面白くない話。

つくづく思う。
私の話は面白くない。

noteを読んでいると面白いエッセイを書いている人ばかりで、自分を振り返ってみると面白いかどうか以前に自分の書いているものが果たして『エッセイ』と呼べるかどうかすら怪しいものだ。

自分が面白くないことを自覚するのは難しい。
気づいたとしても、「別に人に見せるために書いてないし」などと言い訳をして目を逸らしてしまう。

わざわざ人目に付く媒体を選んで何が『人に見せるためじゃない』だ。
それなら、適当なスマホのメモ機能にでも書いていればいい。
結局、誰かに自分を認めて欲しいのだ。

かと言って、他人に認めて貰えるための努力はしたくない。
あくまで、今の私が作るもので認めて欲しい。
わがままこの上ない。
面白くないものを面白いと言って欲しいだなんて、自己愛強すぎのヤバいやつ。


何が面白くないのか考えてみることはある。
面白い誰かのエッセイを見て、面白くない私の文字列を見て。
繰り返すうちに、自分の文章の浅さが気になるようになった。

私の話は浅くて面白くない。
どうして浅いんだろう。
話題に対する深堀りが足りないのだとは思う。
深堀り出来たとしてもそれを文章にする技量が足りない。
頭の中では色々と書きたいニュアンスは思いつくのに、言葉の型にはめようとすると全部漏れ出ていくような感覚がする。
下書きの中に大量に溜まった未完成の記事はその証拠。挫折の残骸。


私はエッセイというジャンルを舐めていた。
だって、芸能人が本を出す時って大概『自伝的エッセイ』とか『フォトエッセイ』だから。
そういうものが書店に大量に並んでいるのを見ると、「エッセイなんて誰でも書けるんじゃね?」調子に乗っていた。


でも、実際はそんなことは無い。
自分で書いてみて思う。
芸能人は書けるだけの様々な経験をしているし、発信したい人達なだけあって技量もある。
(書籍化にあたってプロの手が加わっているところもあるだろうが。)
俳優さんも芸人さんもモデルさんも、皆それぞれちゃんと毎日何か自分からアクションを起こしていて出来事に出会えているのだ。
後はそれを文章に出来れば面白いエッセイの完成である。


対して私はどうだ。
社会を諦めて数年が過ぎた。
出来事に出会うのが面倒くさいから、基本家から出ない。
子供の頃に全力を出しすぎて、今は何かをするだけがもう面倒くさくて仕方ない。
発信するどころか受信の一方で、ギリギリの人間関係とたまの遠出で何とか人間らしさを保って生きている。

そんなほぼ諦めている人間らしき生き物がどんな面白い話を書けるというのだろう。
本当に才能のある人はそんな毎日からも何かを見つけて分かる人には分かるような話を膨らませるのだろうけど、私にはそんな鋭い着眼点と語彙力が無い。


私が毎日感じているのは「何もかもこんなはずじゃなかった」という足りない自分への嫌悪感、「こんな毎日を終わらせて欲しい」という他人任せの願望、「たくさんの人に愛されてみたかった」という腐った承認欲求くらい。
その支配に抵抗して生きていくので精一杯だ。

すごいネガティブ。
この記事を上げることもビビっている。
面白くない人間が「自分が面白くない」という暗い話を上げるのだから。
私は、苦悩する自分すらかっこいいと思えるようなナルシシストじゃない。
もしそういう人なら、こんな自分もネタにできるのだろうか。

今日も終わる。
朝から雷の心配ばかりしているよく分からない夏の日だった。(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?