#1 パリ五輪の期間中に敢えて細々と読み進めている本の内容に震える
「スポーツが憂鬱な夜に」がすっかりオリンピックモードだ。
わたしもスポーツに関連する本を読もうと思った。
しかし、あらすじや内容には言及しない。
感想を勢いに任せて書く、記事というよりメモ書きのようなものです。
まえがき
紙をスキャンするにも、わたしは書く字が超絶下手だ。署名をするときは必ずと言っていいほど「字を書くの早いですね」と言われる。(ちがう。雑なんだ...)
そんなわけで、普通だったら紙にサラサラと書く内容について本を読みながらわざわざこうしてiPhoneを手にし、てこてこ打つことにする。
今回の課題図書はこちら
『1252公認 女子アスリートコンディショニングエキスパート検定テキストブック』
本書は資格取得のための参考書である。
しかしわたしには、女子アスリートに競技を指導する知識もスキルもないし、そもそも関わりがない。
そんな自分がなぜ本書を手に取ったかというと、伊藤華英さんの著書を拝読したからだった。
こちらも併せてぜひ!(猛プッシュしたい)
『これからの人生と生理を考える』伊藤華英さん
こんなストレートなタイトルの本は、おかしな性癖を持つ変態はともかく、常識的な男性なら面食らうと思う。
それだけ、多くの人にとってタブーである月経とコンディショニングに関して業界が苦労し、無知すぎる素人や力不足の指導者の現状(偏見)が想像に難くない。
個人的に胸が痛み、しんどい思い出しか蘇らないトピックに切り込む1252プロジェクトをすすめられている伊藤さんに対し勝手ながら尊敬の念を抱き、SNSのアカウントにアクセスしてみると、課題図書へのリンクが貼られていたのだ。
「誰にも言えない」
女子アスリートの月経の問題って大変である。
デリケートな問題に無神経に関わろうとする選手(男性に限らない)も、指導者(男性に限らない)も、保護者(男性に限らない)も先輩(同性に限らない)も腐るほどいる。
わたしも月経についてバスケの指導者に相談したとき「生理が止まったら一人前。偉そうなことは生理が止まってから言えよ」とボールを体めがけてぶつけられた。その指導者にとっては「生理=口ごたえ」のなのである。
「口ごたえ=体にボールをぶつける」という論理と同じくらい意味不明だったし、今も意味不明である。
生理があり、コンディショニングの知識があって当たり前であるはずの女性の指導者だった。
コンディショニングリテラシー
個人的にはなんでもかんでもリテラシーをつけるのはあまり好きではない。
でも、月経をコントロールする知識を含んだコンディショニングリテラシーなくして女性のスポーツがどうのこうのとか、トレーニング法がどうとか、メンタルのあり方とか言われても、聞かされている方は「ふーん。あっそ」で終わる。
逆にリテラシーはありながらも「知っているけど、お前が相談してくるまで口を出さない。プライバシーは当然守るし、相談されたら内容によってはクリニックを紹介できる」指導者の言うことなら、人を簡単に信用しない汚い大人になった今の自分でも少しくらいは言うことを聞くだろうなと思う。
これは月経に限らない。おそらくメンタルに問題を抱えるとか、怪我や病気についても同様である。
当時の指導者と保護者の関係には選手が介在しなかった
女子として子どものころにスポーツをやってみて思ったことがある。男女を問わず、指導者は女子選手に支配的で父権制を強いる傾向にある。
わたしが競技をやっていたのは遥か昔のド田舎でもあったため、支配的な指導者は「スポーツで子どもを成功させて、自分も恩恵を受けよう」という打算的な父兄にはとてつもなく人気があった。そういう指導者の需要があるのだ。
選手に支配的で、一方的であるほど評価される。他方、選手として成功するのは支配に耐え、一方的な理不尽に耐えることが最低限の必要条件だった。
こうした父兄が代理経験するためのスポーツは、いまだに少なくないんだろうなあ。
子どもの試合を見ていてチーム問わず選手を怒鳴りつけるとか、指導者にものを言うとかを聞くことがある。「口を出すくらいならお前が走り回れよ。お前がやれよ」とか言ったら、めちゃくちゃ怒られるんだろうなあ。
父兄はあくまで代理経験である。代理人が当事者ヅラかよ。指導者も選手も大変だよね。
選手が「この指導者になら知られてもいい」と相手を選ぶ権利
選手のプライバシーについて考えることがある。プロアマ問わない。わたしも「情報共有」の名目で家庭環境が暴露されることも、本人が指導者に嫌がらせをされることもあった。わたしだけでない。
話がスポーツをやるコミュニティで完結すればまだ救いはある。しかし、わたしがスポーツをやっていたのはなんせド田舎だ。学校とスポーツクラブの人間関係を混同し、それぞれの事情を暴露し合うことが横行する。
指導者が学校の成績を知っているとか、学校の先生がスポーツクラブでの得意種目を知っているとかが常なのである。ここに同級生とその父兄が加わる。
スポーツを誰のためにやるのか
同級生にも父兄にも代理経験されるスポーツというのが確かに存在した。だからスポーツをすると、周辺がやかましい。
子どもにとってはスポーツをするのは、個人情報を晒すリスクとともにあり、そしてここに本人の意思が介在しないのである。
競技をするのも、やめるのも父兄や指導者の機嫌次第である。支配的で父権的なスポーツに、弱者(選手/子ども)の意思は実質除外されている。
それでもいい指導者っていてくれる
こうした状況に真っ向から立ち向かう指導者がたまにいる。
わたしはこの類の尊敬に値する指導者には、バスケの世界では会えなかった。指導者のガチャと言われればそれまでなのか。んなわけねえだろ。
競技をずっと続けたい子どもでさえ競技力その他の事情で淘汰されるのである。言ってることやってることのおかしい指導者なんて、とっとと淘汰されて然るべきである。
その一方で、人生の師に出会えることもある。わたしがもしテレビタレントで「これから会いたい人にマスコミの力をフルに使って会わせてあげます」という状況を妄想するとき、わたしが何年かけてももう一度会ってお礼が言いたいのは水泳のコーチである。
保護者を説得しようとし、怠ける同僚のコーチ上司と闘い、業界の常識と闘い、わたしたちに惜しみなく技術を授けてくれる姿を近くで見るに、いつも「こういう大人になりたい」と思ったのはそのコーチだった。
競技を探求するとともに、業界とも、ド田舎のクソみたいに支配的で父権的なコミュニティとも勇気を持って全力で闘う姿は、本当に格好良かった。
トレーニングに関する記述を読んでいるとき、そのコーチのことを思い出した。
コンディショニングが"全面的に100%"選手個人の自己責任なわけがない
支配的で父権的なスポーツに浸かっていると、練習と試合の境界が曖昧になる。なんせ理不尽に耐えるのがすべてなのである。んなわけあるか。
スポーツをやっている選手にとって最も理不尽なのは、残酷かつ時おり幸福な試合結果である。「理不尽な結果に耐えるために理不尽を支配的に強いて選手を管理すれば全勝できる」などとのたまう指導者は三流である。
「理不尽に立ち向かう理不尽以外の要素とは」これを追求するのが「指導」である。哲学的な問いのない指導者の戦術なんてたかが知れている。
確かに、選手がすべてをセルフコントロールし、指導者不在でも一人で練習ができ、試合で勝てるのは理想の一形態である。
しかし、そうした現実味のない理想論を持ち出して指導者自身のコンディショニングリテラシーの欠落を正当化するためだけに、選手本人にコンディショニングを押し付けるのも、コンディショニングを名目に私生活に土足で踏み込むのも、ひとえに指導者の力不足である。
「すべてが選手の自己責任」だと言うなら、一方的で父権的なトレーニングやルールなど課してはならない。都合のいいときだけ「自己責任」で逃げまとい、話をすりかえているだけである。
これがフェアなスポーツマンシップなのか否かも考えたこともない奴は、人にものを教えたり、選手に自分が考えた戦術を実行させるのは向いていないと思う。一方的にトレーニングや管理を強いるなら、人間よりAIのほうが優秀だ。
いま、人間の指導者の適性ってどういう物差しではかってるんだろうな...まさか適性のスケールも検査も存在しないんだろうか。いやいや常識のようにあるよな。
フリック入力しすぎて疲れてきたから、しばし雑談です
先日ある人と話したときに、こういうことが判明した。
わたしたちは今好きでみているサッカーに関して完全にド素人である。ただ、みることをあまりに長く続けていると、どういう選手の言動に矛盾があるかは試合をみれば分かる。
チケットを買ったりDAZNのサブスク代を払ってわざわざ試合をみている選手のコメントとプレーのことなんだから、誰が真っ当で、誰が誤魔化しながらやっているかはだいたい見分けがつく。
そして、そうした傾向が監督やコーチに依存するように起き、選手と指導者で互いに影響を与え合うことも、さっぱり言語化できないながらも理解している。たぶん、サッカーの試合がおもしろいのはこう言う要素が複雑に複合的に絡み合っているからでもあるんだろうな。
おわりに
この本の終章では、女子アスリートのメンタルヘルスについて述べられている。これが衝撃的なほどわたしの現役のころの内面を代弁してくれる内容になっており、思わず涙しそうになった。
支配され、犠牲になった多くの人間の上にこういう知見が明るみになり、常識になりつつあるのだ。
少なくとも支配に耐え、理不尽に耐え、自己責任を押し付けられ、代理経験による罵倒にも耐えながら、多くのフラストレーションを背負わされ、少なくない時間も経験も犠牲にした多くの選手たちの歴史を無駄にはしない決意に満ちている。
念のため
えーっと、ここまでキレ散らかしてるみたいな内容をたくさん書きましたが、わたしは指導者にボールをぶつけられてもバスケが好きでやっていました。スポーツをやっててよかったし、今みるのもすごく好きです。
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