見出し画像

副将とは名ばかり|小松怜平

profile
#5  小松怜平
出身高校:道立札幌南高校
ポジション:CB
恵まれた体躯と機動力を兼ね備えた大型CB。怪我を乗り越えサタデーリーグ、都リーグに復帰しチームのロールモデルとなった。
 
小松怜平からのラストメッセージ

1分間

「練習の雰囲気も緩いし、最高学年として指摘すべきことを言えないでいる。俺はシーズンが終わったときに絶対後悔したくない。だから今この瞬間から変わるしかない。」

リーグ開幕戦で敗北を喫した翌週。水曜のトレーニング前に4年のプレイヤーだけでミーティングをした。ナベに意見を求められ、自分はこんなことを話したと思う。


部を引退した今、その答え合わせをしたい。このシーズンに後悔はなかったか。言葉通り自分は変わることができたのか。


 チームは2部リーグ優勝・1部昇格という最高の結果を手にした。ア式100年の歴史のなかでも輝かしく、また自分たち4年生にとってはまさに有終の美を飾ったといえよう。客観的にみれば後悔や思い残しなんてなさそうなシーズンだろう。仮にあったとしても、それを打ち消すくらいにこれ以上ない戦績を自分たちは残した。



正直に言う。自分にとって今シーズンは4年間で最も苦しく、最も悔しい1年だった。



チームが長年の目標を達成したのに?

でも快挙を成し遂げたその輪の中に自分はいなかった。「いやいやお前がいたから」と否定してくれる仲間がいることは知っている。でも自分では到底そう思うことはできない。胸を張って「チームの優勝に貢献しました!」と言うことはできない。

 

 なぜか。


 ケガでほとんどサッカーができなかったからか。それもある。


アミノで帝京にリベンジを達成し、チームがまさにこれからというときに離脱した。すぐ治るだろうと高を括っていたが、結局復帰できたのは7月だった。リーグ戦はすでに半分を消化していた。チームは開幕2連敗が嘘のように、破竹の勢いで勝ち点を積み重ねていた。面白くなかった。観客席から自分のいないピッチを見ていて、1試合ごとにチームが完成度を増していく感覚が嫌だった。


夏オフが明け、自分はBチームからの再スタートだった。正直かなり落ち込んだが、朝早くから真摯に取り組む後輩たちを前にして腐っている暇などなかった。Bの基準を引き上げよう、なんでもいいから自分の経験を還元しようという考えとは裏腹に、ひたむきな姿勢やそのフレッシュさに奮起させられた。そして8月中にAに戻ることができた。


1分1秒でも多くリーグに出場する。それが残り3か月の目標だった。全試合出場すると豪語していた開幕前に比べればずいぶん基準は下がってしまったが、それでも当時の自分にとってはチャレンジングな目標だったといえる。なぜなら同じセンターバックを務めるキタガワとキムは、チームにとって不可欠な存在になっていたからだ。いくつもの試合を重ね、苦しい状況も勝利も経験してきた彼らは見違えるように変わっていた。そんな絶対的な2人を押しのけてリーグに出場するむずかしさは、Aに合流して一緒にプレーしたことでより一層実感した。それだけではない。ずっとAサブで練習を続けてきたノグチやコウシだって明らかに成長していた。2人の存在もまた、リーグ戦の舞台が心理的に遠ざかっていく要因だった。

 

だからといって、1度たりとも目標を諦めたことはなかった。実際、Aでのトレーニングは成長を実感できるものだったし、離脱していたころに比べればリーグ戦は手の届きそうなところにあった。ついにはベンチ入りもできるようになって、あと少し、という状況が続いた。意外にもすんなりと出場機会は訪れた。


 後半ロスタイム、残り時間は1分だった。実際には1分にも満たなかったのかもしれない。観客席から拍手で押し出され、試合終了の笛をピッチで聴いた。勝利後の儀式も、心から喜べたのは久々だった。


 これだ、と思った。本当にわずかな出場時間ではあったが、忘れていたリーグ戦の緊張感、勝利した後の幸福感を思い出し、このためならいくらでも頑張れると火が付いた。翌週からもそれまで以上に熱量を投じて練習に取り組んだ。


 しかし、それ以降リーグに出場することはなかった。昇格が決まった瞬間も、優勝が決まった瞬間も自分は応援席で太鼓をたたいていた。

 

今シーズン通算出場時間1分。これをどう捉えるかはむずかしい。出場したのは、残り時間を考えても一橋の勝利が決定的な状況だった。したというより、させてもらったに近い。これに関しては監督のショウに感謝しかない。この時だけではなく本当にさまざまな場面で支えてもらった。ありがとう。あの1分があったからこそ、自分はモチベーションを失うどころか再び燃やして取り組み続けることができた。

また長期の離脱から復帰して、よくそこまで這い上がったと評価することもできる。実際そう考えていた時期もあった。


 でも、贅沢を言わせてもらうが、引退して改めて振り返るとやっぱり1分間は短かった。あまりにも短すぎた。ボールに触れることすらできなかった。もっと多くの試合で、大勢の前で、同じピッチの上で戦いたかったし、チャントだって歌うよりは歌われたかった。


ずっと思い描いていたア式最後の一年とはあまりにもかけ離れた1年だった。

 だから自分は優勝に貢献したと言えない。でもこれは理由の半分にすぎない。


副将とは名ばかり

 もう半分、優勝に貢献できなかったと感じる理由があるとすればそれは「副将」としての自分だ。


副将に任命されたのは3年生の春だった。当時の主将のカトウさんから話をもらい、2つ返事で承諾した。すでに部の主力になっていたナベ、コバと3人で務めることになった。それまでのア式にはなかった役職で、ショウやカトウさんのサポートをすることが主な役割だった。自分としてはその責任や重みを特別意識していたわけではなかったが、以前よりも少しチームに目を向けるようになった。日々の活動がどのようにして成り立っているかがわかり始めた。


問題は今シーズンだった。ナベが主将になり、コバと自分は副将として続投することとなった。頼っていた先輩方が抜けて、いよいよ自分たちが部のマネジメントを一手に担うという実感があった。肩書きは同じでも、自分の中での位置付けは前年とは異なり、対外的に発信されるようになった分責任は増したし、なにかと発言する機会も増えた。


「副将」として心のうちで変化はあったが、実際自分はこの1年でなにか変われたのだろうか。振り返ってみればおそらくたいして変われなかった。それどころか3年生の頃の方が上手く務まっていたんじゃないかと思う時期もある。役職や責任に見合う振る舞いができていたかと問われれば、正直あまり自信はない。


自分を邪魔していたもの、それはくだらなくも高慢なプライドだった。「副将たるもの、こうあらねばならない」という信条だった。歴代の主将・GMのような求心力、コミットメント、絶大な信頼、勝負強さ、柔軟さ、タフネスが必要であると、そうならなくてはと思っていた。そしてその前提には常に「試合で活躍すること」が欠かせなかった。試合で活躍もできないのに「副将」を名乗るのは恥だと思っていた。


先にも書いたとおり、自分は今年ほとんど試合に出ていない。それは決してケガによるものではなく、ケガをする以前も同じだった。


新チームが始動してから1ヶ月、関西遠征でも自分はトップチームで出場していなかった。その後の練習試合、アミノでもスタメンにはなれなかった。リーグ開幕を目前に控え、試合に出られない焦りは増していた。それはいちプレイヤーとしてというよりは、副将“なのに”出られていないという事実に対してだった。


他方で昨シーズンからチームを引っ張っていたナベ、コバはいつしか絶対的な存在になっていた。2人は自分が目指すべき像そのものだった。彼らと自分を比べては埋まることのない差に悲観し、自信を失い、余裕を失い、もはや自分のことしか考えられなくなっていた。


追い打ちをかけるような出来事もあった。いつかの練習で、その日は就活か何かでナベとコバが不在だった。当然役職がある自分が中心となって雰囲気を作るべきだった。実際、かつてないほど練習にはハリがなかった。アップで声は出ない、普段よりイージーミスが連発する、ロンドでは守備に統率がなく延々とボールが回る、それを指摘する声もない。少なくとも開幕を直前に控えたチームの練習ではなかった。気づいていた、自分が指摘すべきだと。疎まれようが厳しい言葉をかける、それが自分の果たすべき役割だった。でも自分は逃げた。自信がなかったからだ。試合に出てもいない副将の言うことに説得力なんてあるのか。またしてもくだらないプライドが邪魔した。


先に口を開いたのは監督であるショウだった。

「ナベやコバ、キタガワがいないとろくに練習もできないのか。」

自分にとってあまりにも痛く突き刺さる言葉だった。ともにポジション争いをしていたつもりだったキタガワも、その頃にはすでにトレーニングの質を左右するような存在だった。悔しいなんてもんじゃなかった。たぶん自分が欠席していたとしても、「ナベ、コバ、コマツがいないと~」とはならないことに気づいてしまった。

そして同時にあまりにも多くのものを彼らに背負わせてしまっていることに気づいた。組織の幹部として長い間最も近い場所で彼らを見ていたにもかかわらず、その時まで気づかなかった。いや、気づきたくなかった。自分だけが組織を引っ張る覚悟、責任、気概をまるで背負えていない状況から目を背けていたかった。


 こんなことがあって果たして自分は変わったのかと言われれば、それでも変わらなかったというのが正しい。変わるどころかますます殻に閉じこもるようになっていたと思う。チームのことはそっちのけで、自分が出るためにはどうすればよいかばかりを考え、誰に相談するわけでもなくひとり沈んでいた。それほどまでにプライドが大事だった。自身のメンツを保つことに固執していた。

 

だからチームが開幕2連敗したときも、そのあと何連勝もしたときもあまり感情を共有できなかった。連敗後に重い表情のナベや涙を流すコバを見ても、反対に面白いほどに点が入った大量得点の試合を見ても、そこまで心は動かなかった。駒沢での商東戦のように、出場できずとも感動で涙があふれてくる熱い試合にはもう出会えないのかもなと思っていた。


でもシーズンも終盤に差し掛かったころ、ほんの少しだが変化があったように思う。気づけば自分の中で、高すぎるプライドとどう向き合うべきか考え始めていた。きっかけはよくわからない。復帰できたり、チームが優勝を目標に掲げ始めたりしたからかもしれない。親に指摘されたこともあった。ピッチに立てなくてもチームを勝たせようと、測り知れないほどの愛と時間と労力を費やしていたナオキを知っていたからかもしれない。1度は休部として部を離れた同期たちが、再びグラウンドに戻ってきたからかもしれない。似た境遇のはずのノグチが、毎試合隣で声を枯らして応援していたからかもしれない。理由は何であれ、徐々に自分がチームに対して何をすべきなのかを真剣に考えるようになった。


自分にとってそれは「部の精神性を体現し続けること」だった。文字にすると仰々しいが、実際は至ってシンプルだ。


仲間とのつながりを絶やさず、謙虚にひたむきにサッカーと向き合う


聞き飽きるほどに聞いた言葉ではあったが、結局立ち返るべき点はそこにあった。幹部だからどう、とか副将だからどうという感情はサッカーに取り組むうえでは不要だった。それよりもどんな選手になりたい、ひいてはどんな部員でありたいかの方がよっぽど重要だ。試合に出られなくても自分はア式の部員であるし、苦楽を共にしてきた仲間が目の前で戦っていれば本気で応援する。そう思えてからはリーグ戦の敗北は当然の如く悔しく、勝利は嬉しかった。特に昇格のかかった首位攻防戦では、1点差を死ぬ気で守り抜く仲間の姿を見て涙を流さずにはいられなかった。


「副将」という肩書に縛られ過ぎて、勝手に自分の中で理想像を肥大化させすぎたことで、最初の半年はチームに対してこれといった貢献をしてこなかった。実際、自分が「副将」を務められたのは最後の1か月、いや2週間くらいだったかもしれない。


この話を今シーズン初めの自分にしてもきっと伝わらないと思う。ア式での膨大な時間を経て得た気づきだ。気づくには少し遅かったかもしれないが、気づかずにふて腐れたまま引退するよりはずっとマシだったと思う。


さて、冒頭の発言に対する答え合わせだが、今シーズンに悔いはあるし自分はそれほど大きく変わりはしなかった。今だってプライドはよく姿を現すし飼い慣らせたわけでもない。チームは最高のシーズンを過ごしたけれど、自分はとてもじゃないが最高の1年だったとは振り返ることはできない。


だとしても。

だとしてもア式で過ごしたことに悔いはない。

さまざまな出来事を思い出しつつブログを書き終えた今、自然とそう思うことができる。


最後に

なかなかにネガティブ思考なので全体的に暗く、そして長くなってしまいましたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

自分自身も何かで行き詰った時は、よく先輩方の卒部ブログや同期のブログに目を通してはヒントを得たり、勇気をもらったりしていました。このノートも誰かに何かを与えられるような存在であればいいなと思います。


最後に、18年のサッカー人生で本当に多くの方々にお世話になりました。同期・先輩・後輩・家族をはじめ関わってくれた方々に感謝します。ありがとうございました。

小松 怜平


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?