柏木君に聞こう
うちの近所に柏木君という青年がいる。物静かで愛想がよく、なめらかな印象の好青年だ。
近所のおじさんやおばさんにも人気で、相談を受けている姿をよく見かける。頭もよく、たいていの質問には「さあ」か「わからない」で返す。
柏木君はたいてい公園か公営住宅裏の空き地にいて、悩み事があるときはそのどちらかに行けばだいたい会える。それはこの町にいる人ならほとんど誰もが知っている。
でも、柏木君についてそれ以上のことを知っている人はほとんどいない。仕事や年齢はもちろん、彼がどこに住んでいるのかさえ誰も知らない。噂だけが独り歩きし、何が本当なのかわからなくなっていた。
見た目は20代くらいなのに、弟子を持つ陶芸家だとか、世界中を旅する写真家だとかいう噂がまことしやかにささやかれている。もっとも、それは悪意のある噂というよりは、むしろ世間話の一つだった。天気の話をするのと同じように、僕らは柏木君の話をする。もはや真偽は二の次で、ただ彼の話題を楽しんでいるだけのようになっていた。
それはひとえに柏木君の人柄なんだと思う。本人に直接聞いたことのある人もいるらしい。でも、聞かれると柏木君は照れたように笑い、むしろこちらがぶしつけな質問をしてしまったかのような感じがして、思わず「なんでもない、気にしないで」と言ってしまうそうだ。柏木君はそれでも照れたように穏やかに笑う。
僕も一度だけ柏木君と話したことがある。話したと言っても、どちらかと言うと立ち聞きに近い。去年の秋頃、町内会長と役員のおばちゃんが話しているところにたまたま出くわした。話題は毎年恒例の桜祭りのことだった。
このご時勢、来年はどうしようかという話だ。去年は規模を縮小し、なんとか形だけは開催した。でも訪れたのは十数人だけだった。来年はそのぶん盛大にやる予定だったけれど、この様子だと多数の参加は見込めないのではないか。ならば無理をして例年通りの形にこだわらなくてもいいのではないか。
と、そこで僕が、柏木君に聞いてみたらと提案すると、やはりそうか、そうするしかないかと話が進んだということだった。たぶん会長さんたちもとっくにそうするつもりで、誰かが言ってくれるのを待っていたに違いない。
柏木君は公園にいた。器用に紙飛行機で輪を描いていた。立った場所からほとんど動かずに紙飛行機を飛ばし、きっちり3回まわって手元に帰ってくる。風が吹いても軌跡はほとんど同じだ。見事な技にしばし見入ってしまった。紙飛行機が手元に戻ったタイミングで、役員のおばちゃんが話しかける。柏木君は「はい」と丁寧に答え、「寒いですから」と言って風の当たらない木陰に僕らを案内した。
一通りの話を聞いた柏木君は、温和な表情のまま紙飛行機の主翼を撫でて答える。「さあ…私にはちょっと」
会長さんが聞き直す。「そしたら、やっぱり今年はちゃんとした形でやったほうが?」
柏木君は一呼吸つくようにゆったりと間をあけて、「わかりません」とだけ答えた。
全員に衝撃が走った。会長さんも役員のおばちゃんも、そして僕も、同じことを悟った。
「…中止、ということかい」会長さんが皆の思いを代弁する。「小さくやるんでなくて、もういっそやめてまうと、そういうことかい」
おばちゃんも言う。「そらね、私らだって一度は考えたさ。そんでもねえ…、桜祭りって言ったら昔っから一年一度の楽しみんなんて。私らのじいさんばあさんの時代からずっとやっとる。やめちまったらそれこそ町の元気がのうなってしまうんて」
それっきり誰もしゃべらなかった。しばらくして会長さんが重い口を開けた。「ほんでも、柏木君がそう言うんなら」
今年、結局桜祭りは中止になった。こんなことは戦争中以来だと、町のじいさんばあさんは語っていた。でも、誰も悲しんだり残念がったりはしなかった。誰が言い出したのか、柏木君が助言したらしいと噂になっていて、誰もが、柏木君が言うならと納得した。この町で何かが大きく変わるとき、そこには必ず柏木君の助言があった。そしてそれは必ず良い結果をもたらす。誰も表立っては言わないけれど、誰もが柏木君に一目置いていた。
たぶん彼はちやほやされたり褒められたりするのは好きじゃないと思う。それは皆なんとなくわかっていた。噂にもならないほど当たり前に、柏木君は落ち着いて静かに、気の向くまま、春の風のように暖かく穏やかなほうが似合っている、そう誰もが思っていた。
***
木枯らしの吹くある日の夕方、僕はめずらしく遠出して町の反対側まで来ていた。この町はそれほど大きい町ではないけれど、僕はこの辺りにはあまり足を運ばない。古びたバス停の近くまで来ると、目の前に公営住宅の青い屋根が見えた。僕はふと思い立って裏へ回ってみた。この公営住宅の裏には柏木君お気に入りの空き地がある。僕はふだんからあまり悩まないタチだし、特に相談事もなかったけれど、せっかくだから覗いてみることにした。
柏木君がいた。数匹の野良犬がいて、僕以外に人は誰もいない。柏木君は犬たちといっしょに空き地の真ん中に座っていて、まるで犬たちの相談を聞いているようだった。僕が「やあ、柏木君」と声をかけると、犬たちは僕のほうを振り返り、いっせいにワンと鳴いた。
柏木君もワンと鳴いた。
柏木君は犬だった。
驚いた。柏木君は自由で気まぐれで、僕はどちらかと言うと猫っぽいと思っていた。柏木君の体は僕の腰より下くらいで、灰色と白が混ざったふさふさの毛に覆われていた。顔立ちはきりりとしていて、青く澄んだ目でまっすぐに僕のほうを見ていた。
「彼らは柏木君の友達?」僕はほかの犬たちを指して聞いた。でも、柏木君はワンと鳴いて僕に飛びついてきた。ふさふさの長い毛は手触りがよくなめらかだった。彼の体はそれほど大きいわけではなかったけれど、僕はうっかり倒れそうになった。柏木君はしっぽをぶんぶん振って、しきりにハフハフ言っている。
空き地は端から端まで走っても10秒くらいの広さで、それほど広くはない。僕はそこで柏木君たちと遊んでしまい、気が付くと日はすっかり暮れていた。僕は彼らに別れを告げ、家路に就いた。
家に帰るともう夜8時を回っていた。僕はさっきのことを考えていた。柏木君はいったいどうしたんだろう。野良犬たちと何を話していたのだろう。彼らが柏木君の家族なんだろうか。だとしたら、柏木君はあの空き地に住んでいるのだろうか。柏木君の正体を知っている人はいるのだろうか。
そのうちに僕はなんだか、いけないことしているような気分になった。知ってはいけない秘密を知ってしまったような気がした。誰かに言いたいけれど誰に言ったらいいのだろう。言ってはいけない秘密だとしたらどうしよう。普段の世間話でうっかり言ってしまうかもしれない。僕はどうしたら…。
そうだ。柏木君に聞いてみよう。
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