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正夢
profile
#staff 長島直紀
出身高校:県立長田高校
ポジション:部長
チームに新たな革新をもたらし続けた一橋大学ア式蹴球部部長。彼なくしてア式は語れない。
長島直紀からのラストメッセージ
「プロサッカー選手になりたい」
小学校の卒業文集に、汚い字で、力を込めて書いた。
3歳か4歳か、記憶のない頃からいつしかボールを追いかけていた。それ以来、約15年間、追いかけ続けた夢だった。
その終わりは、実にあっけなかった。
今思うと、よくもまあ、あれだけ必死になってた夢を簡単に手放したな、と思う。
実際プロになるなんて、夢のまた夢。
自分の技術、身体、努力じゃ遠く及ばない、身の程知らずの夢。
本気でプロになれると信じた小学生時代。
伸び悩み、夢が遠のく感覚に潰されかけた中学生時代。
現実を受け入れ、それでももがくことを選んだ高校時代。
結局、高校を引退するタイミングで「手術をしなければサッカーには復帰できない」「手術をしても半年以上かかる」ような怪我を負い、それを良いきっかけとして、言い訳として、ろくに悩むこともせず自然と夢に折り合いをつけた。きちんと振り返りもせず、納得するしないとかではない、安い判断。
高校サッカーの引退を期に、選手としての人生に終止符を打って、「サッカー人生のリスタートだ」なんて唱えながら、"大学サッカーの価値向上" "体育会サッカー部の価値拡張" というビジョン先行の大層な挑戦をア式蹴球部で始めた。
自分の大学4年間の立ち上がりは、夢もプライドも捨てた自分に対する「ごまかし」だったんだと思う。もしくは「エゴ」か。
認められなかったのだと思う。
怖くて仕方なかったのだと思う。
「何かを追いかけていた自分」が保ってくれていたアイデンティティや、半分諦めながらもそれでも自分を突き動かしていたエネルギーが
失われていく不安、恐怖。
そんな自分を騙して、誤魔化すように何か新しい挑戦を始めたんだろう。
その舞台として、"体育会サッカー部" を選んだのは、捨てた夢に対してまだ未練があったからだというのは今振り返れば明確だ。
サッカー小僧の多くは、プレーする自分にアイデンティティを乗せる。自分を表現するものとして、サッカーに強く依存する。
失ったアイデンティティの中から、なんとか自分を形作ろうとして、自分を自分たらしめる、その何かを探した末の決断とも言える。
新しい挑戦への適応は、思いの外スムーズに進んだ。
「ビジネスとサッカーは似ている」とはよく言ったものだ。
不確実性が高く、正解がない世界。
自分と他者が作り出す、目まぐるしく変わる状況の中で、瞬間的に連続的に"意思決定"を取り続ける。
優れた組織を、優れた戦術をもって躍動させ、競争相手との駆け引きの中で優位を作る戦い。弱みを隠し、苦手な領域での戦いを避けることを目指し、相手には逆に弱さ脆さを曝け出しやすい状況を突きつける。
自らの強み・弱み・特徴・個性をよく理解し、それらから優位点を生み出すための"環境"の設計と、相手との駆け引きを巧みに進めるための"戦略"の構築、"意思決定"。
自分が始めた新しい挑戦は、組織や事業活動の側面からアプローチし、このクラブを強く、大きくすること。
「組織と戦略」
このポイントを操り、競争を勝ち抜くことはプレーヤーとしての自身のスタイルとも重なった。
祖父や叔父の影響で起業や新規事業に対する関心が強く、経営やイノベーションに関する論考・探究に強く惹かれていたことも、この挑戦を後押しした。
しかし、その先にあったのは自信喪失、自己嫌悪の日々だった。
サッカーをしたくて集まった人たちの中で1人、組織基盤の必要性を説くこと。サッカーだけでなく、学業やアルバイトで多忙な皆の心を動かして、事業を成功させること。変化に伴う痛みを引き受けて、責任を負って、自らだけは折れずに目標へと突き進むこと。その意志を強く持つこと。
苦しさを感じなかった日は、1日たりともなかったように思う。
思い通りにいかないことが続き、見込んだ成果が溢れ落ちていく。自らが誇る能力が過信だったと気づき、日に日に弱気になる。新進気鋭のルーキーだった生意気な自分の、角が取れていく。
特に苦しんだのは、人間関係だろう。
自分と近岡がスタッフとして入部をしたことをきっかけにこの部が大きく変わっていく中、コロナで活動の形が変わったことも影響し、部内でのマネージャーのプレゼンスが低下する事態となった。
「自分がクラブの"和"に悪影響を及ぼしているかもしれない」と、責任を強く感じた自分は、マネージャーの先輩方の活動環境を少しでも良くできるように、クラブが変わりゆく中でも誰もが変わらずに躍動できる環境を作るために、頭、心、時間、労力を注いだ。
つもりだった。
どこかすれ違う。
自分の行う、一挙手一投足が仇となる。
「あなたのために」と心から思って行動をしても受け入れられず、それどころか相手の感情を害す結果となる。
自分の存在自体が、相手にとっては脅威であり、害悪と受け取られている状況。
あの頃は理解ができなかったが、思いやりだと思っていた言動が、ただの"エゴ"に過ぎなかったんだと思う。
万人にとって正しいこと、誰もが当たり前に考えること、そう捉えていたものでさえ、立場やバックグラウンドが違えば当然異なるもの。
この経験は、共感力や想像力の大切さを教えてくれた。そして、"人を変えよう" となど、考えない方が良いと学んだ。変えられるのは、変わるべきは、常に "自分" だ。何かを変えたいのなら、まず自分に明確な変化を起こすことだ。
選手や同期との関係にも悩んだ。
役職、役割、動機、意識が誰とも交わらないと、勝手に結論づけて距離を取ってしまっていた節があった。
これは4年間で最も大きな後悔かもしれない。
今となれば彼らは1番の理解者だったと思うが、自分が傷つかないように、意識や価値観のすれ違いが可視化されないように、あくまでも"同僚" の域を出ないような関わり方になっていた。
10年後100年後を見据えてサッカー以外の側面からのアプローチを進める自分は、とにかくサッカーがしたくて集まった彼らにとっては"毒"となる場面が少なくないことを理解していた。
自身の極端な性格や、ロマンチシストでビジョナリーな価値観がクラブに対して持つプラスの側面と、短期的なしんどさや大変さに繋がってしまう負の側面のうち、後者を極端に意識してしまった。
クラブに必要な意思決定が、必要以上の "情" によって乱れたり、迷ったりすることを恐れた。深くなった関係が、仕事を通じて濁るのが怖かったのだと思う。
きちんと正面から向き合うことをせず、逃げたんだろう。
この "ズレ" や "距離" は、競技スタッフとしての関わりを控えるようになった3年目以降、より深く大きくなっていった感覚があった。
自分の声が届かなくなり、信頼を築く難しさが大きくなった。求心力が失われつつあることを理解しながら、それでも前に立たなければいけない日々だった。
選手、マネージャー、フロントスタッフ、OB OG会、Aチーム、Bチーム、幹部会議。様々な観点を行き来し、板挟みになり、多くのジレンマを抱えながらクラブの長として意思決定を下してきた最後の2年間は正直とても苦しく、難しいものだった。
自分のせいなのに、ずっと孤独に感じていた。わかってもらえるものではない、と都合よく諦めをつけて向き合うことを放棄した。
理解ある頼もしい選手たち、フロントスタッフとして入ってくれた仲間たちの力をうまく借りれるようになって初めて、「リスクを負って、勇気を出して心から打ち解け合い、関係を築くこと」が役割の違う関係同士の間でも強く生産性を高めてくれることに気づいた。
もっと早く、みんなと向き合えていたら、どんなことができただろうか。どれだけみんなと笑えただろうか。
悔やんでも悔やみきれない。
話は当時に戻る。
そんな挫折、葛藤を繰り返しながら、いつしか自分の野望は少しずつ削られて、糸が切れるように、突然に先が見えなくなったのを覚えている。2年の夏頃くらいだったと記憶している。
"意思があれば、行動すれば、なんでもできる"と思ってた自分とは対照的に、"努力を続けても、自分じゃ何もできやしない"という思考が頭を覆うようになった時期だった。
突然に、と書いたが、実際には誤魔化し続けていた失望がコップから溢れただけのことだろう。
このクラブを日本一にする、そんなことできないんだと、悟るようになった。
ああ、結局また諦めるのか。
デカい夢を見るだけ見て、捨てる。
口だけ立派で、周りを巻き込むだけ巻き込んで、路頭に迷うオチ。
いつからか、自分のできないことばかり目について。「今日も何もできなかった」と振り返るのが憂鬱で、夜眠ることが怖くなったりして。
そんな状況から立ち直らせてくれたのは、意外にも、グラウンドで走り回る選手達の姿だった。
距離を取ってしまっていた、彼らだ。
入部当初は正直、選手達のことを少しバカにしていたような節があったのかもしれない、と今振り返ると思う。
それはきっと、自分が諦めたサッカーを、恐らくプロになる可能性は高くない彼らが、自分同様に諦めているはずの彼らが、死に物狂いでボールを追いかける姿と、簡単に終わりを受け入れた自分の姿が対比され、受け入れることを拒んだから。
なんでだよ。
なんでそんな必死になれるんだよ。
諦めてるはずなのに。
叶わなかったはずなのに。
グッドプレーをして小さな拍手が起こる、ロンドで楽しくなって盛り上がって高笑いする、グラウンドに行けば同じボールを追いかける仲間がいる。
昨日できなかったことができるようになる。
小さな希望を積み重ねて、現実を動かそうと努力を続けられる彼らに、かつての自分を思い出した。
うまくいっても、うまくいかなくても、仲間と競い合ってじゃれ合って、それが楽しくて、時には悔しくて。
リフティングの最高記録が1回でも更新されれば、その度に嬉々として両親に自慢しに行ってたっけ。
コーチに褒められるのが嬉しくて、良いプレーができた時にベンチをチラチラ見ていた自分を思い出す。
ツルコーチのブログに自分が出てきたら、嬉しかったな。
ヨウコーチ、ショウコーチ、ヤマコーチがサッカーノートに書いてくれる言葉に、何度も勇気づけられたな。
試合中、森先生に理不尽に怒られた時は内心半ギレだったけど、あれは愛情からくるものだったって本当は気づいていたし、照れくさそうに自分のことを褒める森先生の笑顔は好きだった。
小さな悔しさに本気になれたあの頃。
小さな喜びが世界を変えられる程の希望に思えたあの頃。
選手達が見せてくれたのは、そんな純白で綺麗なものではないかもしれない。
それでも、前に進むことをやめず、ボールを前へと進めることをやめず、自分だけでは成し得ないことを仲間と共に目指す彼らは、間違いなく"サッカー小僧"だった。
失敗なんて、なかったのかもしれない。
敗北なんて、取るに足らないものだったのかもしれない。
上手くいくとか、成し遂げるとかではない。
必要なのは、望むことだ。
手に入れられるかがわからなくても、そこに意味があるかわからなくても。
自分の可能性を信じること。
先が見えなくても、未来をイメージすることができなくても、今ある自分だけに根拠を求めて、前へと歩みを進めること。
いつだって、何をやる時でも、"play" しなければならないことに気づかされた。
誰しもがそうだったろう。
かつての自分は、駆り立てられるように、没頭するように生きていたはずだ。
始まりは "play" だったはずだ。
今その時を、楽しめているか。
心から求めているか。
自らが駆り立てられるような、
没頭するような生き方ができているか。
少しずつ視界が晴れた。
今の自分を、冷静に俯瞰してみた。
意外と面白いことやってるかもな、俺。
成果が出るとか出ないとか、日本一とか底辺とか、そんなこと抜きにして、俺にしかできない方向に走ってるな。
それはきっと打算なんかじゃなく、他者から見える自分やその評価に囚われたものではなく、単純に面白いと思えるものを始め、前に進めている。
エゴや未練と書いたが、間違いなくそこには好奇心があったはずだ。
スポーツビジネスの面白さ。
組織運営の難しさと奥深さ。
何も持っていない少年の人生を豊かにしてくれたサッカー。
振り返ると、競技である以前にサッカーは "カルチャー" だった。
物心ついた時、当時住んでいた川崎の街は既に水色に染められていて、サッカークラブを中心として広がるコミュニティの中で多くの体験をした。
街の雰囲気、人の温かさ、スタジアムの熱狂に満ちた雰囲気。
サッカーを通じて、喜びを知った。悔しさも知った。今なお自分の心を動かす感情の多くに初めて出会ったのは、サッカーの中でだ。
今ある友人や同志、あるいは師匠と呼べるような人たちのほとんどが、サッカーボールを介して繋がった人たち。
サッカー、スポーツがもたらす、『情動の解放』『感情の共有』『共同体の創造』はまさしく社会そのものの体をなし、多くの人の人生を豊かにする。文化を育て、経済を動かす。
ここで、ふと考える。
「プロサッカー選手になりたかったの、なんでだっけ。」
自分を自在に表現して、誰よりも輝きたかったからか?
多くの人に夢を与え、勇気を届けるプロサッカー選手の姿に単純な憧れを抱いたからか?
はたまた、母親や父親が良いプレーをすれば喜んでくれるのが嬉しかった、その感情の延長に浮かんだ姿なのかもしれない。
今の自分は、プロにはなれない自分は、そんな姿に少しでも近づいているだろうか。
ここで自らを顧みる。
するとどうだろう。
いつしか、一橋大学ア式蹴球部は東京都リーグの中で最も多くの観客を集めるクラブになった。
事業収入も、立ち上げた当初と比べると大きな額となり、黒字化を果たしたのはもちろん、今後の拡大余地は大きく飛躍的な成長を見据えている。
地道に行った会計制度改革、組織改革の成果もあり大幅なコストカットに成功し、事業収入と合わせた予算への効果はクラブの活動を大きく変化させた。
地域との関わりも深くなり、日に日に受ける声援は大きくなっている。
この街には、我々だからできること、我々にしかできないことが多くある。"言葉だけ" でも、"綺麗事" でもない、本質的な「地域活性化」を担うだけのポテンシャルを持つクラブとして、進むべき方向が明確になった。
スクールには毎週60人程の参加者が集まり、キッズフェスタでは試合後に選手たちにサインを待つ長蛇の列ができた。
イベントやお祭りへの参加にとどまらず、商工会や地域の事業者との共同でのプロジェクトも立ち上がり始めている。
大学サッカーでは例を見ない、革新的な新規事業も現在企画されており、少しずつ現実味を帯びてきた。
数年も経てば、このクラブはきっと、観客数は関東リーグの水準に達し、収益額においては日本一の大学サッカークラブになる。
この予感は確信に近いものだ。
ひとりで始めたこの挑戦も、多くの選手が関わり、事業を専任で担う頼もしい後輩たちが集まった。
「ナオキさんの姿を見て、憧れてこの部に入った」なんて伝えてくれる、気の利いた後輩にも恵まれた。
自分の生き様が、誰かの人生に良い影響を与えることができているのだとしたら、それは心から幸せなことだ。
悩みながら、もがきながら下した決断が、自分のアイデンティティを更新した。さらにそこから、クラブとしてのアイデンティティの一端を担い、切り開こうとする動きへと繋がった。
ここでまた、問いに戻る。
プロサッカー選手が表舞台で発揮するような価値を、形は違えど、自分にだってできるかもしれない。
わずかだが、そんな希望が見えた気がした。
スポーツビジネス、組織マネジメント。
このフィールドは、自分にとっての国立競技場であり、カンプノウであり、ウェンブリーだ。
ピッチを駆け回ることこそできないけど、クラブの勝利に対して出来ることはあるし、時には誰よりも輝ける。
自分が切り開く道が、誰かにとっての標となるかもしれない。
その姿で、夢、希望、憧れ、そんな、誰かの人生を豊かにする"何か"を届けることだって、きっと可能だ。
街の形だって変えれるかもしれない。
社会や経済に対しての働きかけは無駄じゃなく、確かな意味を持つ。
夢見た未来は、大きな遠回りをしながら、形を変えて、近づいてるのかもしれないと、前を向くことができた。
小さな体で夢みたその未来は、少しずつだが、確かに、輪郭を持ち始めている。
暗闇を抜け出し、気づけば2023シーズン。
チームは最高の結果を残し、有終の美という言葉に相応しい見事な優勝を果たした。
自分の人生において、忘れることのない経験であり、一年になったと思う。
何より、過渡期を迎えるア式において、変革の只中を共に歩んできた仲間たちが、日々の努力を最高のパフォーマンスで形にしたこと、彼らと喜び合えた幸せは計り知れない。
ナベとは、いつも真面目な話をしてきたな。
俺たち2人で、ア式蹴球部というクラブの "顔" として、プレッシャーに晒され、矢面に立ち、背負ってきた。お互いに信頼をして、背中を支え合っていたような感覚で一年を過ごしたと思う。ナベが最後、子供みたいに誰よりもはしゃいでる姿は相変わらず可笑しくて、心から嬉しかった。
コバとは、サッカーだけじゃなくて、事業活動でも沢山の時間を共にした。自分の考えを誰よりも共有した仲間で、クラブの未来のことをお互いに語り合ってきた。エースとしてピッチに立ちながら、ピッチ外のことにどの選手よりもコミットして、それでいて誰よりも楽しそうに躍動してた。コバがいなかったら、ここまで続けられなかったと思う。MVP、そして念願だったスクールの開業、おめでとう。ありがとう。
コマツは、自分が誰よりも心を許すことができた選手だと思う。そして、個人的に一番好みな選手だ。闘う姿勢を全面に出して、声を張り上げて仲間を叱って励まして。選手から刺激を受けて、勇気をもらって、と書いたが、間違いなくコマツの存在が大きかった。ア式の神髄を誰よりも体現してきたコマツの姿は、これからもア式で生き続けていくと確信している。コマツが復帰して、ピッチで見せてくれた1分に、実はこっそり涙を流していた。
ショウ。たまたま一年の最初のゼミで一緒で、ア式に入る前から繋がっていた、大学で最初の友達。国立で飯食ったり、zoomを繋いで海外サッカーを見たり、すぐに打ち解けた。そして共にア式の門を叩いた。競技スタッフとしての2年間は、毎晩のように相談して、2人でもがいて、協力して、やっとの思いでチームマネジメントをしてきたね。事業や組織に関心が傾いていた自分は、ショウとは違う道を辿ることになったけど、どこかでずっと繋がっていて、お互いの苦しみを理解し合える関係があったのはショウだけようにも思う。自分が折れそうな時は、いつも誰よりも早くショウが気づいて手を差し伸べて、時に叱ってくれた。俺とお前で、このクラブを強くするんだと、ショウが最大限のパフォーマンスを発揮できるような環境を俺が作るんだと、2人でこのクラブを変えるんだと、その思いが今日まで自分を動かしてくれた。かけがえのない出会いだ。
同期や後輩、先輩、酉松会の皆様、保護者の皆様。関わる多くの人たち、すべての人たちの笑顔を最後に見れて、本当に良かった。生意気で、面倒くさくて、こだわりが強くて、話がいつも長いこんな自分を、なんだかんだ受け入れて、支えてくれたことに改めて最大級の感謝を表したい。本当にありがとう。
個人に目を移すと、実は不完全燃焼だ。
部長として過ごした最後の1年は、多くのジレンマを抱えながら、様々なものに板挟みになりながら進むしかないシーズンだった。
事業と強化、学生とOBOG、選手とスタッフ、AチームとBチーム。先に述べたことの繰り返しになるが、そのバランスを取りながら、全体最適を目指して舵取りをし、部長としてスタンスを取ることはやはり相当に難易度の高いミッションだった。
自らの本来のパフォーマンスを解放できた年とは言い難い。
やりたかったこと、やり残したことが、ないと言ったらそれは嘘だ。
後悔も、沢山ある。
このクラブに対して、自分はもっとできた。より多くを残せた。今でも悔しくて、もどかしくて、眠れないような夜があるくらいだ。
それでも、前に進む。
自分の後を継いで、より高みへと歩みを進めてくれるであろう、信頼できる後輩がいる。
この後悔を糧に、未来をより良くするであろう、自分への期待がある。
この1年間を、いや、この4年間を、価値あるものにするのはこれからの自分だろう。
だから、
この4年間に、心から感謝したい。
歴史あるこの部で、誇り高きエンブレムに心身を捧げて、闘えたことは人生の財産である。これを糧にすれば、どんな未来にも進んでいけると思う。
まあ実際は、こんなポジティブじゃない。
毎日、希望と絶望の狭間を行ったり来たり。
自信なんて、まだ持てないし、持つために今も闘い続けている。
それでも自分は学んだのだ。
ピッチを走る選手の姿から、喜んでくれる観客の姿から、振り返ると確かに輝いている数々の経験から。
"望むこと"
"自分の可能性を信じること"
"playすること"
この学びを胸に、自分を奮い立たせるためにこの文章を綴る。
嘘でもいい。
この4年間を前向きに振り返る。
未来に繋げる。
諦めた夢から、得たものは何だ。
ボールを追いかけ続け、ゴールを目指し続ける、その過程で多くの教訓を得ていた。
意思を持って何かを望み、小さな努力でもめげずに続けることができれば、ボールを初めて蹴ったあの頃には想像もできないような、大きな進歩を得ることができるということを学んだ。
死に物狂いで戦った後の勝利や成功から、苦しさを感じる時もそれはきっと上り坂を登っていて、その先には例えようのない素晴らしい景色、何にも変え難い喜びが待っているということを学んだ。
いくら努力をしても届かない場所、敵わない相手がいることにも気付かされた。
ひとりよがりである時ほど、裏腹に自分のパフォーマンスが下がることに直面した。
それと同時に、自分ひとりでは敵わない相手にも、優れた組織と戦術があれば、充分に戦えることも知った。
何かを全力で追いかけた先には、必ずと言っていいほど、心強い同志、素晴らしい仲間との出会いが待っていることを学び、何度も助けられた。
夢を追いかけてきて、本当に良かったと思う。
ボールを追いかけて、夢を追いかけていくうちに、かけがいのない、数えきれない財産に恵まれた。
大好きなサッカーを心の底から楽しんでプレーできる身体も技術ももうないけど、プレイヤーとして大事にしてきた核となる強みや持ち味は今も自分の中で生きている。
自分はこれからも夢を追う。
何度破れても、挫けても、命ある限り馬鹿げた夢を見たい。
そうすればきっと、これまでの人生と並ぶ、もしかすると超えるような瞬間、出会いが待っていると、自らの経験が言う。
そしてこの4年の間に、新しい夢を見つけた。
私はいつの日か、ビジネスパーソンとして、経営人材として、プロサッカーの世界に入り、少しでも多くの人の今に、明日に、夢や希望を与えるような活躍をしたい。
これが自分の人生を懸けて叶えたい夢の一つだ。
PSBでスポーツビジネスを体系的に学び、業界の最前線に立つ偉人たちと対話する機会に恵まれた。その中で、事業特性と競技特性の双方を高い解像度で捉え、業界にイノベーションを起こせる、"論理" と "創造" に長けた人材が求められていることを強く感じた。
幸運にも若くからこの領域に関わり、このクラブで多くのトライ&エラーをしながらスポーツビジネスの解像度を高めてきた。
それだけではない。
私は誰よりも強い使命感を抱いている。
人生を変え、豊かさや彩りを与えてくれたスポーツ文化への "感謝"。
子どもたちの目を輝かせ、疲れた会社員の心を躍らせ、老人の脳を刺激する。その体験から、人々に希望や勇気を与える職業に対する "憧れ"。
かつての仲間や恩師との "約束"。
これらの要素が自分を駆り立てる。
2021年末。
クラブを去る戸田和幸前監督が小平グラウンドを訪れる最後の日。キャンパスを車で出る戸田さんお見送りした時に、握手をしながら伝えられた言葉を思い出す。
「別れにはなるが、俺が先にプロの世界に行くというだけの話だ。直紀もいずれ来る世界だろうから、それまではなんとかクビにならずに頑張るよ。お前も頑張れよ。」
そんなことを冗談混じりに伝えてくれた。
入部をしてから、戸田さんと誰よりも多くの時間を過ごして、競技スタッフとして勉強させてもらい、戸田さんをサポートする中で沢山のことを学んだ。そして時が経つにつれて、競技ではなく事業や組織に関わることこそが自分の活躍すべき領域だという思いが強くなっていた。
最初のシーズンを終えた時、迷いながらも、その率直な思いと、その時はまだ少し曖昧だった将来の夢を伝えた。
お前ならやれる、お前のような奴が業界を動かすんだ、と強く背中を押してくれた。
その日から、戸田さんが自分にくれる言葉や指導の基準は "プロフェッショナル" になった。
「いつか業界のトップに立ち、組織を動かすのであれば、今の直紀のパフォーマンスでは到底不十分だ」と、自分の未来を自分以上にリアルに捉え、その高い基準に即して励まして、沢山叱ってくれた。
自分の曖昧な夢を認めてくれて、自分のポテンシャルを高く買ってくれて、信じてくれて、大きな期待をかけて育ててもらった。
プロとして、世界と戦ってきた偉大なロールモデルが日々何考え、どんな生き方をしていたか、その哲学や生き様を1番近くで見てきたから、今のままでは充分じゃないのは勿論わかっている。
それでもやはり、その期待に応えたいし、いつかは戸田さんと肩を並べて仕事ができるような、そんなプロフェッショナルになりたいと思う。
次はプロの舞台で再会する。
約束として、自分の胸にそう誓った。
拓夢くんや、潤くんとも、いつか一緒に仕事がしたい。
かつての仲間や、憧れの存在と、肩を並べて挑戦する日々だって、叶わない夢じゃない。
この夢は、決して未練からくるものじゃない。
誤魔化しでもない。
選手じゃない側面からクラブを強くするということに向き合い、悩み、夢中になる中で確信した、自身の適性や使命、さらには想いの強さ。
それらから少しずつ確信を持ったビジョンだ。
それを望めば、少しでも良い未来が待っている。
そう信じて明日から、いや今日からの日々を生きよう。
遠回りをしても、時間がかかっても、夢に向かって進んでいく。
心はいつもサッカー小僧のままで。
サッカー人生の中で、私には「父親」「母親」と言えるような人たちに数多く囲まれ、愛情を注いでもらい、育ててもらった。
自分の成功を、自分以上に願い、喜んでくれるような人たちに囲まれて生きてこれた幸せに今、感謝したい。これまで関わってきてくれた全ての指導者が今の自分を作ってくれた。
指導していただいたすべてのコーチ・指導者の皆様、共に戦って来たチームメイト、いつでも声援を送り共に戦ってくれたその父兄の皆様に、心からの感謝を伝えさせてください。
本当にありがとうございました。
特に、家族には感謝してもしきれない。
我が儘でこだわりの強い自分の意思を常に尊重してくれたこと。
どんな時でも自分の決断を応援してくれたこと。
勝っても負けても温かいご飯を作ってくれて、泥まみれ汚したユニフォームをいつでも綺麗な状態にしてプレーさせてくれていたこと。
自分のプレーが大好きで、いつも大きな声を出して応援してくれる最高のサポーターでいてくれたこと。
今振り返ると、本当に多くのものを与えてもらっていました。
大好きなサッカーに、今日まで関わってこれたのは紛れもなく両親、そして尊敬する兄貴のおかげです。
本当にありがとう。
時間はかかるかもしれないけど、何倍にも大きくして恩を返していきます。
最高に幸せなサッカーライフでした。
少しだけ外の世界を見てきますが、またいつか帰ってきます。
またいつか、その日まで。
一橋大学ア式蹴球部
2023年度 部長
長島 直紀