見出し画像

変化に3年、成果に1年|塚本悟大

Profile
#4 DF 塚本悟大
出身高校:道立札幌東高校
高い身体能力と足元の技術を併せ持つ万能型CB。3バックの左右中央全てをそつなくこなし、スタメンに定着した今季はリーグ序盤から終盤までDFラインを統率し続けた。

北海道の田舎から出てきました塚本悟大です。東京では「変」と言われることもありますが、地元では何なら普通と言われてきた方です。自分でも、東京では気を抜くと浮いてしまうことに薄っすら気づいていたので、これでも変な目立ち方をしないよう注意はしていました。でも4年一緒にいると、やっぱりちょっとバレてしまいました。森谷、指摘してくんな。
東京というか、一橋の皆さんがすごいのかも知れません。すごくデリカシーあって人の気持ちを読み取れるし、やるべきことを自然と当たり前に継続できているように見えます。

近況の話をすると、僕はほんの少しだけワーカホリック気味なので、引退後の生活に耐えられていません。ひと月で22日間バイトして、何とか気を紛らわしました。でもまだ余裕があったので、先週からは新たにタイミーも始めました。余暇を楽しむって、大事だとわかっていても意外に難しいです。


卒部ブログの内容は、ア式に入った理由を少しと、人間性の変化(1-3年生)、そしてその成果もあってのプレーの変化(4年生)の計3つです。

大学でもサッカーを続けた理由

大学入学時にサッカーに満足して辞めることができないほど、高校までの自分はできることが少なかった。

中学では背が低くて体が細く、足も遅かったため、やりたいプレーがあまりできなかった。当時はいくら練習しても、家で寝っ転がってYouTubeを見ているような人にフィジカルでボロ負けし、いつも悔しい思いをしていたのを覚えている。食事記録をつけ夜21時には寝る生活をしていたが、うんともすんとも体は大きくならなかった。筋トレで怪我をし、リハビリの先生に教えていただいた体の使い方や運動科学も自分なりに頑張ったが、その成果が出始めたのは結局高校に入って以降だった。
やっとフィジカルで周りに追いつき追い越すことができるようになった高校では、それにもかかわらず大してサッカーに打ち込めなかった。片道2時間の通学であまり練習ができなかったり、コロナで3年生はサッカーをできず引退してしまったりで、思うようにサッカーと向き合うことができなかった。

12年サッカーをしても全くもって満足できず、今度こそはと意気込んでア式に入部した。そのため単純にもっと上手くなりたい、できることを増やしたいという気持ちで4年間を過ごしてきた。
その裏返しに、大学が最後のチャンスだという危機感も常にあった。


1-3年生での人間性の変化

と、目一杯のやる気と時間にも追い込まれながら入部した当初、気づくとシ式一番のスピードで遅刻を重ね、体調不良で月に1回は欠席していた。

用具施設の仕事ではミスを繰り返し、ビデオカメラを持ったまま頭痛で欠席した時には、とうとうこだ寮の玄関先で櫛田さんら4年生に説教を頂いた。またTMの設営中に欠伸をして「眠い」と言い試合に出してもらえなかったことや、5月なのに夕方の西日で熱中症になったこともあった。

前述のように、決してサッカーへの気持ちが適当だったわけではない。

それとはまた別に、細かいことは気にしないおおまかな性格で、かつ朝に弱すぎた。
サッカーだけ全力で頑張っていれば、他の時間は気を抜いても良いと考えていたのだと思う。

少しすれば、自分が周りにたくさん迷惑をかけていることや、自分の性格がア式で求められる人間性とはかけ離れていることに気づき始めた。特に当時は、「ア式の部員はこうあるべきだ」というイメージが明確にあって、自分はそれとは正反対だった。サッカー以外の時間でも部への貢献が必要なア式において、自分のような性格・考え方の人間は負の影響ばかり与えてしまった。

だからといって性格を180度変え、きっちりした勤勉な人間になることは簡単ではない。とりあえず寝坊しないよう生活リズムを整え、真剣そうな顔をして練習に参加し、余計なことを言わないようあまり喋らないようにした。

どうすれば良いかわからなかったので、一旦押さえつけて、迷惑をかけない、余計なことをしないようにした。集団での存在感を出来るだけ無くすことで負の影響を減らせるんじゃないかという、何とも短絡的でその場しのぎの解決策に逃げた。また、自分が周囲からあまり良く思われていないと自覚してしまったことで、割と萎縮したし自信もなくなった。


2, 3年生になって遅刻が減り、悪目立ちすることもなくなってきた頃、改めて自分の良くない面を思い出させられる出来事が起きた。

3年生の5月、リーグ防衛大戦で、開始すぐに自分のミスから失点した。後ろに相手FWが前残りしていたのは見ていたはずだが、まあ大丈夫だろうと気にしていなかった。結果、ボールを奪われて失点し、前半限りで交代することになった。


もちろん、その瞬間は絶望的な気持ちになった。初出場のリーグ戦、やっと試合に出始められると思った矢先に、気を抜いていたことが原因の大ミスをし、また周りに迷惑をかけてしまった。自分の悪いところが詰まった失敗であり、何も変わっていなかったんだなと気付かされた。うわべだけを変えたところで、大事な場面では根本の部分が出てきてしまうんだなと思った。

しかし、何よりも自分で驚いたのは、2日もすれば「まあしょうがない頑張るか」「もう流石に同じことはしないだろう」と考えていたことだった。前向きであると表現すれば良いように捉えられるが、実際は周囲にかけた迷惑や悔しさ・やるせなさをすっかり忘れ、何とかなるさと楽観的になっていた。

このままでは繰り返してしまうと気づき、ちゃんと向き合いちゃんと解決しようと決意した。防衛大戦でのことを毎日思い出し、むしろ自分から落ち込むことで深く捉えられるようにした。行動を大幅に変えて、自分の甘い性格を根こそぎ変えなければならなかった。


徹底したり継続したりする力を身につけるため、毎日練習のビデオを見返してノートを書き、夜にランニングを始めた。気を抜かずきっちりプレーし続けられる人間になるために、私生活から部屋を綺麗にし、後回し癖を無くして気づいた瞬間に行動するようにした。性格の悪いところを改善するのとは別に、ミス自体を減らすため練習でのミスの数を数えて分類し、それぞれの原因を解決していった。

当たり前だがすぐに直るということはなく、Bの試合では軽いミスから何度も失点の原因となった。当然だが呆れられ、チームメイトを嫌な気持ちにさせ、なのにむしろ気を遣わせてしまった。思いつく限りのことはやっているはずなのに、同じ失敗を繰り返し、全く前に進めなかった。
真っ暗で辛い時期に、「のりは大丈夫」と言い続けてくれた赤金には、感謝してもしきれません。大好きです。


こうして時間はかかったものの、できることをかき集めてやり続けていると、何となく良い方向には変化しはじめた。少しずつ、チームに迷惑をかけず、時々貢献できるようにもなっていった。そして3年の10月、Bチームのサ式引退試合となった東大戦では、目立ったミスなく試合に勝つことができた。勝てたのはサ式の先輩のおかげで自分はピッチにいるだけだったが、迷惑をかけず勝利に関われたというそれだけで本当に嬉しかったのを覚えている。

思い返せばこの時期は、私生活もサッカーに対する関わり方も大きく変化し、人生単位で見ても大きな転換期だった。


4年生でのプレーの変化

一方、プレーの面で最も成長したのは4年生だった。1部の相手はどこも当たり前のように上手く、当たり前のように強い。自分は手始めにリーグ開幕からの7連敗に関わり、肉離れで離脱した。
3バックの真ん中というポジション上、全ての失点の責任が多かれ少なかれ自分にあって、そのせいで惨敗し続けていたことも自覚していた。自分があと一歩動いていれば、早く気づいてコーチングできていれば、と試合後はたくさんの後悔が何日も続いた。ただ、できることは全てやっていたつもりだし、あれ以上の結果はやり直しても自分には出せなかったと思う。

余談だが、後の残留争いの時期に、「リーグ前半戦がもったいなかった」という声を聞いた時は悲しい気持ちになった。毎日死ぬ気でやっていたし、自分なりに責任も背負っていたつもりだったので、そんな風に切り捨てられるのは辛かった。


怪我人として外からチームを見ていた時間は、無責任で迷惑をかけてしまったものの(特にひまる、じゅんき、ごめん。ひまるには全敗に関与している苦しい状況を1人で背負わせてしまったし、じゅんきには慣れないポジションで苦労させてしまいました。)、自分にとっては本当に貴重だった。

中でも一番の変化は、練習量をかなり増やしたことだった。

一歩引いて客観的にみたチームは正直、相手と比較するとシンプルに下手だった。パスやトラップの小さなズレが常にあって、ボールを持っている時に顔が上がっていない。それではいくら完璧な戦術があったとしても、どれだけ頭を働かせてプレーできていたとしても、いずれどこかでボールを失ってしまう。
自分たちは何か問題が起きると、戦術をどうこうして解決しようとするきらいがあったが、それ以前の部分も大きいのではと思った。


そこからは、グラウンドが空いている時間中ボールを蹴るようになった。1-3年生で身につけた勤勉性の成果も出た期間だった。バイトのない日は昼間中、ある日は夜に、1分でも多くボールを蹴るようにした。小さな変化が本当に面白くて、1番サッカーが好きな時期だった。こだ寮に住んでいたのも良かった。グラウンドに出るだけで、何かしら成長できるという楽しみがあった。

「面白い」「楽しい」以外の練習のモチベーションも、たくさんあった。リーグ最下位最多失点のCBとして、少なくともリーグの中で1番サッカーに時間をかけなければならなかった。また、たとえ100回良いプレーをしても1度ミスして失点すれば大戦犯となるポジションだから、いくら練習しても足りなかった。さらに、当時シ式で流行っていた灼熱カバディで、「試合では3分の1も力を見せられるかどうか」的なセリフがあって、なら試合で求められる3倍は上手くならなきゃいけないと思った。

怪我の復帰後は、自分の変化にすごくワクワクしたのを覚えている。ボールを見なくてもプレーできるので目線を自由に動かすことができ、そこには今まで気づかなかったような選手・スペースの動きがあった。基礎技術に自信がつき、ボールタッチやパスに神経を使う必要がなくなったことで余裕ができ、より頭を動かしながら判断できるようになった。十分に見えているし余裕もあるので、相手のプレスも怖くなくなった。
サッカーできる喜びがあり、ボールに触れるのが幸せだった。正直、責任を自覚しているなら尚更、自陣ゴールが真後ろにあるポジションで「自信を持ってチャレンジをしろ」なんて言ってくるのは頭がおかしいと思っていた。だが、自分の場合は基礎技術への自信がついたことで、積極的なプレーもできるようになった。

もちろん、その後も失点は多く試合にも負けていたので、手放しに「楽しかった」とは言えないが、16年サッカーをした中で最もプレーすることにワクワクしていたのがこの時期だった。


まとめ

ア式での4年間は、たくさんの迷惑をかけてしまいながらもその分精神的に成長し、満足できるくらいサッカーに打ち込むことができた。


ひとつ後悔があるとすれば、こんな自己本位な結論で4年間をまとめてしまっていることだ。正直最初の頃は、サッカーが上手くなりたい、試合に出たいというのが先にあって、建前として試合に勝つために頑張っていた部分も少なからずあった。

だが、お世話になってきた両親や監督コーチ、先輩後輩、見てくれる友達のためにも、勝つことが1番だと本音で思うように変わっていったし、だからこそ降格は本気で悔しかった。できることなら、支えてきてくださった人達が喜んでくれるような結果を出したかった。

後輩の方々には、一つでも多く勝って、少しでも多くの喜べる時間を作って欲しいと思います。頑張ってください。


最後に

両親はこれまでサッカーに関することであれば何でも都合をつけてくださり、とてもお世話になりました。いつもありがとうございます。大学では直接プレーを見せることはできなかったし、負けてばかりで週末の家庭の雰囲気を暗くさせてしまっていたと思いますが、自分なりに頑張ったので帰省したら褒めてください。

またア式でサッカーを教えてくださった戸田さん、近岡さん、ふじ、木室さん、そして先輩の方々、本当にありがとうございました。無礼も多かったはずですが、広い心で受け止めてくださいました。皆さんが作り上げてきたア式に、とても貴重な時間をいただきました。

最後に、シ式の皆さん。最後までよくわからない奴だったと思います。ごめんなさい。言い訳させてください。サッカーに最低限でも満足できるようになったら、もっと気を抜いて楽しむようになるかと思ってましたが、結局そういった余裕を持てるような器量も結果もありませんでした。4年間ずっと自分のサッカーのことだけで一杯一杯でした。部活の後の飯も、みんなと食べているとその日のプレーのことを思い出してしまうのであまり喉を通らないことが多かったです(決してじゃんけんに弱いからではありません)。大学の友達と行く大野屋と、部活後にみんなで行く大野屋は、びっくりするくらい味が違いました。
ひどい態度のことも多々あったと思いますが、それでも仲良くしてくれたシ式の皆さんには心から感謝しています。社会人になってもよろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!