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thu/23/Jan.
タイムラインに梅の花らしき写真がちらほら見られるようになった。「わたしは毎朝何を見て歩いているのか」と結構凹む。
「真冬に木の枝がからっからになるのがいいなあ」とか、「枯葉が大量にあっていいなあ」とか、逆に「登校班とすれ違う気まずさ」にすっかり負けていた最近。
毎朝8時前に登校する日々が一体誰の何のためになっていたのか、いまだに理解に苦しむ。自分がタブレットやスマホを持たされる現代の小中学生だったら、義務教育は100%余裕でドロップアウトしてるなあと思ったり。
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明日は課題が返ってくる日。走り切った1ヶ月を祝して、アマプラで映画を観ることにした。
適当に選んだものが、奇しくも日々のリピートを見直すような作品だった気がする。
この作品の主軸は「影をモチーフにした自己愛」なのかなと思いながら、物語を追っていた。
スマホもなく日々の虚飾を削ぎ落とした生活ぶりが、己の自己愛を極限まで削るようにして作り上げる主人公のライフスタイルとイコールだとすれば、前半部分までは日常に自己愛が溶け合うことに成功しているかのように見える。
しかし後半部分から顕になる主人公の怒りや情けなさ、憎しみと恨めしさなような感情が、同僚(後輩)をはじめ、近縁と思しき少女やその母親、街の人(お弁当を食べているOLとか)とのギリギリあるくらいのささやかな交流によって木漏れ日の如く繊細に表現されていく。
彼に「お前ならもっと他人と触れ合ったいい生活ができる」と言える人がいるなら、それはその行為自体にも他人に「もっとできる」と言い放つ世界観にも自己陶酔している。
言ってしまえば彼はこの生活を送るのが限界で、これこそが"perfect"な世界観で生きてきた。選べる、選べないや頑張る、頑張らないはまた別の次元の話である。
それ故、モノクロで撮った写真作品を選抜する彼の生活は、他人を評価すること、そして他人に評価されることを大袈裟と言えるほど拒否しているところに始まる。
世俗と手垢に塗れた精神世界の存在を拒否するようにして、自ら清掃員としてそのメタファーとなるトイレを清めて労働する姿は、女性にささやかながらも評価されることを夢見る後輩清掃員とは対照的だし、また、自身の内的対話の相手が近縁らしき少女であるのは幼少期への後悔と深い悲しみが見て取れる。
(わたしははじめはこの少女の存在が主人公の妄想なんじゃないかと考えていたくらいだ)
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スマホを持たずにここまで自己愛をセーブして生きていても、傷は抉られる。絶望的といえば絶望的だし、同時にそれは希望であると解釈する人もいるだろう。
日本人さえ理解していないスカイツリーの存在意義が"絶望"なのか、"希望"なのかという揺らいだ価値観が彼の生活を照らしているのも皮肉であり希望でもある。
皮肉と希望が混在した矛盾した価値観からの評価などは実に不確かで曖昧である。「こうした雑音はないほうがいい」と切り捨てるのもまさにその通りなので、好きな曲でも流しながらfeelin' good(いい感じ)と歌い、笑いながら(ときに泣きながら)不確実性の存在を静かに否定するという生き方や感情表現がある。
...みたいなことを考えた作品だった。「トイレ掃除に分類される仕事をサボるか否か」という心理作用をリトマス試験紙のようにもたらす効果も少なからずありそうだと思った。
人が嫌がる仕事をちゃんとやるか、理由をつけてサボるかはそれ自体で完結するのであって、決してその人の評価ではないのだよな。労働それ自体に対する評価と仕事が持つ意味を混同してはならないね。
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そんなわけで、膝の痛みが寒さと共に復活している。