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他人ってなんだろね

今週は疲れてしまった。
上司が濃厚接触者になり、元々人数が少ない職場で何とかまわしていった。
自分の負担が増えながらも、周りの方はそれを察して、「負担が増えるからね」という言葉を何度もらったことか。
上司には度々連絡を取り、仕事の進捗を報告しながらも、逆に家庭での様子の報告を受けた。
家族間での会話はスマフォを通し、食事は全部使い捨てにして、消毒を怠らなかったという。
ただ、感染者となったお子様の様子を見に行くわけにもいかず、それが心配になり、様々な不安に襲われる中で、ただただ気分が落ち込んでいったということを聞いた時、話を聞いている自分も少し引きずり込まれた。
それでも、木曜日からは復帰して、通常運転になりながらも、今度は急な仕事が舞い込み、それを課内で誰がやるかという政治的動き。
係がいくつかある中で、一週間一人派遣しないといけない。
いかに、できない理由を探して、それを押し付け合うか。
元々はその派遣業務は定期的に回ってくるからローテーションを組んでいたはずなのに、自分たちのところへ順番を飛ばそうとする動き。
そこで復帰した上司が、綺麗にまとめて、報告期限が過ぎてから何とか決まった。
自分はその動きを知りながらも、上司と日頃から綿密に話し合っていて、想いを共にしており、その想いを託し、上司に動きを任せた。
人数が少ないながらも、日頃からの些細な、時には他愛のないコミュニケーションにより、自分は全幅の信頼を上司に寄せ、その場が何とかおさまるだろうと信じていた。
それでも、そうした動きやらなんやらで、今週はとにかく精神的にも疲れてしまった。

そんな中でも、読書はちまちましていて、今週読んだ本から気になった言葉をいくつか紹介する。

詩集。
主に口語≒話し言葉で書かれており、こうした点における読みやすさがあるものの、内容的には不思議なもので、わかったようなわからないような不思議な感覚に襲われる作品集。
何か掴めそうで掴めない。

冒頭の作品群には、どこか性愛的な要素を感じさせるような短めな作品が並んでいる。

封じられて
わんきょくする
えんどうくんの半身に
ぼくという春は
磔にされました
たいいくの授業の
あとの教室で
ぼくという性は
失語しました

「受難」蜆シモーヌ

少女の性はそらへさくれつし
十二才が満了する

「命令」蜆シモーヌ

このひらがなと感じの使い分けも独特で、「たいいく」とか「そら」とか漢字で書けそうなものをひらがなにし、かといって、十二才だときっと「満了する」なんて言葉を日常では使わないだろうに、漢字で書かれているという。
さきほど、性愛的、なんて安易に言ってしまったけど、両者において、「性」はむしろ、消失していくものとして書かれているんだね。

で、そんな不思議な魅力を持った作品群が前半にある中で、途中と終盤に気になった作品が二つ。

わたくし
よろこばしき
浄土をもとました
わたくしと
わたくしでないものとのあいだに
わたくし
よろこばしき
浄土をもちました

「まわるまわるわうわまわるわ」蜆シモーヌ

浄土、って正直、どういうものかわかっていないんだけれど、とにかく、それが語り手にとっては、「よろこばしき」ものであるということ、よいものであるということは明確であって。
一見不思議な表現なんだけど、「わたくしでないもの」というのは、言い換えれば、「他人」のことなんだろうね。
「浄土」というのは、意味を理解していなくとも、きっと空間を示す言葉であることは何となくわかるから、「あいだ」にそういった「よろこばしき」空間をもつことができた、という「わたし」の報告がされているんだね。

で、どうしたら、「わたし」と「他人」がそういった空間をもつことができるんだろうね。
ってことは、その作品自体には、直接的に書かれていないけれど、終盤にある、とある作品にその答えがあるような気がしていて。
(ちなみに、タイトルの「まわるまわるわうわまわるわ」というのも不思議で、「まわる、まわるわ、うわまわる(上回る)わ」と区切ることができるけれど、「まわる」という言葉のように、こうやって言葉を連ねると、その「まわる」感が演出されているような気がするね)

ふゆはそらごとつめたいです
あたし
あなたのことばを
買いにいきます
あなたのことばが
ただではこまる
ほんとうは
あたし
手もだせない
でも
やさいや
おこめや
みそやしょうゆや
すこしのごほうびを
買うように
あなたのことばを
買いにいける
あたし
それがうれしくて
おさいふをにぎる手が
うれしくて

「あなたのことばを買いにいきます」蜆シモーヌ

「あなたのことばを買いにいく」ということ。
これって変ですか?
いや、言われてみると、きっとその通りで。
友達に会いに行って話をする、本を読む、ネットで記事を読む、ライブを見に行く、映画を観る、どれもこれも、何かしらのお金を払って、「ことば」を得ることじゃないのかな。
実は、数年前、人と会うことに対価を払うことがつきもの、ということに気づいていて、それをテーマに詩を書いたことがある。
同じような考えに出会えたような気がして、この作品を読んでとても嬉しくなった。
この作品が言っているように、この作品が載っているこの詩集を買って、蜆シモーヌさんのことばを買っている。
その対価を払うことをためらうことなく、この作品の語り手は「うれしい」と述べている。
きっと、こうした想いが、「わたしく」と「わたくしでないもの」とのあいだに、「よろこばしき浄土」があるのかもしれないなって。

前もお金についての記事を書いたことがあるけれど、そもそもお金って、他人がいなかったら全く必要ないものなんじゃないかな。
他人の労働、手間、生産物、時間、サービスに対して、お金という代替物を支払うことで、様々なものを手に入れることができる。
誰かの「ことば」を得るというのも、その誰かの生が含まれているものであって、人生、と言えば、何だか陳腐だけど、でも、文字通りの「人生」、人の生があるからこそ、「ことば」が生まれて、それを得ることができるのであって。
それを得るためには、自分の何かを対価として支払う必要がどんなに些細でも生じてしまう。
ネットだって、ただのようだけど、通信費用や電気代とかかかるもんね。
無料で手に入れられる「ことば」はきっとないんだよね。
あ、そうそう、他人がいなければお金が必要ないってのは、誰も自分に対して何かを施してくれることがなければ、払う必要はないし、お金があったとしても、そもそも払うこともできない。
にわとりがさきでも、たまごがさきでも、いずれにしても、他人がいなければお金を払えないよね。

少し考えがまとまったところで、今日はそんなところで。
報いとか見返りとか求めて動くべきではないとわかっているんだけど、渦中にある時って、そういうものをどうしても欲してしまうよね。
でも、こういった想いって、気持ちが整理された後だときれいごとしか言えなくなってしまっていて。

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