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逞しくあれ|羽根洸至

Profile
#3 DF 羽根洸至
出身高校:県立宇都宮高校

高い対人能力で相手の攻撃の芽を摘む長身CB。今季リーグ前半は副将としてゲームキャプテンを担い、怪我で離脱後もグラウンドに通い続け、ピッチ内外で尊敬を集めた。

2024年度第2回関東大学サッカーリーグ戦 東京・神奈川 1部
22試合・勝ち点9 (勝2 分3 負17)・得失点-58
12チーム中12位 2025年度は2部リーグに降格。

2部リーグ優勝(22試合・勝ち点52(勝17 分1 負4)・得失点45)と1部リーグ昇格という昨シーズンの華々しい結果とは対照的に、今シーズンのこの結果もあったし、シ式(同期・2025年卒)は公式戦に出場した選手もしなかった選手もスタッフも皆がそれぞれ苦しい思いをしていたと思う。ピッチの中からも外からもみんなを見て勝手にそう思っていたし、そんなシ式にそれぞれの卒部noteについて聞いたりしたら影響されてしまうので、誰にも卒部noteについての話を聞くことなく書いています。みんなの卒部 note楽しみにしています。

僕は不器用な人間です。初めてやることなんて基本的にうまくいかないし、「なんでこんなことが出来ないの?」とか言われた経験はこれまでに数え切れないほど。悩んだりしたこともあるけど、さすがにもうそんな自分との付き合い方も分かってきました。1度や2度失敗をしてもちろん落ち込むけれど、「次こそは出来る」みたいに思い込むところから始めて、「これだけやったなら大丈夫」みたいに自信を持てるほど地道に積み重ねる。そんな愚直に努力できるところは自分の良いところだと思っているし、その良さが表れた 4年間だったと思う。

1 年目
周囲についていくので精一杯だった。今でこそサタデーリーグはBチームにとっての公式戦になっているが、当時はAチームの控え選手が多数出場していた。当然出番なんて全く回ってこなかった。入部当初に「大学生になってから技術的に成長することはない」という前提で話が進められていて、初めて聞いたときは受け入れたくなかった。でもやっぱりあれは正しいのかなって何度も思った。色々な人のサポートの中で週6日もサッカーに時間を費やすことが出来ているにも関わらず、何も得ることが出来ない自分が情けなかった。ベンチからBチームの試合を見ることが多かったし、1 年を通じてBサブだった。(ア式には例年A・Bチームの2チームが存在し、各チーム20人前後の選手が存在。A・Aサブ・B・Bサブの実質 4カテゴリーで活動)立教大学に惨敗したあのサタデーも他のシ式は先発・途中出場してたけど、ずっとベンチで見てた。理想と現実の乖離に悩むこともあったし、あんまりサッカーの話を聞かれたくないこともあった。試合に出るとかカテゴリーとか目に見える結果は表れなかったけど、それでも自分が入部当初に比べて相対的には上達している感覚はあった。

2年目
怪我人の影響もあって、年明けのAチームの公式戦のアミノバイタルカップに先発出場という大抜擢。初めての公式戦は工学院大学との試合。DFというポジションも影響するのだろうけど、勝利の瞬間は嬉しさよりもほっとする安堵の気持ちの方が大きかった。リーグ戦の開幕戦では武蔵大学に勝利した。そこから2022シーズンには公式戦に出場することは無かった。ずっとAチームのベンチから試合を見ているだけだった。ベンチに入っても試合に出ることはなかった自分を見かねてか、開さんの(コ式・2023年卒/駒沢での有観客試合ではお世話になりました)「交代枠の5人を使い切ってもアップし続けてよ。俺は見てるから」という謎発言も。あれは開さんなりの自分に対する優しさだったのでしょうか。

8月の夏オフ明けの後期からはリーグ戦や練習試合を含む対外試合に全く出られなくなった。リーグ戦はアウェー開催が多く、公式戦に出場しなかった選手で行う後試合も無かった。Aチームで練習しつつ土日はBチームの試合に出場する選手もいたが、その練習試合にも参加しなかった。結局2か月ぐらい対外試合に出場することが出来なかった。自分の成長を実感できる機会も中々なかった。正直何のために練習しているのか分からない時期もあった。自分がただの人数合わせのような気もしていた。当時はあまり分からなかったけれども、4年間を通じて毎年こういう立場の選手はどうしても生じてしまうものだと分かった。もし同じような立場の選手がいたら下を向くことなく自分なりに頑張ってほしい。ここが踏ん張り時だと思っていた。

3年目
昨シーズンはAチームのベンチだったから、今シーズンは公式戦に出場。なんてことは起こらなかった。何ならBチームでの活動がメインになった。3月のアミノバイタルカップではメンバーに入らなかったし、一橋が試合している中、工学院大学の試合の審判に行った。当時工学院の友達に「今日一橋も試合じゃないっけ?」なんて聞かれたときは、痛いところを突かれて何て回答したかも覚えていない。シーズン中盤にはAチームに上がった。ただ去年と同様ベンチかベンチ外を行ったりきたり。リーグ戦ではベンチ外になるたびに、同じようにベンチ外になった野口さん(サ式・2024年卒/似た境遇だったからこそ最終節の出場感動しました)からの「あれ、お前今日ここに何しに来たの笑?」や、ナベさん(サ式/相変わらずしょうもない話を繰り返していた)からの「今日はベンチでアップしてたよな?」とかいうブラックジョークもあったような。1年を通じて公式戦に出場することは無かったし、出場成績だけみれば去年よりも後退していた。そんな現実もあって自分に自信を持てないときもあった。評価を恐れミスが怖くなり、ボールを受けることすら抵抗を感じることもあった。そんなことでは上手くなる訳が無いと分かりつつも、そんな弱さを乗り越えられない自分に悩んだこともあった。それでも体感的に自分が出来ることは少しずつだけど増えているような感覚はあった。そんな積み重ねのおかげで、少しずつ自信がついてきた。

4年目
最高学年になったし、今年こそは試合に出場できるなんてことも無かった。これまでと同様ベンチから試合を眺めるばかりだった。副将なんて立場になったけれども、勝てないチームも踏まえて、自分の存在意義が分からないときもあった。小松さん(サ式/卒部note読み返していました)の気持ちもよく分かる気がした。シーズン当初に木室さん(2024シーズンヘッドコーチ/いつか木室さんのnoteも読んでみたいと思っています。)と話したときには、「今シーズンの目標は試合に出れられるように~」みたいな話をした。後々木室さんから「競り合いで負けないとか試合に出るというのは前提で、もっと高い目標を持っているもんだと思っていた」なんて話をされた。うまくいかない現実を前に、自分を信じて高い目標を持つことすら出来なくなっていた弱い自分を痛感した。

それでもチャンスは回ってきた。3月のアミノバイタルカップだったり、前期のリーグ戦では先発出場の機会を得た。勝てなかったし内容としても満足のいくものではなかった。改善点ばかりだった。ただ自分のこれまでの地道な努力が評価されるのは嬉しかった。大東文化大学との試合では、自分のプレーに対して4年間で初めて赤星さん(総監督/毎週水曜日はお世話になりました)から「勇気をもらった」という旨の賞賛の言葉を頂いたりもした。大学4年間のラストシーズンで、ようやくまず活躍の場を得ることもできた。結果は伴わなくてもチーム全体として少しずつ上向きになっていた。1年のときにずっと一番下のカテゴリーだった自分からは想像も出来ないほど成長できたし、こつこつ積み重ねてきてよかったなとも思った。ここから何かきっかけを掴んで、チームを勝利に導くと思った。高校の同期や大学の人など、ア式以外の人にも試合結果とかについて話をされることも多く周囲から応援されているのも改めて感じた。正直惨敗したときとかは試合結果なんて見てほしくないなんて気持ちもあったけれども、それでもア式の活動に興味を持ってくれてありがとう。

そんな折に6月の朝鮮大学校とのリーグ戦の最中に膝を怪我した。小学校1年生からサッカーを続けてきて、試合中の痛みなんて一時的なものだったし、時間が経てば治ると思って数分間はそのまま試合をしていた。ただ、痛みのあまり動けなくなって、ピッチ上に座りこんで途中交代。試合後に以前膝の怪我をしたクワジ(シ式/色々と尊敬しています)から、「当日は問題なかったけど次の日めっちゃ痛くなったよ」とか言われた。幸い当日病院に行ったときは問題なかった。それでも次の日に腫れていたらどうしようとか思って、寝るのもめちゃくちゃ怖かった。

人生で初めての大きな怪我だったし、怪我との向き合い方とかも分からなかった。大学4年間の集大成の時期の怪我だったし、かなり落ち込んだ。皆と一緒にいるときは何ともなかったけれど、やっぱり精神的にやられた。1人になるとどうしても考えてもどうしようもないことばかりを考え続ける負の連鎖も何度も経験した。いつも通り練習に出るとか最低限のことは出来ていたけど、それ以外のことは何にも手につかなかった。たかが怪我で色々と動じる自分が悔しかったし悩んだりもした。

それでも復帰に向けて地道なリハビリを続け、1 か月弱経った 8月頭には練習に復帰できた。

ただ復帰 1 週間後の練習中にまた膝を怪我した。膝が外れる感覚だった。前回とは比にならないくらい痛かった。「もう終わりかもな」と、ピッチの横で安静にしている間に正直思ってた。でも、これまでそんなネガティブな雰囲気は出さないようにしていたし、どうしてもそんな弱音は吐けなかった。動けなかったこともあって救急車で病院に向かっているときも、同乗者のテツオに「これだけつらいことがあったら、もう今後は良いことしかないでしょ」とか強がっていたような。そんなときにテツオ(シ式/なんかアップの前に皆の前で話すのうまくなってたよな)には「馬鹿じゃないの」とか言われた気がする。そんなことを言っているテツオが涙目だった。当時も今もそれに関してだけは何にも言えてないけど、たぶんテツオも俺と同じように・同じ怪我をしたからこそ俺の気持ちが分かっていたのかな。多分お互いに不器用な奴だったりするのかも。

当時は膝を固定していた影響もあって松葉杖生活だったこともあり、小平グラウンド以外での外部グラウンドでの練習の 3日間は移動もできないし実家で生活していた。実家に居るとア式との関りも無くなる感覚もあったし、自分の怪我がどうなるのかという不安も薄れていた。自分にできることをやろうと思っていたし、迫る進捗報告会に向けて卒論に取り組んでいた。そんなときにSNSを通じて楽しそうにキックベースしてる皆を見た。それを見て楽しそうだなとも思ったけど、それ以上に「こんなところで何してるんだろ」って思わされた。皆が楽しそうに活動しているなか、自分だけ卒論をやっているのがみじめで仕方なかった。ゼミの卒論の進捗報告では進捗を褒められたりもしたけど、素直には喜べなかった。

腫れが引いてきたタイミングでまた検査をし、それを踏まえて診察する前日。怪我で一人だけ同期の中でも早く実質引退することになるのかもと思うと不安で仕方なかった。この数日前に 1年のころに授業が一緒だった野球部の友達(もしかしたらこれ読んでるのかも)にコミュニティが違うこともあったし、正直に結果次第では引退なんだよなみたいな話をした。そしたら「甲子園の登録メンバーから外れた選手は、メンバー発表直後には選ばれた選手に対して頑張れとか鼓舞をして、後になって裏で一人で泣いてたりするんだよな」とか言われた。ほんと悪知恵を授けられたよ。

次の日はBチームが東京工業大学との練習試合で、その後Aチームが玉川大学との練習試合、両チームの活動の間に診察だった。時間もあったしBチームの練習試合にも顔を出して、加久保(シ式/最終節に色々驚かされました)とかマサ(シ式/マサの東京都立大学戦のゴールたまに見返します)にもしかしたら引退かもみたいな話をした。病院で診察を待っている間に、加久保が診察結果を聞くために電話をかけてきたりもした。診察では「前十字靭帯の損傷で手術をしない限り競技復帰は出来ない。競技復帰には手術から8か月ぐらいかかる」という事実が淡々と説明されていった。現実を受け入れられないまま、会計を済ませた。加久保に「引退」とLINEで伝えた。加久保から返事は来なかったな。(後々リアクションはしていたことは判明)現金が無くなったからATMで現金を下ろすことにした。でもキャッシュカードを持っていなくて、現金を下ろすことも出来なかった。ここで初めて現実に戻されたのか、一人ATMの前で号泣。

その1時間後ぐらいにはAの練習試合があった。皆に「俺引退だわ」とだけ、まるでさっきまでのことは無かったように平然を装って伝えた。多分皆にも色々と気づかれることもなかった。俊輔(シ式/ケニア楽しそうだね)に「なんでそんなに平気そうなの?」って聞かれた。「まだ現実受け入れられてないんだろうな」なんて嘘をついた。というか、これしか出来なかった。ネガティブな雰囲気を出したら、皆に気を遣わせちゃうことはこれまでの経験で分かっていたし、それに練習試合の前にそんな雰囲気になっても。あとはあの話が頭の片隅にあったのかも。

そこからはなるべく執着しないように心がけた。「もし怪我しなかったら~」なんて考えれば考えるほど苦しかった。ただ「4年が下を向いていてもな」なんて思って、そんなネガティブな思いは押し殺すように、これまで通りにするようにしていた。それでもマーカーを置いたりとか自分にできることをやったりしてるときには、未練と無力感ばかりを感じた。それにグラウンドの端っこでリハビリしながら、練習してる皆を見るのは羨ましかったし、何ならもはや見られなかったりもした。怪我するまで当然だと思っていたものが急に無くなった。

予想以上にキツいことは多かった。後期のリーグ戦の登録メンバーに自分の名前が無いのを確認したとき。戦術を確認するボードから自分のマグネットが無くなっているのを見たとき。マネージャーの皆が練習や試合の際に一眼レフで撮影してくれる写真から、自分の写真が明らかに少なくなったのを感じたとき。ア式のSNSを追ってる友達に「怪我でもしたん?」なんて聞かれて「膝の怪我でもうプレーはできなくて~」なんて答えたとき。何度も「もう本当に終わったんだな」と思わされた。どんなことがあっても腐らない・諦めないことが良いことみたいな風潮あるけど、腐らないからこそツライこともあるんじゃないかなとも思った。

自分がピッチを離れてから、チームが勝ち点を積み上げ始めた。嬉しかったけど手放しで喜べないこともあった。自分がチームの足枷になっていたのかもと思った。チームが惨敗を喫したときには、憤りを感じることもあった。悔し涙を流す部員を見て、ピッチに立てない以上そうした経験すらも出来ない自分を痛感した。何とも言えない無力感を感じた。「サッカーができる・試合に出られる。それすらも羨ましいんだよな。」試合後に落ち込む部員に、そんなことは当然言えなかった。「お疲れ様」としか言えなかった。これが正解だったのか。

それでも自分にできることをやろうと思った。毎回の練習ではグラウンドで、地道にリハビリを続けた。焦点があたるのはチームの結果やそこに至るまでの過程ばかりで、もう練習に参加することすらできない自分の膝が徐々に曲がるようになることなんて、別に誰も気にならないよなぁなんて疎外感もどうしても感じた。特にチームの調子が上がり一体感が高まり始めたときは、猶更だった。だからこそ日を追うごとに膝の曲がる角度が大きくなる・不自由なく歩ける・ジョギングが出来るようになっていくことについて、選手やマネージャーの皆に言われると嬉しかった。誰かに褒められたり、賞賛されたりすることが目的で努力していたわけではないけれども、それでもどこか救われた気持ちがした。本当にありがとう。

ピッチの外から皆の活動を見るようになってからは、多くのことを学んだ。それまであまり話さなかったような人とも話すようになって、マネージャーの皆の仕事やそのありがたみも改めて分かるようになった。練習に参加できないこともあって赤星さんと話す機会も増えた。10月の学習院大学との試合の後に、試合に出ていなかった惇樹(シ式/本当にお疲れ様)・志音(シ式/個人的に卒部note期待しています)・加久保に気まずい雰囲気になるのも覚悟で「もう俺はプレーできないし、最終節は俺の分まで頑張ってくれ」みたいに本音を言ってみた。そんなときに赤星さんに「まだお前にもできることあるんじゃない?」みたいに言われ、どこか逃げているような自分の考えを改めさせられたりもした。

それにシ式の皆は頑張っていたと改めて感じた。例えば、4年間を通じて練習後にあれだけ皆で走っている学年は無かったと思うよ。結果という分かりやすいものが得られず、注目されなかったかもだけど、純粋にすごいと思ってた。

怪我をしてよかったことはさすがに無いけれども、怪我をしなければ分からなかったことは多かった。例えば松葉杖を使う不自由な生活を送ったことで、自分の価値観が広がったりした。それにキツいときに支えてくれる人のありがたさを改めて感じた。落ち込んでいるときに「なんて声をかけたらいいか分からない・一緒にいると気まずい・しんどい」みたいな感じで人に迷惑をかける感覚もあったけれど、それでも自分を助けてくれた皆には感謝しかありません。自分も本当に助けを必要としている人を助けることが出来るような人間になりたいと思っています。未熟な自分に気づかされる機会も多かったけれども、その分精神的に成長することが出来た。

入部当初に遠藤さん(コ式/ピッチ内外でお世話になりました)に「この部活に悪い人はいない」なんて言われたけど、ア式での4年間で自分もそう感じた。それぞれ個性や癖があったりするけれども、本当に活動していて心地の良い人たちに恵まれていた。年々部員も増えていって今では90名程度が所属する組織になり、どうしてもそれぞれの関わりが希薄化していく中で、表彰制度(部員が一定期間に活躍していたと思う部員に投票する制度)みたいな学年やプレイヤー・スタッフ問わず多くの人に注目する機会をうまく制度化出来つつあることは良いことだと思う。それでも組織全体としてまだまだ改善点はあると思う。みんなで話合ってよりよい組織を作り上げてくれたら。

加えてア式のユニット活動(ピッチ外で各部員が行う活動)では、事業部の1員として1年次は部活のグッズ作成・2年次は高校生のリクルート活動・3年次は公式ラインの作成・運営に携わらせてもらった。どれも 0からの活動でかなり困難に直面したけど、一応何とか形に出来た。

1年のときは 100周年記念グッズの管理や、グッズを箱詰めしてコンビニまで何箱も抱えていって発送したり。2年のときはその年唯一の有観客試合だった駒沢での東京大学との商東戦に、高校生を招待する企画で相原さん(サ式/おかげで気楽でした)を巻き添えにしながら、まるで呪文のような長文で教えを説かれたり。あのときは開さんのファインプレーに救われました。3年のときはア式の認知拡大のために部活の公式ラインを新規作成。毎月 5500円も掛かる公式ライン運営費用をどのように確保するか・何を提供するかを皆で考えた。数十名の有料会員の方向けの個人写真集作成のために、毎週数千枚の写真を何十周もして手動で振り分けるのとかはきつかったな。google photo の顔認証機能がもっと高性能だったらと何度も思った。それでもラインを通じて保護者の方から感謝されたりするのは嬉しかった。

僕が関わっていたときはどのコンテンツも手探り状態で粗削りだったけど、今はどれも見違えるほど改良されているし役割分担とかもうまく整理されていて、純粋に素晴らしいと思う。ユニット活動が年々進化していて驚くばかりだし、今後の更なる発展に期待してる。

これを執筆している11月中旬現在は手術を終えてリハビリの最中です。最近は松葉杖なしで歩けるようになってきました。一つ一つ困難を乗り越えていく感覚は、自分の中で自信につながっています。元気になったらシ式の皆さんまたサッカーしましょう。よろしくお願いします。

最後に

後輩へ
例えば人工芝のグラウンドで自由にサッカーすることだったり、様々な活動が不自由なくできることにまず感謝するようにしてほしい。うまくいかず悩むことがあっても、実はその悩めるということすらも恵まれていることだったり。振り返れば4年の6月にピッチを退くことになった自分の言葉なら、伝わるんじゃないかなと思ってる。

両親へ
「試合に出るときは見に行くから教えてね」みたいに言ってくれていたけど、コロナや自分のパフォーマンスもあって、それが実現するのは大学4年になってしまいました。それに怪我もあって数試合しか出場できなかったけど、それでも試合に出る姿を見せることで一つ恩返しができたと思ってる。遠くからわざわざ小平とかに来てくれてありがとう。小学校1年から大学4年まで不自由なくサッカーができたのは、間違いなくみんなのおかげです。今もリハビリなどでお世話になっている最中ですが、これからもよろしく。

卒部noteに何を書くか迷った。もっとサッカーについて具体的に書くもの・示唆に富むようなものなのかと思った。そこに4年とか副将とかいろんな立場もあったから、誰にも話さなかったような具体的な思い・エピソードを今更書くのもどうかなとも思った。もう少しかっこいい内容が良かったけれども、そんな綺麗ごとを書けるような訳でもないし、そういうのは他の人が書いていると期待してる。良くも悪くも他の人には無い貴重な経験をたくさんしたし、正直に書いてみました。

4年間で楽しいことや辛いことを含めて色々経験した。困難があっても逃げることなく自分なりに努力すればいいと思う。たとえ結果が付いてこなくても、時間が経てばそんなことあったなと思えるし、それすら財産なのかも。

自分自身うまくいかないときに先輩の卒部note を読んだりもしていたし、自分の note も何か伝えられたらと思っています。

なんだか長くなってしまったかもしれませんが、一橋大学ア式蹴球部には 4年間で大変お世話になりました。非常に楽しい 4年間でした!これからは一人のOBとして、皆さんのことを応援しています。

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