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外国語を学ぶことは、その国の文化を学ぶこと

我ながら陳腐なタイトルですが、昔から言われている言葉です。
今回はその視点からの考察を少々…。

図書館にリクエストしていた「外国語を身につけるための日本語レッスン」が手に入り、一昨日から少し読み始めています。
タイミングよく、新板さんとNicchiさんの間で、日本語と韓国語の類似点と相違点、またそこから進んで日本語母語話者と韓国語母語話者のレトリックの類似点と相違点についての議論が進んでいて、こちらも興味深く拝見しています。

問答型レトリック(問いと答えを積み重ねていく対話)と羅列型レトリック(問いに対して直接的には答えず、その周辺の話で応答する対話)の違いを認識し、その差異をまず母語で埋めることが、外国語学習には必要であるということが、この図書の論旨なのですが、お二人はその逆、外国語母語話者が日本語を学ぶにあたり、問答型→羅列型への切り替えを意識させることが日本語学習に重要か否かを検討されています。

お二人の日韓の母語話者の思考の議論に私が入る余地もなく、この稿では私が思いついたことを違う側面から散文的に書こうかと思います。(これぞ日本人の得意とする羅列型レトリックですw)

エピソードは2つ、まず一つめ。
私は数年前に少しだけ(ほんの少しです)中国語を齧ったことがあります。
入門編のその授業は大学教授が来られて、中国語の基礎を仕込んでくださるのですが、月に一度だけ中国人留学生(その大学の院生でした)が来てレッスンをしてくださいました。
何度めかのレッスンで、一般動詞を扱ったのですが、その代入練習で先生は「皆さんどんな中国語が知りたいですか?何でも聞いてください。」と仰いました。
その質疑で最も印象深かったのが『遊ぶ』に対する回答でした。
ある女性の「友達と遊ぶの『遊ぶ』は何と言うんですか?」という問いに先生が困ってしまい、該当する中国語がないと言われたのです。
ただよくよく考えると、私の拙い語学力でも同様の英語の答えは『chill』しか思い浮かびません。(これも語源とは異なる用法・いわゆるスラングなので)
なるほど、彼らは曖昧な表現はしないのだと妙な感心をしたのを覚えています。(その理解が正しいのかどうかは、わかりません。)

そこで私が「では、先生は友達から『遊びに行こう』と誘われたら、どう答えられますか?」と重ねて質問しました。
こうなったら語学学習そっちのけです笑
興味の赴くままに先生に質問しました。
『遊ぶ』の概念が母語になければ、彼女は返答に困るはずです。
そして大学院生という立場を考えると、そういったシーンは、彼女の日常に必ずあったはずと想像しました。

はたして先生は、その際、答えに窮したことを認め

「何をするか訊きます。」と、答えてくれました。

そこで念押しで質問。
「それは、食事なのか、映画なのか、ショッピングなのか、その具体的内容を尋ねるということですか?」
先生は私の質問に「それは必ず確認すると思います。」と仰いました。

私にとっては、その答えがその日一番の収穫でした笑


そして2つめは昨日の教育実習での出来事。
クラスメイトの模擬授業の時の話です。
彼のテーマは「〜できるようになりました。」
授業の後半に各学習者に「〜できるように」なったことを質問していくのですが、ある中国人留学生が「日本人の心を知ることができました。」と答えたのです。(さすが上級者、質問の意図の斜め上をいく圧巻の回答ですw)
この回答だけで、問答型レトリックの母語話者が日本語習得の過程で羅列型レトリックを学んだ!とは言えませんが、より多くのサンプルで検証する価値はあると思います。

外国語を習得する鍵はスキーマだという話は、今までの養成講座で耳にタコができるくらい聞かされましたが、ここもそれが大きく関わっている気がします。

#日本語教師 #外国語を身につけるための日本語レッスン #日本語教育養成講座 #異文化理解

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