間を超える人が出るのを楽しみにしています。
 
そしてAのス式。自分より一回りも二回りもスケールの大きいプレーを当たり前のようにやってのけるみんなと一緒にプレー出来て幸せでした。浪人してたりフレンドリーなやつが多かったりでどっちが先輩だか分からなくなることも多々あったけど、そのくらいの距離感が自分にとってはとても居心地がよかったです。
 
最後にシ式へ。初めは6年間をともにした中高の友達以上の仲にはなれないだろうと思ってたけど、終わってみれば毎日のように笑い転げる日々を共にし最高の仲間になりました。真っ先に思い出すのは昼飯のことばかりだけど、いくらじゃんけんに負けても懲りずに昼飯に行っちゃうくらい、みんなと過ごす時間は楽しかったです。これからも一生よろしく。

思い出は書き始めるときりがないのでここで終わりにします。みなさん今まで本当にありがとうございました。みなさんが後悔のないア式人生を送れるように願っています。
 
大石俊輔


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